「地下湖の岸辺」
目を開けた。
最初に意識したのは冷たさだった。
頬に触れているのは水——いや、水で湿った砂。蓮の体の半分は岸辺の泥に埋まっていた。コートの内側まで湿気が染み込んでいる。
次に感じたのは静寂。
完全な、何の音もしない静寂だった。深層の通路では常に何かの音——遠くの水滴、深層生物の鳴き声、岩肌の軋み——が聞こえていた。だがここには何もない。
彼はゆっくりと身を起こした。
全身が痛む。落下による打撲が肋骨、肩、左の腿に散らばっている。しかし骨折はないようだった。外骨格Mk.IIの打撃吸収パッドが致命的な衝撃を吸収してくれていた。
立ち上がり、周囲を確認した。
地下湖——その岸辺に彼は倒れていた。
湖は彼の正面に広く広がっていた。表面は鏡のように静止し、わずかに発光している。深層生物の生物発光プランクトンが水中に溶けているらしい。湖の対岸は見えない。少なくとも二百メートル以上の幅があった。
頭上は広大な天井。距離は推定五十メートル以上。天井の岩肌から逆さに垂れた鍾乳石がいくつも下を向いていた。鍾乳石の先端から微かに青い光が滴っている。地下の水脈と発光生物が一体化していた。
ここは地図にない場所だった。
ガラスの示してくれた深層マップでもローレンが指摘した第八十五層よりもさらに下。落下距離から逆算するとおそらく第九十層前後——地下のほぼ最深部に近い領域。
第九十層。
蓮はその数字を頭の中で何度か反芻した。
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装備を確認した。
パイルバンカーMk.II——シリンダーにヒビ。あと五発が射出可能。
外骨格Mk.II——主要関節は正常、ブースターは出力七十パーセント。
多段式ジャマー——三基、無傷。
電磁抗体スーツ——内部冷却機構が焼き切れている。ゼノンの最後の磁場攻撃で限界を超えていた。修理不能。
通信機——完全に焼損。ライアンとの定期通信はこれで不可能。
ホログラム端末——画面にノイズが走り続けているがぎりぎり起動はできる。マップデータは取り出せそうだった。
水と食料——三日分。節約すれば、五日。
ミオの位置を測る装置——なし。彼女は本人がいないと観測できない。
蓮は長く息を吐いた。
最低限の装備は残っていた。生き延びるだけなら、五日は持つ。だが仲間と再会するまで——どれだけかかるか、分からない。
彼はホログラム端末を起動した。
ライアンとの短距離通信を試みる——応答なし。
クロの携帯通信——応答なし。
エマのデバイス——応答なし。
ミオには装置がない。彼女は自分のマナ波形で位置を伝える。だがゼノンの磁場の余波がこの深部まで及んでいるらしく、計測器は何も拾えなかった。
完全な、孤立。
「……」
蓮は端末をしまい、立ち上がった。
仲間がいないことを何度確認しても状況は変わらない。ならば、動くしかない。
彼は地下湖の岸辺をゆっくり歩き始めた。
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岸辺を二十分ほど歩いた頃、蓮の足元の感触がわずかに変わった。
砂利の中に人工物が混じっていた。
彼はしゃがみ込み、それを拾い上げた。
金属の破片。長さ十センチほど、表面は錆びているが形状から元の用途が分かった。古い計測器の外装パーツ。製造年は計器の刻印から推測すると二〇二八年——崩落直前の、企業時代の装備だった。
誰かがここを訪れていた。
二十年以上前に。
蓮はその破片を握りしめたまま、周囲を見回した。
よく見れば、岸辺には人工物の痕跡が点在していた。錆びたボルト、潰れた金属管、千切れたケーブルの端切れ。かつて、ここに何らかの設備があった——その残骸。
彼は岸辺をさらに進んだ。
五分後、岩壁の影に鉄製の扉が見えた。
完全に風化した、しかし明らかに人工の扉。サイズは人間が一人通れる程度。表面にはかろうじて読める文字が刻まれていた。
「観測拠点・ZERO-3」
観測拠点。
ゼロ・スリー——その意味するところを蓮は瞬時に理解した。
レイヤー・ゼロ。地下世界の最深部、未到達領域。
その第三観測拠点がここにあった。
扉のロックは既に外れていた。手で押せば、軋みながら開く。蓮は内部を覗き込んだ。
小さな部屋だった。広さは十平米ほど。中央に古いデスクが一つ、そして壁面には錆びた計測機器の残骸が並んでいた。デスクの上には手書きのノートが開いたまま放置されている。
蓮はノートの上に被さった埃を慎重に払った。
最後のページの、最後の一行に——彼は見覚えのある筆跡を見つけた。
「観測終了。レイヤー・ゼロは確認した。次回、子に託す」
——工藤 透
父の、サインだった。
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蓮はデスクの前でしばらく動けなかった。
父がここに来ていた。
そしてレイヤー・ゼロを観測していた。
ノートの日付を確認した——二〇二九年九月。蓮の妹が消えた年の、直後の月。父がミオ計画から離脱して、独自の活動を始めた直後の時期と完全に一致する。
ノートを最初のページから読み返した。
観測拠点ZERO-3——崩落直後に企業が秘密裏に設置した、レイヤー・ゼロへの観測施設。地下第九十二層に位置する、人類が辿り着いた最深部の一つ。だが企業はミオ計画への完全集中のため、この拠点は早期に放棄されていた。
父は放棄された施設に密かに侵入し、独自に観測を続けていた。
ノートには詳細な観測記録が記されていた。
マナ・ネットワークの根源はレイヤー・ゼロにある。
地下から地上へ流れるマナの源泉はここから湧き出している。
そして最深部に存在する「何か」がそれを制御している。
「何か」——父はその正体をまだ確定できなかったらしい。だがノートの後半に仮説が書かれていた。
「アテロイドの結晶構造に知性の痕跡を確認」
「結晶そのものが思考している可能性」
「もしそうなら、ミオ計画は根本的に間違っている」
蓮は息を止めた。
アテロイドが思考している。
その仮説の意味するところは世界そのものの捉え直しを要求するものだった。地下資源だと思っていたものが実は地下に元から存在した、意識を持つ何かだとしたら——
ミオ計画はその「何か」を人間が乗っ取ろうとする試みだった。
父が計画を根本から止めようとした理由がここでようやく見えてきた。
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蓮はノートを慎重に閉じた。
これは持ち帰るべき情報だった。
彼はノートをコートの内ポケットに収め、観測拠点を出た。岸辺に戻り、周囲を再確認する。ここからどう動くか——それが次の問題だった。
地下湖の周囲を歩いて、出口を探すべきか。
それともノートに記されたもう一つの観測拠点——ZERO-4へ向かうべきか。
あるいは水を渡って、対岸を目指すか。
ホログラム端末でノートに記された地図を確認した。
ZERO-4はここから約二キロ東。地下湖の対岸を迂回する形で到達できる。深層生物の生息域を避けるルートだった。
蓮はその方角を見た。
二キロ。徒歩で約二時間の距離。
行く価値はある。
彼が歩き出そうとした、その時——
水面が揺れた。
彼は即座にパイルバンカーを構えた。
地下湖の中央、水面の下で何かが動いた。
大きい——全長十メートル以上。ぼんやりと青白い発光が水中に広がっている。深層生物。それも蓮が今まで見たことのないサイズ。
捕食種かどうかは分からない。だが気づかれていないうちに岸辺から離れるべきだった。
蓮はゆっくり後退した。
水面の発光はゆっくりと岸辺の方向へ近づいてくる。
気づかれている。
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第26話 完




