「氷使いヴァイス」
深層、三日目。
第七十二層を抜けた頃から空気が急に冷たくなった。
地熱の影響が及ぶ第七十層の溶岩工房とは対照的に第七十二層から第八十層にかけては深層の地下水脈が走る冷温地帯だった。気温は推定摂氏三度から五度。岩肌の表面には薄い霜が所々に張っていた。
クロは装備パックから防寒用のジャケットを取り出した。蓮とミオにも同様のものを手渡す。
「ここから先、温度差で能力を発動しやすい連中がたまに出没する」
クロが低く言った。
「氷使い、冷気使い、霜使い——深層の冷温地帯で進化した能力者たちだ」
「能力者? 深層に?」
「ああ。深層生まれの能力者は企業に登録されない。自分たちの居場所で独自に進化する」
蓮は短く頷いた。
深層の住人たちが独自の能力者集団を形成している——それはガラスやローレンの話からは聞いていない情報だった。深層の社会の、もう一つの層。
「敵か」
「場合による。深層生まれの能力者は基本的には他人に干渉しない。だが外部の依頼で動く者は別だ」
「ジオフロントの傭兵、ということか」
「可能性は高い」
クロは短く答えた。
その瞬間——ミオが足を止めた。
『……前方、百二十メートル先。生体反応、一つ』
「生物か、人間か」
『人間です。マナ波形、強い。能力者と判断します』
「単独か」
『……単独です』
蓮はパイルバンカーのセーフティを外し、クロもワイヤーグローブを起動した。
戦闘——三日目にして、初の能力者との戦いが迫っていた。
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前方の通路の角から一人の男がゆっくり姿を現した。
身長一八〇センチほど、痩身。白いコートに身を包み、頭部にはフードを被っている。年齢は三十代後半と思われた。素手——武器らしい装備は何も持っていない。
男は三人を見て、冷たい青い目を細めた。
「——工藤蓮、だな」
声は低く感情の起伏がなかった。
「お前を捕縛するよう、命令を受けている」
「誰の命令だ」
「ジオフロント」
男は率直に答えた。
「私の名前はヴァイス。深層生まれ、自由契約の能力者。ジオフロントとは仕事ベースの関係だ」
「ということは企業の差し金じゃない、と」
「企業もジオフロントも私には関係ない」
ヴァイスは肩をすくめた。
「金を払う相手のために仕事をする。それだけだ」
彼は両手をゆっくりとコートの中から出した。
素手だった——だがその指先から白い粒子がゆっくりと立ち上り始めていた。
「氷使い、か」
蓮が呟いた。
「お前の戦闘スタイルは事前情報にある」
ヴァイスは続けた。
「配信ダイバーを倒した戦術、ジャマー内蔵弾頭、新型パイルバンカー——全て、聞いている。だからそれらが効かない戦い方で来た」
「効かない?」
「氷の足場と長距離射程。お前の射程の外で私はお前を仕留める」
ヴァイスが両手を前に突き出した。
地面の岩肌が一瞬で凍結した。
三人の足元、半径十メートル以内が氷の床に変わる。さらに頭上の岩肌からは鋭い氷柱が無数に生え始めた。氷使いの能力は環境を改変するタイプだった。
「クロ!」
蓮が叫んだ。
「頭上の氷柱、撃ち落とせ! 俺は地面を」
「了解!」
クロがワイヤーを頭上に放った。
ワイヤーが氷柱に絡みつき、彼女の張力で氷柱を次々と根本から折っていく。割れた氷の破片が地面にシャラシャラと降り注ぐ。
蓮は外骨格のブースターを使い、氷の床から飛び上がった。三メートルほど跳躍し、岩肌の出っ張りに着地する。氷を踏まずに戦う、最初の選択。
ミオは後方に下がり、地面の氷を自分の周囲だけ、マナ干渉で軽く溶かしていた。彼女の管理者権限の応用——局所的な物理改変。
ヴァイスの目が初めてわずかに動いた。
「……三人協同戦闘か」
彼は短く呟いた。
「想定より面倒だな」
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ヴァイスは両手を頭上に上げた。
その瞬間通路全体の気温がさらに下がった。蓮の体感で推定マイナス十度まで急降下する。呼吸が白く凍るほどの寒さ。
広範囲冷凍——彼の本気の能力。
蓮は外骨格の内部熱を最大に上げた。ナタリアの電磁抗体スーツはある程度の温度変化にも対応する。問題なく動ける——だが長時間の維持は無理だった。
「クロ、エマ・クロフォードの位置は分かるか」
蓮が岩の出っ張りから低く聞いた。
「え?」彼女は驚いた。「何故、それを今——」
「あの女が近くにいるはずだ。ローレンから聞いた」
『……前方、右側の岩陰。距離、約四十メートル』
ミオが声を絞り出した。
「生体反応、明確。観察モードで動いています。武装はありません」
「観察、か」
蓮は短く笑った。
「戦闘を見学に来た、ってことか」
『そのようです』
蓮は再びヴァイスに視線を向けた。
「じゃあ、いいショーを見せてやろう」
彼はパイルバンカーを構え直した。
ヴァイスの広範囲冷凍は強力だが集中力を要する技だった。彼は両手を上げ、全身のマナを冷気の維持に注ぎ込んでいる。その間他の能力は使えない。
蓮の戦術が固まった。
ヴァイスを動かさず、長期戦に持ち込む——それが彼の狙いだろう。
ならば——短期決戦で強引に終わらせる。
「クロ! ヴァイスの足を止めろ!」
「了解!」
クロがワイヤーをヴァイスの足元に向けて放った。
ワイヤーが彼の両足首に絡みつく。鋼鉄の張力で彼の動きを束縛する。
ヴァイスは即座に両足周辺の氷を急速冷却で硬化させた。ワイヤーが氷の壁に阻まれ、彼の足元には届かなかった。
「読まれていた、か」
クロが苦々しく呟いた。
「普通の手だ。彼は予測していた」
「次の手は」
蓮は考えた。
氷の壁を内側から破壊する——その手段が必要だった。
ふと彼の視界の隅にミオが映った。
彼女は地面で目を閉じ、何かに集中していた。
「ミオ、何ができる」
『……ヴァイスのマナ供給を一時的に遮断できます。彼の能力の継続が約三秒間、止まります』
「やれ!」
『はい』
ミオの薄紫の瞳が強く光った。
その瞬間ヴァイスの周囲の冷気の流れが急に止まった。
広範囲冷凍が解除される。
ヴァイスが初めて狼狽した。
「な——!?」
彼の足元の氷の壁もマナの供給が途切れたことでわずかに脆くなった。
その一瞬をクロが見逃さなかった。
彼女はワイヤーを再び放った。
ヴァイスの両膝にワイヤーが絡みつく。今度はしっかりと。
クロはワイヤーの張力を一気に強めた——ヴァイスの両膝がくの字に折れた。彼は前方に倒れ、岩肌に頭から突っ込む形になった。
蓮はその隙に岩の出っ張りから跳び降りた。
ヴァイスの体の傍に着地し、パイルバンカーの先端を彼の首の真横——致命傷を回避した位置——に突きつけた。
「動くな」
蓮は短く言った。
「もう終わりだ」
ヴァイスは地面に倒れたまま、しばらく動かなかった。
数秒後、彼は降参を示すように両手を頭の上に置いた。
「……お前、情報通り、面倒な男だ」
ヴァイスは低く呟いた。
「仕事は失敗だ。——殺せ」
「殺さない」
蓮は短く答えた。
「ジオフロントに伝言を頼みたい。——『俺はお前たちの駒にならない』。それだけだ」
ヴァイスはしばらく沈黙してから頷いた。
「……了解した」
蓮は彼の体から距離を取った。ヴァイスはゆっくり立ち上がり、コートを払って、何事もなかったように通路の奥へと歩き去った。
深層生まれの能力者の、ある種のプロ意識。仕事に失敗したら、それを認め、潔く引く。プロの傭兵としての矜持だった。
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ヴァイスが完全に視界から消えた頃——
岩陰から一人の女性がゆっくり姿を現した。
金色の長い髪、整った顔立ち、深い緑色の瞳。地上人特有の、淡い肌の色。年齢は二十代前半。白いシャツとカーキ色のフィールドジャケット、首にはホログラムレコーダーを下げていた。
エマ・クロフォード。
彼女は岩陰から出てきて、十メートルの距離で足を止めた。
「——素晴らしいショーでした」
彼女は英語訛りのある日本語で言った。
「あなたは私が探していた、まさにその人ですね、工藤蓮さん」
蓮はパイルバンカーを下ろさなかった。
「あんた、何者だ」
「エマ・クロフォード。国際報道機関ニュー・ワールド・ニュース所属。——あなたをインタビューしに来ました」
彼女は両手を広げて、武装していないことを示した。
「私は企業の指名手配を信じていません。あなたの真実を世界に伝えたい。——お時間、いただけますか?」
蓮は彼女を見つめた。
敵か、味方か、まだ分からない。だが興味はある。
彼はパイルバンカーをゆっくり下ろした。
「……三十分だけ、ならいい」
「ありがとうございます」
エマはわずかに微笑んだ。
深層の冷気の中、彼女の白い息がゆっくりと立ち上った。
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第24話 完




