「溶岩工房の主」
深層、二日目の朝。
地下深部に「朝」という概念は本来、存在しない。だが深層の住人たちは生体リズムを保つために独自の時間感覚を持っていた。クロの起床もその慣習に従っていた。
彼女は誰よりも早く目を覚まし、敷物を畳み、周囲の生体反応を確認していた。蓮が目を覚ました時、既にクロは出発準備を終えていた。
ミオも慣れた動作で身支度を整えた。野営に二回目だが彼女の動作は既に深層育ちのリズムに近づいていた。
「今日は第七十層を目指す」
クロが地図を広げて言った。
「途中、第六十五層から第六十八層の岩盤地帯を抜ける。岩盤は不安定で音を立てると崩落の危険がある。注意しろ」
「分かった」
「目的地は溶岩工房。ローレンの場所だ」
「ガラスから聞いた名前だな」
「ああ。ローレンは深層の重要人物の一人。彼女に挨拶しないとゴーストタウンには入れない」
「礼儀作法、というやつか」
「生存ルールだ」
クロは短く答えた。
「深層では誰かの紹介状なしで動く奴は全員、敵と見做される。ローレンの認可がお前の身分を保証する」
蓮は短く頷いた。
深層の社会——表面上は無秩序に見えてもその下に緻密な信頼ネットワークが走っている。そこに突然外部から人が入る。正規の挨拶を欠かせば、撃たれる。
「行こう」
三人は敷物を完全に撤収し、洞窟を後にした。
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第六十五層から第六十八層の岩盤地帯は想像以上の難所だった。
崩落で斜めに崩れた岩塊が不規則に積み重なり、足場を見極めるのが困難だった。空気は乾燥し、岩肌から立ち上る微細な粉塵が視界を白く曇らせる。クロは岩塊の上を鳥のように軽やかに移動した。蓮は外骨格の補助を使いながら、慎重に後を追った。
ミオは蓮の動きを完全に真似て、一歩ずつ確実に進んでいた。
約三時間後、三人は第七十層の手前に到達した。
空気が再び変わった。
乾燥した熱気。岩肌がわずかに赤く焼けていた。地熱の影響が明確に体に伝わってくる。気温は推定摂氏四十度前後。深層でもここは極端な高温地帯だった。
「ここから先、水分を多めに取れ」
クロが指示した。
「汗をかいて意識が朦朧とする前に強制的に水を補給する。深層では脱水は死に直結する」
蓮はパックから水のボトルを取り出し、自分とミオの分を確認した。
ミオは初めての高温環境に汗をかいていた。額に薄い水滴。彼女の体は人間と同じく、暑さに反応していた。
『……熱い、です』
「無理するな。水を飲め」
『はい』
彼女はボトルから水を飲んだ。喉を鳴らして、自然な動作で。
蓮はその姿を見ながら、心の中で深い納得を覚えた。ミオはもはや、ただのシステムではない。彼女は人間と同じ感覚で世界を体験している。
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第七十層に到達した時、目の前に広大な空間が広がった。
溶岩工房——その名の通り、地熱で熱せられた洞窟に作られた、巨大な作業場だった。
中央には直径十メートルほどの溶岩流がゆっくりと流れていた。本物の溶岩ではなく、地熱で液状化した重金属の混合物——精製可能なアテロイドの原鉱と各種の金属が混じり合った、深層独自の冶金資源だった。
その周辺で約二十人の職人が防護服を着て働いていた。皆、火傷の跡を持ち、手と腕が機械化されている者が多い。深層の冶金技術者集団。
工房の奥に一段高い場所があった。そこに一人の女性が立っていた。
六十代と思しき女性。短く切った白髪、深い皺、両眼が金色に発光している。蓮はその眼の色を見て、すぐに機械化された義眼だと察した。ガラスのものよりもより高度な仕様だった。
彼女が三人に気づき、ゆっくり階段を降りてきた。
クロが軽く頭を下げた。
「ローレン。——お久しぶりです」
「クロか」
女性——ローレンは嗄れた、しかし鋭い声で言った。
「半年ぶりだな。誰を連れてきた」
「工藤の息子です」
ローレンの動きが止まった。
彼女はしばらく蓮を見つめてから口を開いた。
「……ようやく来たか」
その短い一言が多くの意味を含んでいた。
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ローレンは三人を工房の奥の個室に案内した。
個室は岩を彫って作られた、シンプルな空間だった。木製のテーブル、椅子三脚、壁には古い写真——崩落前と思しき、若い頃のローレンともう一人の人物が写っていた。
その「もう一人」が誰なのかは——遠目には分からない。だが写真の構図と顔の角度に蓮には見覚えがある何かを感じた。
ローレンは四人分の深層産のお茶を淹れた。湯気がゆっくりと天井に立ち上る。
「あんたの親父さんに最後に会ったのは二十年前だ」
ローレンは椅子に座って言った。
「彼はミオ計画の試作体の一人をここに連れてきた」
蓮の動きが止まった。
試作体。
ミオの基材の一人がここにいた?
「親父がここに……?」
「ああ。まだ幼い少女だった。八歳くらいだったか。彼女を企業から逃がすために深層に隠してほしい、と」
蓮は息を止めた。
八歳の少女。
二〇二九年——蓮の妹、工藤灯が消えた年の年齢。
「……名前は」
「灯だったかな」
ローレンは淡々と続けた。
「だが深層は八歳の子供が生きるには過酷すぎた。あたしは彼女を一週間預かった後、再び親父さんに返した。——その後彼女がどうなったかは知らない」
蓮はテーブルに視線を落とした。
妹は一度、深層に来ていた。
その情報は新しかった。サキもライアンもガラスも語らなかった情報。ローレンだけが知っていた、空白の一週間。
ローレンは続けた。
「その後親父さんは何度かここに来た。ミオ計画の中止運動の、戦略を練るためだ。あたしは彼の協力者の一人だった」
「親父は計画を止めようとして——殺された」
「ああ。そのこともあたしは聞いている」
ローレンは目を伏せた。
「あの男には借りがある。だから息子のお前にも借りを返す義理がある」
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ローレンはしばらく沈黙した後、口を開いた。
「もう一つ聞いておきたいことがある」
「何だ」
「お前と一緒にいる、この娘」
ローレンの金色の義眼がミオを見た。
「彼女はミオ計画の試作体か」
『はい』
ミオが率直に答えた。
『プロジェクト内ID:ジェネシス七号。基材は複数の人物の意識データです』
「……」
ローレンはしばらくミオを見つめた。彼女の義眼は何かの分析を行っているようにちらちらと光を変えていた。
数秒後、ローレンは短く頷いた。
「基材の一人はおそらく灯だね」
蓮の動きがまた、止まった。
「おそらく——確証はない。だがあんたの妹のマナ波形の痕跡をこの娘から検出できる。強さは弱いが間違いなく存在する」
『……私の中に灯さんの何かが残っている、ということですか?』
「そうだ」
ローレンは頷いた。
「完全に同じ人物ではない。だが彼女の一部がお前の中に組み込まれている。——それは確かだ」
蓮はコーヒーカップを握る指に強く力を込めた。
灯の何かがミオの中にいる。
その事実をどう受け止めるべきか、蓮にはまだ分からなかった。
「灯さんは生きているのか、と聞きたいんだろう」
ローレンが蓮の顔を見た。
「それは別の問題だ」
「別の問題?」
「ミオに灯の何かが組み込まれていることと灯自身が今、生きているかどうかは別の話だ。試作体に基材として組み込まれた人物がその後も生きているケースはある。だが死んでいるケースもある」
蓮はローレンの言葉を噛み締めた。
第三章への入口に向かう、新しい問いが目の前に置かれた。
ミオの中の妹と現在生きているかもしれない妹——その二つの存在が別物として、並列に存在する可能性。
「……ありがとう、ローレン」
蓮は短く言った。
「借りは返してもらった」
「いや。まだ足りない」
ローレンは首を振った。
「あんたをゴーストタウンへ送り届けるところまであたしは責任を持つ。——だがもう一つ知っておくべき情報がある」
「何だ」
「最近、深層に変な客が来てる」
ローレンは低い声で続けた。
「ジオフロントの偵察部隊だ。ゴーストタウンの周辺で何かを探している。お前を待ってるのかもしれないし、別の獲物かもしれない。気をつけろ」
「分かった」
「それと——もう一つ」
ローレンは義眼を細めた。
「ここから数日前、地上人の女が深層に降りてきた。国際報道機関の関係者らしい。名前はエマ・クロフォード。——彼女もお前を探しているらしい」
蓮はその名前を初めて聞いた。
「敵か、味方か」
「分からん」
ローレンは肩をすくめた。
「だが興味を持っておく価値はあるだろう。あんたをテロリストとしてではなく、別の角度から見ようとしている女だ」
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工房を辞す時、外はすでに深層の暗い時間だった。
クロが先に立って、次の野営地への道を確認していた。蓮はローレンと扉の前で最後の言葉を交わした。
「気をつけて行きな」
ローレンは低く言った。
「あんたの父親はここで死ぬほどの仕事を半分しかしないまま、逝った。——残り半分を息子のお前が完成させると信じてる」
「重い責任だな」
「当然だ」
ローレンは皮肉に笑った。
「親の仕事は子に引き継がれる。それが地下のルールだ」
蓮は短く頷き、扉を抜けた。
外ではクロとミオが彼を待っていた。
夜の深層へ三人は再び歩き出した。
頭上の岩肌に遠い火山の微弱な振動が低く響いていた。
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第23話 完




