「深層への降下」
鉄扉の向こうは長い縦穴だった。
直径約十メートル、深さは目視で確認できる範囲だけで五十メートル以上。壁面には錆びた金属梯子が垂直に走っており、所々に休憩用の踊り場が設置されていた。
クロは先頭に立ち、扉の脇のスイッチを操作した。頭上のランプが青白く灯る。出力の弱い、しかしマナ系統ではない——昔ながらの電気照明だった。深層では企業のマナ・ネットワークは届かない。代わりに地下の蓄電装置と発電機が生活インフラを支えていた。
「降りる速度は一定で」
クロが低く指示した。
「梯子は古い。全体重をかけるな。常に三点支持を保て」
蓮は頷き、まずクロが先に降りるのを待った。
クロの動きは完璧に静かだった。両手と片足で梯子を掴み、残った片足で次の段を確認する。古い金属が軋む音すら、彼女の動きではほとんど発生しなかった。
深層生まれの身のこなし。
蓮は次に降りた。Mk.IIの外骨格はこうした動きを補助する設計になっている。彼の動きもある程度は静かにしかし重量があるぶん、わずかに金属の音が混じることは避けられなかった。
ミオは蓮の上に続いた。彼女は梯子を降りる動作を最初の数段で完全に習得した。観察と学習の速度は相変わらず驚異的だった。
三人は十分かけて、最初の踊り場に到達した。
深さ、約三十メートル。地下第六十二層への入り口はまだ遠い。
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「ここから先、空気が変わる」
クロが踊り場で立ち止まって言った。
「中層下部までは企業の循環システムが届いていた。でも第六十五層を越えるとそれが切れる。空気の組成が地下深部の自然なものに変わる」
「具体的には」
「二酸化炭素濃度が上がる。酸素はまだ問題ない。ただ、長時間滞在すると頭痛と倦怠感を引き起こす。慣れるしかない」
「マスクは要らないのか」
「酸霧の湿原ほど酷くはない。マスクは外していい。ただ、深層の匂いには覚悟しろ」
クロはマスクを外した。蓮もミオもそれに続いた。
深層の匂い——岩、苔、何かの動物の排泄物、そして遠くから流れてくる、微かな硫黄の臭い。地下深部の地熱と火山活動の名残。生きている地下世界の、生々しい匂いだった。
ミオは初めて嗅ぐその匂いを眉を寄せて分析していた。
「……人体に有害ではない、と判断します」
「だな」
クロは短く言って、次の梯子へ手をかけた。
「もう一つ言っておく」
「なんだ」
「深層生物は人間を見てもすぐには襲わない。観察する。飢えていなければ、向こうから来ることは少ない」
「観察するだけ、と」
「ああ。だから俺たちも観察し返せ。視線を外さず、ゆっくり距離を取れ。走るな。走ると本能的に追われる」
「了解だ」
「もし襲われそうになったら、俺が対処する」
クロは両手のワイヤーグローブを軽く叩いた。
「お前のパイルバンカーは最後の手段にしろ。音が他の生物を呼ぶ」
蓮は短く頷いた。
音を立てない戦闘——ワイヤーはその点でパイルバンカーよりはるかに優れていた。深層ではクロの戦闘スタイルが最適解になる。
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降下を続けて、約一時間。
三人は第六十二層に到達した。
梯子の最後の段を降りた瞬間、蓮の足は柔らかい何かに触れた。
地面は苔と地衣類で完全に覆われていた。深い緑、暗い紫、所々に赤い菌類の小さな集落。それらが靴の下でわずかに発光している。生物発光。深層生物の、独自の生態系。
頭上は洞窟の天井。約三十メートルの高さがあり、逆さに生えた鍾乳石が針のように下を向いていた。鍾乳石の先端から時折、水滴が落ちる。落ちた先で菌類の苔がまるで触れたことを覚えているようにわずかに動いた。
「……生きてる、地下だな」
蓮が低く呟いた。
「ああ。深層は死んでいない」
クロはわずかに微笑んだ。
「企業の連中は深層を『荒野』だと思ってる。人間の住む場所じゃないって。でもここには俺たちなりの世界がある」
ミオが苔の地面に指を触れた。
その瞬間彼女の指先の苔がわずかに光を変えた。
『……これはマナに反応している苔です』
ミオが言った。
『深層のマナ・ネットワークは中層とは完全に別系統で動いています。地下水脈と地熱を介して、生物そのものに直接マナが循環しています』
「面白いな」
クロは肩をすくめた。
「俺はそういう仕組み、知らない。ただ、ここで生きてきただけだ」
ミオは指を離し、苔の発光がゆっくり元に戻るのを見つめた。
新しい知識が彼女の中で蓄積されていくのが蓮にも分かった。深層はミオにとって、観察対象の宝庫だった。
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三人はガラスのマップに従って、東への通路を進んだ。
第六十二層の通路は自然の洞窟と崩落で残った人工構造物が混じり合った場所だった。岩肌と錆びたコンクリートの柱が不規則に並んでいる。かつて地上の建物だったものが崩落でここまで沈み、そのまま地下生態系に取り込まれていた。
三十分歩いた頃——ミオが足を止めた。
『……生体反応、前方二十メートル先。サイズ、推定五メートル級。捕食種です』
クロも即座に足を止めた。
「五メートル級か」
彼女は低い声で呟いた。
「……ブラックジョーだな。岩肌に擬態する、巨大な肉食性節足動物。あれは飢えていれば、襲ってくる」
「対処は」
「俺がやる。お前はミオを連れて、後ろに下がれ」
蓮は短く頷いた。
ここはクロの領域だった。彼女の戦術判断を信頼すべき場面だった。
彼はミオの手を取り、ゆっくり五メートル後退した。
クロは両手のワイヤーグローブを起動した。指先から四本のワイヤーがするすると伸びる。彼女の指の動きでワイヤーが空中で踊るように位置を調整する。
生物の射程外で彼女は構えた。
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ブラックジョーは岩肌の影からゆっくり姿を現した。
全長五メートルの、巨大な節足動物。背は黒い甲殻で覆われ、頭部には八つの眼が並んでいる。前肢二本は鋭い鋸状の刃になっていた。動きは緩慢だが一撃で人間を真っ二つにする威力を秘めていた。
怪物は三人に気づき、ゆっくり前進を始めた。
クロはワイヤーを頭上へと放った。
四本のワイヤーが洞窟の天井の鍾乳石に絡みつく。クロはその張力で地面から二メートルの高さへと自分の体を引き上げた。
ブラックジョーは彼女を見上げ、戸惑った。捕食対象が上空に消えた——その思考の処理にわずかな隙が生まれた。
その隙が致命的だった。
クロは空中で姿勢を保ちながら、残り四本のワイヤーをブラックジョーの八つの眼に向けて、正確に発射した。
ワイヤーが八つの眼のうち、六つを同時に貫いた。
ブラックジョーは音にならない悲鳴を上げた。脚をばたつかせ、無秩序に岩壁にぶつかる。視覚を六割失った巨体はもはや、こちらを追えない。
クロはワイヤーを引き戻し、地面に着地した。
「行くぞ。しばらくは追ってこない」
彼女は短く言い、何事もなかったように歩き出した。
蓮は深層生物への対処を初めて目の前で見た。
ワイヤーの精密射撃——眼だけを狙うという選択。殺さず、しかし追跡能力を完全に奪う。クロの戦闘スタイルは深層で長年生き延びてきた者の、徹底した効率主義だった。
「お前——」
蓮はクロに言った。
「いい戦い方だ」
「生き残るだけが目的だ」
クロは短く答えた。
「殺せば、別の生物が肉を求めて集まる。眼だけ潰せば、こいつは死なないし、追われない。最小の干渉で最大の安全を確保する」
「サキにもお前のスタイルを教えてやりたい」
「サキ?」
「中層の、俺の師匠だ。装備品を作る職人。——あんたの戦術、気に入るはずだ」
「ふうん」
クロはわずかに興味を示した目を見せた。
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その日の夜、三人は洞窟の一角の小さな空洞に野営地を設営した。
クロは慣れた手つきで地面に簡素な敷物を広げ、小型の発光石を中央に置いた。岩の影が三人を外部の視線から隠す配置になっていた。
夕食はジャンク・ギルドから持ってきた保存食のパック。スープと固いビスケット。ミオは二回目の食事をより自然な動作でこなしていた。
食事の合間、クロはミオをちらりと見た。
「お前、何歳だ?」
『……年齢、不明です』
「不明?」
「私は人工的に作られた存在です。基材の人物から数えれば、推定年齢は十六歳から十八歳程度です。ですが自己意識の獲得は最近のことです」
「……難儀な存在だな」
「はい」
クロはしばらくミオを見つめてから肩をすくめた。
「俺と近いな。俺も自分が誰なのか、よく分からない。母は死んだ。父は知らない。深層で育って、深層で生きてる。それだけだ」
『……でもあなたは人間です』
「人間って、定義、あるのか?」
『……分かりません』
ミオの返答にクロは笑った。
「だな。分からないってのが正解だ」
二人はそれ以上は話さなかった。
蓮はその光景を静かに見ていた。
人工存在と深層育ち。立場は違うが根本の孤独は似ていた。それを二人は初対面ながら、互いに感じ取っていた。
発光石の光が岩肌に三人の影を揺らめかせていた。
遠くで何かの深層生物の声が低く響いた。
深層の旅、初日が終わろうとしていた。
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第22話 完




