「クロという少女」
テオを倒した場所から五百メートルほど歩いた。
酸霧の濃度は少しずつ薄まっていた。地形が上りに変わり、湿原の縁が近づいているらしい。蓮は装備パックの中の地図を改めて確認した。
第六十二層への垂直シャフト——あと約四百メートル。
蓮は周囲の気配をもう一度精査した。
ジオフロントの男は完全に消えていた。だがもう一人——あのフード姿の少女は距離を縮めながらもまだ姿を見せない。テオ戦の間も彼女はずっと百メートル先から二人を観察していた。
ミオが低く言った。
『……彼女、距離を五十メートルまで詰めています』
「来るな、近づいてくる」
『はい』
蓮はパイルバンカーのセーフティを念のため外した。戦闘準備ではない。対話の準備だった。少女に敵意がないことはミオの観測で既に確認されている。だが何を考えて近づいてくるのかはまだ分からない。
その時前方の岩陰から——人影が出てきた。
蓮は足を止めた。
目の前、十メートル先。
小柄な少女が立っていた。
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少女はフードを外していた。
年齢は十七、八。深層育ちらしい、薄い肌の色と栄養状態の良くない細い体。だが目だけは鋭い——金色の、猫科の生物のような瞳が蓮を真っ直ぐに見ていた。
髪は短く切られ、ボーイッシュな印象を与えていた。服装は黒の作業着に古いジャケットを羽織っただけの、ありふれた深層住民の格好。
両手には何かの特殊繊維のグローブを装着していた。指先から薄い金属の糸が伸びている——これがおそらく武器だった。
彼女は十メートルの距離を保ったまま、口を開いた。
「——お前、工藤の息子だろ」
声は思っていたより低く少年のような響きがあった。年齢の割に達観した話し方だった。
「ああ。——あんたは」
「クロ」
少女は短く名乗った。
「黒崎憐。黒崎の方のレンだ。お前と一緒だな」
蓮はわずかに眉を上げた。
偶然か、それとも何かの符合か。同じ「レン」という名を持つ少女。
「深層育ちか」
「ああ。第八十五層、ゴーストタウン生まれ」
「ガラスから聞いたのか」
「ガラスは関係ない」
クロは首を振った。
「お前のことは自分の足で追ってた。闇市場でガラスと話してるのを見たから確信しただけだ」
「自分の足で?」
「中層第二十層の、サキの店が爆発した夜からずっと」
蓮の動きが止まった。
サキの店が爆発した夜——ゼノンに襲撃された、あの夜からこの少女は彼を追跡していた、ということだ。約三日間、距離を保って観察し続けていた。
「目的は」
「お前を手伝いたい」
クロは率直に答えた。
「——お前の親父が俺を救ったことがある。十年前、第八十五層で。当時、俺はまだ七歳だった」
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蓮はパイルバンカーから手を離し、コートのポケットに両手を入れた。
敵対する理由はない——だが話を聞く価値はあった。
「親父がお前を救った」
「ああ。——俺の母は元プラチナ・ダイバーだった。崩落直後の混乱期にゴーストタウンに流れてきて、俺を産んだ。だが母は俺が五歳の時に深層生物に殺された」
クロは淡々と続けた。
「俺は二年間、ゴーストタウンの大人たちに面倒を見てもらいながら生きてた。でもそれも限界が来た。——七歳の冬、俺は深層生物に襲われて、瀕死の重傷を負った」
「親父がその時に?」
「ああ。ちょうど、第八十五層に来ていたんだ。何の用事かは知らない。だが俺を見つけた親父は自分の手で俺を治療した。地下にはまともな医療がない。親父はジャンク・ギルドの医療装置を引っ張り出して、俺を生かしてくれた」
クロの金色の瞳がわずかに揺らいだ。
「……一週間、つきっきりで俺を看病してくれた。全くの他人をね」
蓮はその情報を頭の中で整理した。
父が深層に来ていた——その情報はガラスの話とも一致していた。父は地下のゴーストたちのために活動していた。クロを救ったのもその活動の一環だったのだろう。
「親父がお前に何か言ったのか」
「一つだけ」
クロは頷いた。
「『もし、いつか、俺の息子が深層に来ることがあったら——その時はお前が案内人をしてやってくれ』」
蓮は息を止めた。
父は自分の息子がいずれ深層に来ることを予測していた。
いや、予測ではなく、計画していたのかもしれない。父の遺した技術書のメモ「計画の鍵は彼女に託した」——その計画の続きを息子が引き継ぐことを父は確信していた。
「だから——」
クロは両手を広げた。ワイヤーグローブがわずかに光った。
「お前を案内する。深層への道、ゴーストタウンへの道——そしてその先の、レイヤー・プリーストの領域まで。俺は深層の全てを知ってる」
「対価は」
「ない」
クロは即答した。
「父親の借りを息子に返すだけだ。——それでフェアだ」
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蓮は数秒、クロを見つめた。
信頼に足る話ではあった。父の話、サキの話、ガラスの話、そして今クロが語った話——全てが一貫して、父の影響の広さを示している。
だが同時に——何か引っかかる気もした。
深層のあらゆる人物が父を知っている。父の息子の到着を待っていた。
まるで自分の旅が最初から誰かに準備されていたような、そんな感覚。
蓮はその違和感を頭の隅に保留した。今は目の前の協力の申し出を判断する必要があった。
「ミオ」
『はい』
「彼女の言葉、嘘の兆候は?」
『……検出されません。マナ波形は安定しています。心拍も平静を保っています。彼女の話は少なくとも彼女自身にとっては真実です』
「了解だ」
蓮はミオの観測を信じることにした。
彼はクロに視線を戻した。
「分かった。——同行を受け入れる」
「いいのか」
「ああ。ただし、条件が一つある」
「言え」
「お前はミオを最優先で守れ。俺が動けない時、彼女を最後まで連れて帰れ。——それがお前の役割だ」
クロの金色の瞳がちらりとミオを見た。
ミオも無表情のまま、クロを見返した。
二人の少女が初めて視線を交わした瞬間だった。
クロは数秒考えてから頷いた。
「——了承する」
彼女はそう答えてからわずかに口角を上げた。
「だが覚えておけ。俺の優先順位はお前が一番だ。お前の親父に命の借りがある。この娘は二番目だ」
蓮は短く笑った。
「いいぞ。それで十分だ」
ミオは二人のやり取りをじっと観察していた。彼女の表情は変わらなかったが何か、内部で処理している気配があった。
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クロが先頭に立ち、二人は再び、北東への小道を歩き始めた。
深層生まれの少女の歩みは驚くほど静かだった。湿原の泥の中でも足音をほとんど立てない。蓮の偵察能力でもぎりぎり追えるかどうかのレベル。
「深層育ちは皆こうなのか」
「生き残った深層育ちはこうだ」
クロは短く答えた。
「足音を立てる奴は深層生物に真っ先に食われる。生き残ってる時点で皆、こうなる」
蓮は短く頷いた。
地下深部の生存環境の苛烈さが彼女の身のこなしから伝わってきた。これが——深層。これから彼が三週間、過ごす場所。
しばらく歩いた後、ミオがふと低く言った。
「クロ」
敬語ではない。
ミオは初めて相手をフラットな呼び方で呼んだ。
クロが振り返った。
「なんだ」
「あなたの、ワイヤー——あれはアテロイド製ですか」
「ああ。アテロイド・ワイヤーだ。糸状に精製した結晶アテロイドを特殊繊維で被覆してある」
「使い方は」
「主に三つ。捕縛、切断、登攀。糸の張力で深層生物を絡め取って締め上げたり、高速振動で岩を切ったり、壁にワイヤーを撃ち込んで登ったりする」
「すごい技術ですね」
「お前のマナ干渉の方がすごいよ」
クロは短く言った。
「俺のはただの道具。お前のは世界そのものに干渉する力だ」
ミオはしばらく沈黙してから小さく頷いた。
「……同じくらい、すごいです」
クロがまた口角を上げた。
その表情には最初の警戒が消えていた。
ライバル心の種は確かに残っていた。だが彼女もミオも互いの能力を率直に認めていた。それが二人の関係の、最初の形だった。
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目の前に第六十二層への垂直シャフトの入口がようやく見えてきた。
鉄製の重い扉。深層への、正式な入口ではない。深層住民が独自に作った、密輸ルートの一つだった。
クロはその扉の前で足を止めた。
「ここを越えれば、深層だ」
彼女は蓮とミオを振り返った。
「戻れない、と思え。少なくともしばらくは」
「了解だ」
「行くぞ」
クロが扉のロックを解除した。
扉の向こうには暗闇が広がっていた。第六十二層から第八十一層のゴーストタウンまで約三日間の旅がここから始まる。
蓮はミオの手を取り、暗闇の中に足を踏み入れた。
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第21話 完




