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「風使いテオ」

闇市場のメインゲートを抜けた時、酸霧の濃度が、また濃くなった。


蓮はマスクの密閉を確認し、ミオの手を引きながら、北東への小道へと足を踏み入れた。ガラスのマップによれば、第六十二層への垂直シャフトまで、徒歩で約一時間。途中、廃棄された旧地下鉄路線を一区間、横切ることになる。


空気は、湿っていた。地下深部の冷気と、湿原の酸性蒸気が混ざり合い、コートの布地にじんわりと重さを与え始める。


蓮は、十歩進んでから、足を止めた。


ミオも、同じタイミングで止まる。


「気づいたか」


『はい。背後、約八十メートル。二つの生体反応』


蓮は、振り返らなかった。


ミオの観測能力は、もはや疑う余地のない精度を持っている。彼女が「二つ」と言えば、二つだ。


「追跡パターンは」


『一定の距離を維持しています。こちらの速度に合わせて動いています』


「闇市場で目をつけたか」


『可能性が高いです。——あるいは、最初から待っていたか』


蓮は短く息を吐いた。


待っていた、という可能性は、十分にあった。ガラスとの接触地点が、闇市場の「霧の鴉」だと、ジャンク・ギルド内部で漏れていたとしたら。あるいは、ジオフロントが独自にこの地点を監視していたとしたら。


いずれにせよ——戦闘は避けられない。


「ミオ」


『はい』


「俺の三歩後ろを、低く歩け。攻撃が来たら、地面に伏せろ」


『了解しました』


蓮はパイルバンカーMk.IIのセーフティを外し、腰の多段式ジャマーを一基、手のひらに収めた。


歩を、再び進める。


百歩、進んだ——その瞬間、背後で風が、変わった。


---


『——よ、無能者の旦那ぁ!』


軽薄な、若い男の声が、霧の中から響いた。


空気が、いきなり前方へ向けて加速した。蓮の背後から、指向性のある突風が、彼の体を前方に押し出そうとしてくる。霧そのものが、後ろから前へと、強い気流に乗って流れていった。


蓮は外骨格のブースターを逆向きに噴射し、突風に抵抗した。Mk.IIの新出力が、想定通りに機能している。彼は数歩だけ後退しながら、振り返らずにジャマーを後方に投擲した。


ジャマーが空中で起動する。


青白い光が広がり、マナの撹乱が発生した。


突風が、一瞬だけ、止んだ。


蓮はその瞬間に、振り返った。


霧の中、約三十メートル先に、二つの影が立っていた。


一人は、派手な青いジャケットを着た若い男。二十代前半、銀色の髪を立てた今風のスタイル。両手をポケットに突っ込んだまま、立っていた。背後には浮遊ドローンが三機、彼を最適な角度で撮影している。


もう一人は、その背後に立つ、フード姿の男。武装は見えないが、何か危険な気配を持っていた。


青いジャケットの男が、ニッと笑った。


『あー、ジャマー一発で風止めるとか、まじやるじゃん。事前情報通り、面倒なやつだなー』


声は、カメラ向けだった。配信を意識した、明るすぎる調子。


『俺、テオ。Bランク公式ダイバー。配信登録者、五十万。——今回は、特別ゲスト出演で、お前を狩る役を引き受けたわけ』


ジャマーの効果が切れ、テオの周囲に再び風の渦が形成され始めた。


風使い。能力カテゴリ:物質干渉型・気体操作系。ランク:B。


蓮は短く分析した。A級のマリーンよりは弱い。ただし、機動力は遥かに上の可能性がある。風使いは、自分自身を風に乗せて移動できるからだ。


「特別ゲスト出演、ね」


蓮は低く言った。


「配信ノルマでも、貰ってるのか」


『おっ、よく分かってるじゃん』


テオは肩をすくめた。


『ギガ・フロート社からの公式依頼。お前を捕縛するか、最低限、配信に成功した映像を残せば——プラチナ昇格、確定らしい』


「で、後ろの男は」


蓮は、フード姿の男に視線を向けた。


『あー、これ? 護衛役って言ってるけど、本音は俺の監視役だよ』テオは皮肉に笑った。『俺がしくじったら、こいつが殺しに来る。ジオフロントの紐付きだな』


ジオフロント——ガラスが警告していた、第三勢力。


テオは公式ダイバー、護衛はジオフロント。つまり、企業とジオフロントは、この瞬間、利害が一致している。蓮を捕らえてミオを奪うという点では、両者は一時的な協力関係だった。


蓮はパイルバンカーを構え直した。


「で、いつ始める」


『今からだよぉ』


テオは、両手をポケットから出した。


その指先から、透明な渦が、いくつも立ち上がった。


---


テオが、両手を広げた。


彼の周囲、半径五メートル以内の風が、渦を巻きながら集束していった。霧そのものが、薄く透ける円柱状の風の壁となって、テオを取り囲む。風の鎧。物理攻撃を弾く、防御技だった。


蓮は、その間に、ミオに低く指示した。


「下がれ。あの男の射程外まで」


『はい』


ミオが、後方に十メートル下がった。


蓮は前進した。風の鎧の射程外、約二十メートルの位置で停止する。


パイルバンカーは、現状の距離では射程外。  ジャマーは、テオの風を完全には止められない(マリーン同様、彼の能力の系統と相性が悪い)。


ならば——別の手を、使う。


蓮は腰の予備拳銃を抜き、新型アテロイド弾頭を装填した。Mk.IIの新型は、弾頭そのものが小型ジャマーを内蔵している。命中時に、わずかなマナ撹乱を発生させる仕様だった。


テオが、笑った。


『あー、その弾、知ってるよ。ジャンク・ギルドの新作だろ? でも、当たらなきゃ意味ねぇーよ』


彼が右手を振った。


風の刃が、五本、同時に蓮へ向かって放たれた。


蓮は外骨格のブースターを斜め右に噴射し、回避。一本目の刃が、彼の肩の真横を、布地を裂きながら通過した。


蓮は地面に転がりながら、拳銃を構えた。一射——テオの風の鎧に弾頭が命中する。


風の壁に、ジャマーの撹乱波が広がった。


一瞬だけ、テオの鎧が揺らいだ。


その瞬間、蓮は更にもう一発を撃った。


二発目の弾頭は、鎧の隙間を抜けて、テオの左肩に命中した。


『——っ、いって!』


テオが、初めて、笑いを止めた。


肩の傷からは血が出ていない——アテロイド弾頭は貫通性が低く、軽い衝撃と撹乱を与えるだけだ。だが、ダメージの蓄積と、自分の能力が一時的に乱されたという驚きが、テオの集中力を削いだ。


『ちょ、待って? ジャマー内蔵の弾? えぐくね?』


「待つわけ、ねえだろ」


蓮は地面から立ち上がり、距離を一気に縮めた。


Mk.IIのブースターが、本領を発揮する。出力四十パーセント増の加速度で、テオまでの二十メートルを、三秒で詰めた。


---


テオが、慌てて風の鎧を再構成しようとした。


だが、二発目の弾頭の撹乱が、まだ完全には消えていなかった。鎧の風が部分的に剥がれている——蓮はその穴を狙い、パイルバンカーMk.IIを、テオの胸の中央に突きつけた。


『——あ』


テオが、目を見開いた。


至近距離。パイルバンカー。


ヴォルグの時と、同じ構図。


蓮は短く言った。


「お前の配信は、ここで終わりだ」


『ま、待ったぁ——』


パイルバンカーが、発射された。


Mk.IIの新型は、従来の二倍の射出速度を持つ。テオの風の鎧を内側から完全に粉砕し、彼自身の特殊繊維コートを貫通した。


ただし——杭は、心臓の真横を抜けた。


ヴォルグの時と同じく、致死位置を回避した命中点。


テオは、後方に派手に吹き飛ばされ、霧の中で地面に転がった。意識は失っているが、命に別状はなさそうだった。


配信ドローンが三機、テオの倒れた姿を最後まで撮影していた。視聴者コメントが、霧の中にホログラムで流れている。『うわ、Bランクが瞬殺』『この男、まじで強くね?』『でも殺してないっぽい』『マリーンの時と同じだ』。


世論を、また少し動かした。


蓮はその様子を見届けてから、護衛役の男に視線を向けた。


フード姿の男は——動かなかった。


ただ、フードの奥から、冷たい視線だけを送ってきた。


「お前は、戦わないのか」


蓮が低く聞くと、男はゆっくり首を振った。


「——今回は、観察だけだ」


低い声。中年男性と思われる声質。


「テオは囮。お前の新装備の性能と、戦闘スタイルを、確認させてもらった。——それで、十分だ」


「観察した結果は、誰に報告する」


「ジオフロントの上層部だ」


男は短く答えた。


「次は、もう少し本気で来る。覚悟しておけ」


男は、それだけ言うと、霧の中にゆっくりと後退していった。蓮はパイルバンカーを構えたまま、彼が完全に消えるまで、視線を外さなかった。


---


ミオが、近づいてきた。


『……行きましたね』


「ああ」


蓮はパイルバンカーのシリンダーを排熱し、肩に背負い直した。新装備の初実戦は、想定通りの性能だった。Mk.IIのブースター、ジャマー内蔵弾頭、出力向上したパイルバンカー——全てが、期待通り機能した。


だが、それで安心できる状況では、なかった。


ジオフロントの監視が始まっている。  ゼノンは、まだ別の場所で動いている。  そして、真の追跡者は、まだ姿を見せていない。


蓮はミオの手を取り、再び北東への小道を歩き出した。


その時、視界の隅で——小柄な人影が、また動いた。


昨日、闇市場で見たフード姿の少女。距離、約四十メートル。霧の中の、廃配管の影。


今度は、距離が近かった。


蓮は足を止めて、その方向を直視した。


人影は、逃げなかった。


ただ、じっと、こちらを見ていた。


ミオが、囁いた。


『……彼女、ついてきています』


「敵意は?」


『ありません。——ですが、強い興味を、私たちに対して持っています』


蓮は数秒、考えてから、低く呟いた。


「……いずれ、向こうから話しかけてくる、か」


彼は、人影に背を向け、再び歩き出した。


ミオは、肩越しに一度だけ、人影を振り返ってから、蓮の後を追った。


第六十二層への入口まで、あと三十分だった。


---


第20話 完

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