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「霧の鴉」

闇市場のメイン通りを、蓮とミオは並んで歩いていた。


通りの両側には、トタン板で組まれた粗末な店舗が、隙間なく並んでいる。武器商人、偽造身分証屋、情報屋、薬剤師——どの店も、看板は出ているが、扱う品は半分以上が違法品だった。


通りを行き交う客の中には、フードを目深に被ったゴーストが大半を占めていた。中には、外骨格を体に直接埋め込んだ女や、金属の腕を持つ巨漢の男もいた。深層から流れてきた、身体改造を施した者たち。


蓮自身は、特に目立たない方だった。中層住民のフード付きコート、革のブーツ、背中のパイルバンカー——闇市場では、ごく普通の装備だった。


ミオが、横を歩きながら、低く呟いた。


『……人種の構成、地下五十年の混血パターンと一致します。崩落以前のデータと、明確に異なります』


「人類の進化が、地下で進んだ、ってことか」


『はい。皮膚の色素変化、骨格の小型化、視覚の暗視化——ゴーストは、徐々に新人類になりつつあります』


蓮は短く頷いた。


地上の人間が、**自分たちを「人類」**と信じている間に、地下では既に、別の進化線が走っていたのだ。ギガ・フロート社が、これを知ったら——彼らはまた、何か恐ろしい計画を立てるだろう。


通りを進むこと、約五分。


目の前に、赤いネオンサインが見えた。


「霧の鴉(KIRI NO KARASU)」——指定の酒場。


扉の上には、カラスのシルエットが、赤く照らされていた。


---


酒場の中は、薄暗かった。


煙草の煙、安酒の匂い、金属を磨く音——様々な感覚が入り混じる、小さな密閉空間。テーブルは八つ、客は半分ほど埋まっている。皆、それぞれの世界に閉じているように、互いを見ようとしない。


カウンターの奥に、バーテンダーが立っていた。


六十代と思しき男。白髪を後ろに撫でつけ、片目に機械式の眼帯を着けている。彼は蓮とミオが入店した瞬間、眼帯の中の機械眼で、二人を瞬時にスキャンした。


蓮は、カウンターに腰を下ろした。ミオも、彼の隣に。


「——何を、飲む?」


バーテンダーが、低い声で聞いた。


「コーヒー」


「ノンアルか」


「ああ。あと、こいつにも」


蓮はミオを指差した。


バーテンダーは数秒、彼女を見つめてから、頷いた。


「了解だ」


彼は二つのカップに、深層産の濃いコーヒーを注いだ。匂いだけで、サキの淹れるものとは違うことが分かった。苦味と土の匂いが、強い——地下深部で栽培された豆を使っている。


蓮はコーヒーを一口、啜った。


予想通り、強烈な味だった。


ミオも、同じく口をつけた。


『……サキの、コーヒーとは、違いますね』


「ああ。深層の味だ」


ミオは、首を傾げた。


『地下の場所ごとに、味が違うのですか』


「水も、豆も、産地が違うからな」


蓮は短く答えた。


「ところで——」


彼は、バーテンダーに視線を戻した。


「——工藤の息子を、探してる男はいるか」


バーテンダーの動きが、止まった。


眼帯の中の機械眼が、鋭く瞬きした。


彼はカウンターの下から、小さなメモ用紙を取り出し、蓮の前に滑らせた。


メモには、手書きで、こう書かれていた。


『奥の個室。三番。十分後』


蓮はメモを軽く確認し、握りつぶしてポケットに入れた。


「ありがとう」


「コーヒー代だ。三十シャード」


「了解した」


蓮は、アテロイド・シャードを三十枚、カウンターに置いた。


バーテンダーは無言で受け取り、もう何も言わなかった。


---


十分後、蓮とミオは、奥の個室の前に立っていた。


個室・三番。扉には、何の表示もない。ただ、扉の手前に小さな鏡が掛けられていた——内部から、訪問者を確認するための鏡だった。


蓮はノックした。三回、短く。


扉が、ゆっくりと開いた。


内部は、四畳半ほどの狭い部屋。中央に小さなテーブルと椅子が二つ。壁には、色褪せた地下マップが貼られていた。


そして、椅子に一人、男が座っていた。


四十代後半、白髪混じりの黒髪。左眼が青く光る義眼。右肩から先は、機械化された腕で、指先まで滑らかな金属でできている。


彼は、蓮とミオを見て、口を開いた。


「——遅かったな、工藤の息子」


声は、低く、しわがれていた。


「ライアンに言われて、十分待ったが、お前の方が、もう少し早く来てもいいんじゃないか?」


「コーヒーを、ゆっくり飲んでいた」


「いいさ。座れ」


蓮とミオは、向かいの椅子に座った。


男は、機械化された右腕で、コーヒーカップを軽く揺らした。滑らかな関節の動き。蓮の戦術外骨格の数倍は高精度な、極めて精巧な義手だった。


「俺の名前は、——ガラス」


男は短く名乗った。


「深層出身のゴーストだ。ジャンク・ギルドとは、長い付き合いがある。お前の親父さんとも、何度か仕事をした」


「親父と?」


「ああ。崩落直後、まだ地下が荒れていた頃だ」


ガラスは、コーヒーを一口啜った。


「お前の親父は、地下に住む俺たちのために、技術提供をしてくれた。——アテロイド精製の効率化、生体改造の安全化、その他色々と」


蓮は、息を止めた。


父が、地下のゴーストたちのために、技術を提供していた。


その事実は、サキからもライアンからも、まだ聞いていなかった。父の影響が、自分の想像をはるかに超えて広がっていたことが、改めて分かった。


「だから、お前を導く義理がある」


ガラスは続けた。


「深層への安全なルートを、教える。それと、深層で生き延びるための、いくつかのアドバイス」


「ありがたい」


「対価は、要らない」


ガラスは短く言った。


「お前が、深層で何かを成し遂げてくれれば——それで、十分だ」


---


ガラスは、テーブルの上に地下マップを広げた。


古い、紙のマップ。電子記録ではない、痕跡を残さない取引のための地図だった。


「深層への入口は、ここから北東に三キロ。第六十二層への垂直シャフトだ。ただし、企業のセンサーは、第六十五層までしか届かない。それより深く潜れば、安全だ」


「センサー無効領域、か」


「そうだ。——そこから、第八十一層のゴーストタウンまで、約三日の旅になる。途中、第七十層の溶岩工房を通過する必要があるが、心配は要らない。あそこの主は、俺の知り合いだ」


蓮は、地図を確認した。


ゴーストタウン——既存設定で、深層の中心となる集落。第85層に位置する、廃ビル群の地下集落。蓮の目的地の一つだった。


「ゴーストタウンには、サキの知り合いがいる、と聞いてる」


「ああ。老ローレンだ。元企業エンジニアで、レイヤー・プリーストとも交渉ができる。——お前を、いくらか守ってくれる」


「了解した」


ガラスは、地図を蓮に渡した。


「もう一つ。——深層には、企業以外の追手がいることを、覚えておけ」


「企業以外?」


「ジオフロントだ。アッパー東京のスラム出身の、武装反体制組織。やつらも、ミオを欲しがっている」


蓮の手が、止まった。


「ジオフロント……」


「企業を倒すために、ミオの権限を強引に使いたいんだ。お前のジャンク・ギルドのように、契約なんて、奴らはしない。強奪する」


ガラスの青い義眼が、鋭く光った。


「気をつけろ」


---


酒場を出た時、外は既に夜だった——闇市場の人工照明が落ち、赤いネオンだけが、霧の中に滲んでいた。


蓮はマップをポケットにしまい、ミオの手を取った。


「行こう。——第六十二層の入口まで、急ぐ」


『はい』


二人は、メイン通りを歩き出した。


その時、蓮は——視線を感じた。


通りの向こう、廃材の山の影から、誰かが二人を見ていた。


フードを深く被った、小柄な人影。年齢は若いように見えた。少女、あるいは子供——その輪郭が、霧の中で、揺らいだ。


蓮は、その方向を一瞬だけ見つめた。


人影は、すぐに廃材の影に消えた。


追手——ではない、何か。


ミオが、囁いた。


『……あの人影、マナ波形が一般人とは異なります。ですが、敵意は、検出されません』


「観察者、か」


『はい。ただ、見ているだけです』


蓮は、しばらく考えてから、再び歩き出した。


「気にするな。行くぞ」


『はい』


二人は、闇市場を抜けて、深層への入口へ向かった。


頭上では、霧の中で、何かの鳥の声が、鋭く響いていた。


---


第19話 完

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