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「深層への扉」

朝、五時。


隠れ家の出入口の前で、蓮はライアンと向き合っていた。


ミオは少し離れた場所で、装備の最終確認をしている。新しい外骨格Mk.IIを纏った彼女は、戦闘に同行する正式なパートナーとしての姿を、初めて見せていた。


「経路は、第十八層から垂直シャフトを使って一気に第六十層まで」


ライアンが、ホログラム端末で経路を表示した。


「第六十層からは、酸霧の湿原を東に二キロ徒歩。そこに、中層下部の闇市場がある。そこで、深層への案内人と接触してくれ」


「案内人?」


「深層出身のゴーストだ。名前は、向こうから明かす。——お前の身分を確認できれば、深層への安全なルートを教えてくれる」


「合言葉は」


「『工藤の息子だ』。それで通じる」


蓮は短く頷いた。


工藤の息子——その合言葉が、深層の住人にすら通じるという事実が、父の影響の広さを、改めて感じさせた。


ライアンは続けた。


「サキは、ここで治療を続ける。三週間後の浮遊居住区潜入に間に合わせる」


「あいつには、よろしく伝えてくれ」


「直接、言えばいい。あいつ、出口で待ってる」


蓮は隠れ家の階段を見上げた。


サキが、階段の上で、腕を組んで立っていた。


---


「お前、ちゃんと食ってるか」


サキは、開口一番、そう聞いた。


「ああ」


「ミオは? ちゃんと、世話してるか」


「サキの教えた通りに、できる限り」


サキは、満足げに頷いた。


彼女は、蓮の肩を、軽く叩いた。


「深層で、変なものを拾うな。ゴーストタウンには、人間じゃないものが、人間のフリして暮らしてる」


「了解だ」


「……それと」


サキは、少し声を落とした。


「ラムは、信用していい。あいつは親父さんの友人だった。だが——裏のリーダーには、用心しろ」


蓮は、サキを見た。


「ライアンと同じことを言うな」


「だから、本当だってことだ」サキは皮肉に笑った。「あたしも、ライアンも、裏のリーダーの正体を知らない。けど、その存在の気配は、確かに感じる」


蓮は短く頷いた。


「気をつける」


「うん」


サキは、もう一度、彼の肩を叩いた。


「——生きて帰ってきな」


「あんたもな」


二人は、それ以上の言葉を交わさなかった。


ミオが、サキに近づいてきた。


『サキ。——三週間後に、また』


「ああ。——あんた、髪、ちゃんと結えるようになっとくんだぞ」


『はい』


ミオは小さく頷き、蓮の隣に並んだ。


二人は、垂直シャフトへ向かう廊下を、歩き出した。


背後で、サキとライアンが、見送っていた。


---


垂直シャフトの降下ポッドは、ジャンク・ギルド製の特注品だった。


外見は古い貨物用ポッドのようだが、内部の駆動系はアテロイド・バッテリー駆動で、マナ波形を放出しない仕様になっていた。企業の監視網に痕跡を残さず、第十八層から第六十層まで、一気に降下できる。


蓮はミオと共に、ポッドに乗り込んだ。


ハッチが閉まり、降下が始まる。


最初の数十秒は、緩やかな加速。だが、徐々に重力加速度に近い速度で、ポッドは深部へと落ちていった。


ポッドの小窓から、通過する層の景色が、一瞬ずつ見えた。


第三十層——大量のコンテナが整然と並んだ、地下倉庫街。


第四十層——以前蓮が戦った、工業廃水処理エリア。今は、企業の保安要員がまだ封鎖を続けている様子が見えた。


第五十層——カプセルから救出した、バイオ廃墟。もう、植物は元の量に戻りつつあった。崩落後の地下植生の回復力は、人間の想像を超えるものだった。


そして——第五十五層を越えた瞬間、空気が、変わった。


「……寒い」


蓮は短く呟いた。


ポッドの内部の温度は、一定に保たれているはずだった。だが、外気の冷気が、わずかに金属の壁越しに染み込んでくる感覚があった。


ミオが言った。


『中層下部は、地熱との接近で温度差が大きい領域です。上部は寒く、下部は熱い。マナ濃度も、ここから急激に変動します』


「環境が荒れる、ということか」


『はい』


ポッドが、第五十八層を通過した。窓の外は、もう、人工的な街並みではなく——荒涼とした岩肌と、点在する青白いアテロイド結晶の輝きだけが、見えた。


誰も住まない、捨てられた地下。


数分後、ポッドが減速を始めた。


第六十層、到着。


---


ポッドのハッチが開いた瞬間、蓮の鼻を、酸性の匂いが刺した。


酸霧の湿原。


目の前には、白い濃霧が立ち込め、視界はせいぜい二十メートル。地面はぬかるんだ泥で覆われ、所々に緑色の腐食液が水たまりを作っていた。空気そのものが、わずかに肌を刺激する——マスクなしでは、長時間呼吸できない環境だった。


蓮は、装備パックから酸性ガス対応のマスクを取り出し、ミオにも一つ渡した。


「これを着けろ。三十分以上は呼吸できない」


『はい』


二人はマスクを装着し、湿原を東に向かって歩き出した。


ぬかるんだ泥が、ブーツに張り付く。一歩ごとに、霧の中の何かが動く気配があった。


歩き始めて、約十分。


ミオが、突然、足を止めた。


『右側、二十メートル先。生体反応、一つ』


蓮は反射的にパイルバンカーを構えた。


霧の中から——ゆっくりと、何かが現れた。


全長、約三メートル。四足歩行。鱗のような皮膚を持ち、頭部には三つの眼が並んでいる。毒ガスの霧の中で進化した、深層生物。蓮の知識にはない異形だった。


怪物は、蓮とミオを観察しながら、ゆっくり距離を縮めてきた。


敵意は、明確ではない。


ただ、好奇心で近づいているような動きだった。


ミオが、低い声で言った。


『……攻撃の意図は、検出されません。ですが、接触されると、酸性体液で皮膚が溶ける可能性があります』


「ジャマーは効くか?」


『この生物はマナ・ネットワークに依存していません。ジャマーは無効です』


蓮は、別の選択肢を考えた。


怪物との距離、十五メートル。逃げるか、戦うか——どちらも、リスクが高い。


彼は、新しい外骨格Mk.IIのブースターを、最小出力で起動した。


空気が、震えた。


ブースターのアテロイド噴射が、微弱な熱と振動を発生させる。怪物の三つの眼が、その音を捉えた。


「——お前、見るな」


蓮は、低く言った。


「俺たちは、お前の獲物じゃない」


怪物は、数秒、蓮を見つめてから——ゆっくりと、霧の中へ後退した。


蓮の冷静さを、生物の本能が読み取ったのかもしれない。あるいは、ブースターの音が、捕食者ではない何かとして認識されたのかもしれない。


怪物が完全に視界から消えるまで、蓮はパイルバンカーを構えたまま、動かなかった。


数分後、ミオが短く呟いた。


『……怪物は、去りました』


「ああ」


蓮は、ようやくパイルバンカーを下ろした。


「戦わずに済んで、よかった」


『同感です』


ミオの返答に、初めて——戦闘回避を肯定する感情が、滲んでいた。


---


二人は、再び東へ歩き出した。


約一時間後、霧の向こうに、人工的な光が見えた。


赤いネオンと、黄色い裸電球が、霧の中で滲んでいる。


闇市場。


中層下部の、法外の取引場。


蓮は立ち止まり、装備を点検した。新型のパイルバンカー、ジャマー、電磁抗体スーツ——全て、ジャンク・ギルドからの新装備。これらが、深層出身のゴーストたちにどう映るかは、分からなかった。


「ミオ」


『はい』


「お前のマナ波形、少し隠せ。完全に消す必要はないが、目立たない程度に」


『了解しました』


ミオの薄紫の瞳が、淡く光った。


二人は、闇市場のメイン通りへと、足を踏み入れた。


通りには、さまざまな旅人たちが歩いていた。フードを深く被った男、機械化された右腕を持つ女、人間の形をしていない何か——それぞれが、無言で、互いを観察しながら、市場の店々を巡っていた。


ここは、法も能力もないが、生き残る知恵だけがある世界だった。


蓮は、自分の場所を見つけたような、奇妙な感覚を抱いた。


ライアンが指定した接触ポイント——**「酒場・霧のカラス」**へと、二人は、ゆっくり歩を進めた。


---


第18話 完

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