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「掃除屋の朝」

ポッドの減速アラームが鳴った。


蓮はハッチに手をかける。第五十層到着。表示ランプが緑に変わった瞬間、彼はもう一度だけ、掌の中のガイガーカウンター型マナ計測器に目を落とした。


数値:標準値の一・八倍。


「……上がってるな」


配信時には一・五倍だった。三十分で〇・三も上昇している。マナ・ネットワークは、この層に何かを呼び寄せている。あるいは、何かから漏れ出している。どちらにせよ、正常な状態ではない。


ハッチが開いた。


空気が、変わった。


地上のような埃っぽさではない。中層のような油と金属の匂いでもない。植物と血と、電気の焦げ臭。ライトニングが最後に放ったジャベリンの残滓が、まだ大気中に漂っている。


蓮は一歩、ポッドから降りた。


耳を澄ます。


何も聞こえない。


ブラッド・アイビーが倒された直後なら、この階層の生態系は大きく乱れているはずだった。脅威の王が消えたあとには、必ずそのニッチを狙って他の生物が集まる。鳴き声、羽ばたき、地を這う音——そういった「次の捕食者」の気配があって当然だった。


だが、音がない。


まるで、この階層全体が息を潜めているようだった。


蓮は背中のパイルバンカーの安全装置を外し、腰のジャマーの一つを手に取った。起動はまだしない。こういう状況で闇雲にマナを攪拌すれば、敵に自分の位置を教えることになる。


ゆっくりと、廃墟の中心部へ歩き出した。


---


大理石のロビーに入った瞬間、蓮は足を止めた。


配信で見たときとは、景色が違っていた。


ブラッド・アイビーの死体は、ない。


赤い花弁の残骸が、地面に散っているだけ。蓮がしゃがんで拾い上げたそれは、乾いていた。配信終了から三十分足らずだというのに、体液も、肉片も、一切残っていない。誰かが処理した——あるいは、何かが食べ尽くした。


前者なら企業の特務執行部、後者なら未知の生物。どちらも、厄介だ。


蓮は拾った花弁を指先で擦った。乾いた繊維質。微量のアテロイド結晶が混じっている。普通のモンスターには見られない組成。だが今は、こだわるべきではない。


視線を上げた。


ロビーの奥。崩れかけた受付カウンターの向こうに、人影が三つ、倒れていた。


蓮は音を立てずに近づいた。


最初の死体。プラチナランクのダイバー装備。胸の中央に、直径十センチほどの穴が開いている。焼けた痕はない。出血量も少ない。切断面は鏡面のように平滑だった。


蓮は屈み込み、指先で傷口の縁を確認する。


「……切ったんじゃない。抜いた、だな」


何か円柱状の物体が、一度刺さり、そして抜かれた。高速回転しながら。傷口の周囲に残る微細な捻れ——そういう痕跡だった。


二人目。同じく胸に穴。同じ形状。同じ深さ。


三人目。首から上が、ない。


蓮は表情を変えずに立ち上がる。三人の装備を確認したが、武器は抜く間もなく殺されたらしく、すべて収納状態のままだった。つまり——発動の気配すら察知する前に殺された。


ライトニングの配信にあった『黒い何か』。


あれは一人で配信を見ていた蓮にも、瞬きの間の出来事だった。プラチナランク三人が、反応すらできずに殺される速度。


常識で考えれば、S級以上の能力者による単独襲撃。


だが、マナ波形が違う。


蓮は計測器をもう一度確認する。死体の周辺に残る残留マナは、波形が平坦だった。能力発動時には必ず出るはずの「共鳴のうねり」が、どこにもない。


つまり——


「……能力者じゃない」


マナを使わずに、この殺し方ができる存在。能力者の文明が成立してからこの二十年、そんな報告は一件も存在しない。


蓮は三人目の死体の胸ポケットから、企業ID端末を抜き取った。データ転送の痕跡を確認する——ロックされている。暗号化の形式は第七世代。この三人は、単なる配信バックアップではない。企業の特務部隊だった可能性が高い。


ライトニングは、最初から囮だった。


本当の目的は、この廃墟に何かがあり、それを企業が密かに回収しようとしていた。だが、回収チームごと、誰かに殺された。そして今、蓮に同じ任務が回ってきている。


「……新型バッテリー三個、か」


蓮は立ち上がり、奥を睨んだ。


報酬が分不相応だった理由は、これだ。死んでも代わりがいる駒として、彼は選ばれた。ゴーストだから、死んでも誰も追及しない。便利な駒。


蓮は低く笑った。


怒りは湧かない。そんなものは、もう十五歳の頃に燃やし尽くした。今あるのは、冷えた職人としての好奇心だけだった。


「——いいぜ。なら、きっちり代金分、仕事してやる」


ジャマーを腰から外し、起動した。


---


ジャマーの青白い光が、廃墟の床に点在していく。


蓮は三基のジャマーを、ロビーから奥の廊下へ向かうルート上に、三角形の配置で設置した。起動モードはタイマー式・条件発動。誰かが通過すれば即座に周囲のマナを撹乱する、簡易トラップだった。


ライトニングを殺した『何か』が、もし自分を追ってきた場合——トラップで一瞬でも動きを止められれば、逃げる時間が稼げる。


蓮は廊下の奥へ進んだ。


かつては豪華な赤絨毯が敷かれていたであろう通路。今は、蔓が絨毯の代わりになっている。葉の一枚一枚からは、かすかにアテロイドの結晶が漂い、歩くたびに蓮の足跡が青く光る砂埃となって舞った。


サーマルゴーグルを下ろす。


生体反応——ゼロ。


音響探査——建物の自重による軋み以外、ゼロ。


マナ計測——二・一倍。上昇中。


「……さっきより強い。奥だ」


蓮は直感した。廃墟の奥、元スイートルームとされる区画。そこにマナの発生源がある。ブラッド・アイビーを呼び寄せ、ライトニングを呼び寄せ、企業の特務部隊を呼び寄せ、そして今、蓮を呼び寄せている何か。


依頼書には『ブラックボックスの回収』と書かれていた。


だが、この階層の異常を考えれば、ブラックボックスという無機質な言葉では説明できない何かが、この奥にある。


蓮はパイルバンカーのセーフティを完全に解除した。


左手に予備のジャマー、右手にアテロイド弾頭を装填した予備拳銃。万が一、敵と遭遇した場合の初手を頭の中でシミュレートする。


一、ジャマーを投擲してマナを撹乱。


二、拳銃のアテロイド弾頭で牽制。


三、ジャマーの効果時間内(七秒)に、パイルバンカーで致命打。


七秒しか、勝機はない。


それで足りるかどうかは、相手次第だった。


---


廊下の突き当たりに、厚い扉があった。


スイートルームの元入り口。崩れかけた金色の装飾。扉は半開きで、内部の光が漏れている——青白い光。


蓮は扉の隙間から、慎重に内部を覗き込んだ。


かつてはスイートのリビングだったであろう広い空間。天井の一部が崩落し、地下深くからの空気が吹き上げている。その中央に——


実験用カプセルが、一台。


医療用の高圧カプセル。企業の技術開発局でしか使われないはずの、最上位機種。カプセルの周囲を、巨大な植物の根が絡みついて、まるで生体ケーブルのように栄養を送り続けている。カプセルの表面は蔦に覆われていて中身は見えないが、カプセル越しに漏れる青白い光だけが、ゆっくりと脈動していた。


心拍のように。


蓮は息を止めた。


計測器の数値が、ここで三・〇倍に達していた。


この層全体のマナを集めているのは——このカプセルだ。


いや、違う。


カプセルじゃない。中に入っている何かだ。


蓮はゆっくりと扉を押し開け、部屋の中に一歩、足を踏み入れた。


瞬間。


カプセル表面を覆っていた蔦が、内側から押しのけられるように、ざわりと動いた。


そして、青白い光越しに——


誰かが、目を開けた。


---


第2話 完

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