「雷鳴の予兆」
三日間が、静かに過ぎた。
サキのジャンク屋の二階、物置として使われていた狭い部屋を、蓮とミオの一時的な居住スペースに改造した。布団を二組敷き、古いランプと本棚、そして共有の作業机を据えただけの、最小限の住まいだった。
朝——中層の人工太陽が天井の照明から昇る時間——ミオは必ず蓮より先に起きていた。
起きるたびに、彼女は同じ手順を繰り返した。毛布を折りたたみ、コップに水を注ぎ、蓮が目を覚ますのを待つ。プログラムされた動作というには、あまりに微細なゆらぎがあった。毛布の折り目の位置が、日によって少しずつ違う。水を注ぐ時の音の強さが、試すように変化していく。
三日目の朝、蓮が目を覚ますと、ミオは窓辺に座っていた。
「……何してる」
『観察しています』
「何を」
『外を』
蓮は起き上がって、窓辺に近づいた。ジャンク屋の二階の窓からは、中層第二十層の路地と、向かいの古いアパートの屋上が見える。屋上には、誰かが植えた鉢植えがあった。枯れかけた、小さな緑。
ミオは、その鉢植えを、じっと見ていた。
「……植物か」
『水を、貰っていません』
ミオが呟いた。
『三日間、観察しています。誰も、あの鉢植えに水をやっていません。——今日の午後、あの植物は、死にます』
蓮は、彼女の横顔を見た。
その顔には、わずかな翳りが浮かんでいた。無表情とは違う、何かを感じている顔。
「……気になるのか」
『分類、不明です。ただ、データとして不快に記録されています』
「それ、感情だよ」
蓮は短く言った。
ミオは、数秒、蓮を見つめた。
『……では、何故、あの植物に、水を与えたいと、私は思うのでしょうか』
「知らねえよ。お前が、そう思ったから、だろ」
蓮はあくびを噛み殺した。
「後で、コップ一杯、持って行ってやれ。屋上は壁伝いに登れる」
ミオは、首を傾げた。
『……許可しますか?』
「許可じゃねえ。——お前が、やりたいなら、やれ」
ミオは、しばらく窓の外を見つめてから、立ち上がった。
コップに水を注ぎ、部屋を出て行った。
階段を降りる足音が、いつもより、少しだけ早いのを、蓮は気づいていた。
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装備の点検は、サキと共に行った。
パイルバンカーは全整備。外骨格は打撃吸収パッドを追加。新型のアテロイド弾頭を十発補給。ジャマーは新品三基、予備二基を確保。
サキは全ての装備を一つずつ確認しながら、ぽつりと言った。
「ゼノン、って奴は……ヴォルグとは、格が違うよ」
「知ってるのか」
「企業時代、一度だけ、見たことがある。まだ新人ダイバーだった頃の、訓練施設での模擬戦だ。——あいつは、訓練用の機材を、本気で破壊した。『加減』って言葉を、学んでない」
蓮はパイルバンカーのシリンダーを締め直しながら、頷いた。
「加減しない、か」
「しかも、電磁使いは性質が悪い。マナ・ネットワークを磁場に変換するタイプだから、ジャマーの効きが中途半端になる。——完全には防げない」
「じゃあ、どうする?」
「距離を取れ」
サキは、短く答えた。
「近接戦に持ち込まれた瞬間、お前は死ぬ。電磁加速で動くあいつの速度に、お前のパイルバンカーは追いつけない。——ヴォルグの時と同じ戦術は、通用しない」
「……」
蓮は、シリンダーを手の中で転がした。
同じ戦術は、通用しない。
では、違う戦術を作るしかない。
だが、三日間で、どこまで準備できる?
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その頃、アッパー東京、セントラル・タワー最上階。
浮遊居住区の頂点、ギガ・フロート社・総帥室。
広い窓の向こうには、人工浮遊ブロックと、その下に広がる再建東京の夜景が見えていた。部屋の中心、黒いデスクの前に、一人の男が座っていた。
カイン・ヴェスパー。
年齢は四十代後半。銀色の髪を丁寧に撫でつけ、黒いスーツを隙なく着こなしている。彼自身からは何のマナ波形も漏れていない——だが、それは彼が能力を持たないからではなかった。空間を記述できる彼にとって、マナの漏出すら、彼の意志で制御できるのだ。
デスクには、マリーンの敗北配信の録画が、ループで再生されていた。
カインは、無表情だった。
ドアがノックされ、副官が入ってきた。
「総帥。ゼノン・メインスタッフが、準備を完了しました」
「——通せ」
ドアが開き、一人の男が入ってきた。
身長一九〇センチ、痩身。銀髪を短く切り揃え、青い両目は底冷えするほどに冷たかった。右目の下に古い刺青——電光の紋様が、刻まれている。装備は、軽量化された企業特務服。武器は、持っていない。彼自身が、武器だった。
S級ダイバー、ゼノン。
彼はデスクの前で、短く敬礼した。
「総帥」
「——工藤蓮の捕縛、引き受けてくれるな」
「捕縛、ですか」
ゼノンは、薄く笑った。
「……捕縛、とは」
「生きたまま、連れて来い」カインは短く言った。「だが、もし生きて連れて来ることが、不可能な場合は——」
彼は、モニターのマリーンの敗北シーンを指差した。
「彼女と同じ末路を、お前の判断で、決めていい」
「……承知」
ゼノンは、再び敬礼した。
だが、彼の青い目の奥には、殺意が、既に燃え始めていた。
「総帥、一つ、確認を」
「何だ」
「——ミオは?」
「最優先で、回収しろ」
カインは無表情のまま答えた。
「工藤蓮は、どうでもいい。——ミオが、全てだ」
「承知」
ゼノンは踵を返し、総帥室を出て行った。
カインは、モニターを見つめたまま、静かに呟いた。
「……面白い男だ、工藤透の息子は」
彼の口元が、わずかに歪んだ。
「——だが、もう、遊びは終わりだ」
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三日目の夜、蓮はミオと共に、ジャンク屋の裏口から出ようとしていた。ギルド幹部会議の場、中層第十八層の隠れ家まで、徒歩で二時間の道のりだった。
出発前、ミオは階段の途中で足を止めた。
「……どうした」
『上に、変な気配があります』
「気配?」
『マナ・ネットワークの波形が、三日前と違います』
ミオの薄紫の瞳が、微かに光った。
『中層全体の電力系統に、不自然な磁場ノイズが混入しています。誰かが、意図的に、磁場を操作しています』
蓮は、窓の外を見た。
遠く、中層第二十二層の方向——路地の奥で、青白い電光が、一瞬だけ走った気がした。
ジャンク屋のモニター画面が、軽くノイズで揺れた。蛍光灯が、三秒間だけ点滅した。
ミオが、さらに言った。
『——接近しています。速度、時速六十キロ。距離、八百メートル。方向、南東』
「……サキ!」
蓮は階下に向かって叫んだ。
サキが、作業室から駆け上がってきた。彼女の手には、非常用の閃光弾が既に握られている。彼女も、異変を感じ取っていた。
「レン、南東って言ったか?」
「ミオが感知した。——時速六十キロで接近中。多分、ゼノンだ」
「裏口から出な。今すぐ」
「サキは?」
「あたしは囮をやる。——階段を駆け上がられないように、店内を爆破する」
蓮は息を吞んだ。
「爆破? 店を?」
「この店、もう使えない。お前たちが出て行った後、あたしがここに残れば、ゼノンはあたしを狩りに来る。——なら、店ごと吹き飛ばして、逃げる時間を稼ぐ」
「サキ——」
「行け、レン」
サキは、蓮を真っ直ぐ見た。
「あんたが生きてりゃ、親父の遺志は消えない。——あたしは、後から追いかける」
蓮は、数秒、彼女を見つめた。
そして、短く頷いた。
「……必ず、追いついてこい」
「当たり前だ」
蓮はミオの手を掴んで、裏口のドアを開けた。
路地は、異様に静かだった。普段聞こえる中層の生活音が、全て消えていた。電力系統が、既にゼノンの磁場で抑え込まれているのだ。
蓮は、ミオを背負い、外骨格のブースターを起動した。
走り出す、その瞬間——。
路地の奥、百メートル先の角に、青白い電光の影が、立っていた。
蓮の動きが、止まった。
影は、長身の男の形をしていた。右目の下に、電光の紋様が光っている。男の周囲の空気が、磁場で歪んで、彼自身の輪郭をにじませていた。
男は、動かなかった。
ただ、蓮の目を、正確に見て、短く呟いた。
「——工藤蓮、だな」
蓮は、返事をしなかった。
男が、微かに、笑った。
「私は、ゼノン。——お前を、捕縛しに来た」
電光が、彼の全身に、走った。
同時に、ジャンク屋の方角で、巨大な爆発音が響いた。
サキが、始めた。
蓮はミオを抱きしめ、反対方向に、全力で走り出した。
背後で、ゼノンの声が、響いていた。
「——逃げるな」
その声が、電磁波に乗って、路地の壁という壁を、震わせていた。
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第一章、完。
追跡の、開始。
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第12話 完




