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「ライアンの条件」

サキが裏口を開けると、男が一人、立っていた。


身長は一八〇センチを超えている。厚手の黒いコート、深く被ったフード。腰には軍用ピストルが一丁、ベルトに差し込まれていた。


男は無言で店内に入り、カウンターの蓮の向かいに腰を下ろした。フードを外すと、三十代半ばの、疲れた目をした男の顔が現れた。無精髭、額に古い刃物傷、左耳の一部が欠けている。


蓮は、数秒かけて観察した。


動作の無駄のなさ。フードを外す仕草、椅子に座る姿勢、コートの裾の処理——全てが、戦闘後の緊急回避を想定した動きだった。


元ダイヤモンド・ダイバー。


サキの紹介通り、相手は本物だった。


「——ライアン・コールだ」


男は短く名乗った。声は低く、酒焼けした嗄れた質感。


「工藤蓮、だろう? 親父さんには、大学時代にお世話になった」


蓮は眉を上げた。


「大学?」


「古い話だ。忘れてくれ」


ライアンは手を振り、テーブルの上に小さなICチップを置いた。


「単刀直入に言う。——ジャンク・ギルドが、お前に取引を持ちかけたい」


蓮はカウンターのコーヒーに視線を落とした。ミオは奥の簡易ベッドで眠っている。サキは少し離れた壁際に立ち、腕を組んでいた。


「内容は?」


「そのICに入っている。——先に、ミオに会っていいか?」


「眠ってる」


「起こさない。顔を見るだけだ」


蓮は数秒、ライアンを見つめた。


この男の真意が、どこにあるのか、まだ読めない。だが、ここで断れば、取引は成立しない。蓮は頷き、ライアンを奥の部屋に案内した。


ミオは、毛布の中で、静かな寝息を立てていた。


ライアンは、数歩離れた場所で、彼女の寝顔を見下ろした。


三秒、五秒、十秒。


男の無精髭の顔に、何かの感情が、一瞬だけ走った。痛みでも、後悔でも、喜びでもない——ただ、深い、静かな感情。


「……こんな姿になっていたのか」


ライアンは、低く呟いた。


蓮の動きが、止まった。


「知ってるのか?」


ライアンは振り返った。皮肉な笑みが、彼の口元に戻っていた。


「話は、カウンターでしよう。——眠らせてやれ」


---


再びカウンターに戻り、蓮はコーヒーを注ぎ直した。ライアンは自分のマグカップを受け取り、一気に半分を飲み干した。


「ギルドの提案だ」


ライアンはICチップを指差した。


「一つ、お前とミオに、安全な隠れ家と装備を提供する。中層に三箇所、深層に一箇所。移動ルートも含めて、企業の監視を避けられる場所を、全て開放する」


「二つ目は」


「二つ、お前の妹の調査を、本気で回す。ギルドには元企業内部の情報屋がいる。崩落後の戸籍抹消データも、一部は取り戻せる。——お前が何年も個人で調べて届かなかった情報に、ギルドなら三週間で辿り着ける」


蓮は、指先をカウンターに打ち付けた。


「三つ目は」


「三つ、ミオの能力の、完全解析。彼女がレイヤー・ゼロのOSとして何ができるのか、ギルドの技術班が精密に調べる。これは、お前にとっても必要な情報だ。敵の手札を知らずに戦えるほど、お前は楽観的じゃないだろう」


ライアンは指を三本立てた。


「三つの見返りに、ギルドが欲しいのは、一つだけ」


「——ミオの、管理者権限の、一部利用」


蓮は短く息を吐いた。


「やっぱりな」


「拒否か?」


「条件による」


蓮はコーヒーを飲んだ。


「ミオを道具として使うなら断る。彼女の意志を確認せずに、権限を乗っ取るような取引なら、絶対に飲まない」


ライアンは頷いた。


「当然の主張だ。——だから、交渉の余地がある」


彼はICチップを蓮の前に押しやった。


「ギルドは、ミオを契約相手として扱う用意がある。権限利用の度に、彼女の同意を取る。——彼女が人間として認められるなら、お前もギルドと組める。そうだろう?」


「……」


蓮は、長く沈黙した。


道理は通っていた。だが、道理が通っていること自体が、罠の匂いを強めている気もした。


一方で、妹の調査という条件は、蓮にとって十七年間探し続けた情報への、唯一の入り口だった。


「——サキ」


蓮は、壁際のサキを呼んだ。


「あんたは、この男をどこまで信じてる」


サキは腕を組んだまま、数秒考えてから、答えた。


「私生活は信じない。でも、仕事の話は信じる。あいつの言葉に裏はあるかもしれないが、嘘はない」


「十分だ」


蓮は、ICチップを手に取った。


---


ライアンは、二杯目のコーヒーを啜っていた。


蓮はICチップをホログラム端末に挿し込み、内容を確認していた。隠れ家の座標、装備リスト、妹の情報の断片——全てが、確かに揃っていた。


妹の情報を、開いた。


工藤 くどう・あかり。2013年生まれ/二〇二九年、八歳で戸籍抹消。


ミオの基材Aの採取年は、2029年。


一致。


だが、ファイルには、続きがあった。


二〇三〇年以降、『実在の人物』として再登録された記録あり。


再登録後の名前:藤原 灯。


現在の戸籍地:アッパー東京、浮遊居住区・第四層。


蓮は、画面を見つめたまま、動かなかった。


「——生きてるのか」


言葉が、唇から漏れた。


ライアンは、静かにコーヒーを置いた。


「その可能性はある。だが、断定はできない。お前の妹が、別人として生かされたのか、他人が妹の名前を引き継いだのか、まだ分からない」


「確認する方法は」


「本人に、直接会うしかない」


ライアンは短く言った。


「——浮遊居住区は、企業の心臓部だ。ゴーストのお前には、入れない。だが、ギルドと組めば、潜入ルートを用意できる」


蓮は、ホログラムの中の名前を見つめた。


藤原 灯。


それが妹なのか、他人なのか、分からない。


——だが、会いに行ける可能性がある。


蓮は顔を上げ、ライアンを見た。


「……組む」


「賢明だな」


ライアンが、短く答えた。


「ただし、条件がある」


「何だ」


「ミオの権限利用は、彼女の明示的な同意がある時だけ。一度でも、無理に使ったら、契約は破棄する」


「分かった」


「それから、ジャンク・ギルドの幹部に、俺を面通ししろ。顔も名前も知らない連中と、長期契約はしない」


ライアンは数秒、蓮の顔を見てから、笑った。


「——親父さん譲りの頑固さだ。いいだろう、幹部会議は三日後、中層第十八層の隠れ家で開催する」


ライアンは立ち上がり、コートのフードを被り直した。


「じゃあ、三日後。——それまで、ゼノンに見つかるなよ」


「ゼノン?」


蓮は眉を寄せた。


ライアンは、店を出る直前、振り返って言った。


「マリーンの敗北と、お前の映らない男宣言で、企業が本気になった。——S級ダイバー、電磁使いのゼノンが、お前の捕縛任務を直々に引き受けたそうだ」


ライアンは手を振り、夜の路地へと消えていった。


蓮はコーヒーを飲み干し、カウンターに肘をついた。


——ゼノン。


聞いたことのない名前だった。だが、S級という言葉の重さだけは、理解できた。


サキが、壁際で短く呟いた。


「……厄介だね」


「ああ」


蓮は立ち上がった。奥の部屋で眠っているミオの方を、ちらりと見た。


少女の寝顔は、静かだった。だが、蓮には、彼女の頬が、先ほどより少しだけ柔らかく見える気がした。


夜明けまで、あと数時間。


そして、三日後、ギルドの幹部と会う。


その間に——ゼノンが動く。


蓮は、パイルバンカーのセーフティを、もう一度確認した。


---


第11話 完

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