見えない任務
蒼は走り続けていた。息はもう限界に近く、喉が焼けるように痛い。それでも止まるという選択肢が頭に浮かばなかった。止まった瞬間、何かに追いつかれるような気がしていた。背後で鳴り続ける低い音が、それを確信に変えている。地面の奥から響いてくるような振動。規則性のない揺れ。建物の壁がきしむ音。世界そのものが不安定になっている。
隣では美月も必死に走っている。何度も足がもつれそうになりながら、それでも蒼の手を離さない。握られた手の震えが、そのまま恐怖の大きさを伝えてくる。
「……どこまで行くの」
美月の声はかすれていた。
蒼は前を見たまま答える。
「分かんない。でも、止まったらダメな気がする」
自分でも曖昧な言葉だと思う。それでも、それ以外に言いようがなかった。
街はもう、原型を保っていなかった。道路にはひびが入り、信号は斜めに傾いている。店舗のガラスは割れ、商品が散乱している。遠くでは火が上がっている。煙が夜空に広がり、星の光と混ざり合っていた。
その空は、異様なほど近い。
見上げるたびに、圧迫されるような感覚が強くなる。まるで空が下がってきているようだった。
そのとき、蒼の足が止まる。
前方の道路に、一台の車が斜めに停まっていた。ピンク色の軽自動車。エンジンはまだ動いているのか、低い音が微かに聞こえる。運転席のドアが開いたままになっていた。
「……車」
美月が呟く。
蒼はゆっくりと近づく。周囲を警戒しながら、車内を覗く。誰もいない。鍵は刺さったままだった。逃げたのか、それとも――考えかけて、やめる。
今はそれどころじゃない。
「これ、使えるかも」
蒼が言う。
美月が不安そうに顔を上げる。
「でも、誰かのじゃない?」
「……ごめんって思うけど」
蒼は一瞬だけ目を閉じる。
「今は生きる方が優先」
自分で言っていて、その言葉の重さに少しだけ胸が締め付けられる。でも、それでも選ぶしかなかった。
そのとき、後ろから声がした。
「それ、私の車」
蒼と美月は同時に振り返る。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。肩までの髪が乱れている。呼吸は荒いが、目はしっかりとこちらを見ている。年齢は二十代後半くらい。服の裾が少し汚れている。
蒼は一瞬固まる。
言い訳を探す前に、その女性が言った。
「乗るなら早くして」
少しだけ、驚いたように目を見開く。
「え?」
「ここ、長くいられる場所じゃない」
女性は短く言い切る。
「私も乗る。だから、早く」
迷っている時間はなかった。
蒼はすぐに頷く。
「……ありがとう」
三人は急いで車に乗り込む。蒼は助手席、美月は後部座席。女性は運転席に滑り込む。ドアが閉まる。エンジン音が少しだけ強くなる。
車が発進する。
道路は荒れていたが、それでも徒歩よりは圧倒的に速い。揺れに合わせて車体が軋む。ハンドルを握る女性の手は、驚くほど安定していた。
しばらく誰も話さない。
外の光景が流れていく。壊れた街。燃える建物。逃げる人々。非現実の中にいるのに、すべてが妙にリアルだった。
やがて女性が口を開く。
「どこから来たの」
蒼は少し迷ってから答える。
「大学の方から」
女性は小さく頷く。
「私は仕事帰り。普通に帰るはずだった」
一瞬、言葉が途切れる。
「……こんなことになるなんてね」
その声には、ほんのわずかに苦笑が混ざっていた。
蒼は聞く。
「これ、何が起きてると思いますか」
女性はすぐには答えなかった。前を見たまま、少しだけ考えるように間を置く。
「分かってる範囲で言うと」
短く息を吐く。
「地球が、引っ張られてる」
蒼の心臓が一瞬強く鳴る。
「……やっぱり」
女性がちらっと横を見る。
「知ってるの?」
「なんとなく……全部繋がる気がして」
女性は小さく頷く。
「私も同じ」
車は坂道を登っていく。高台へ向かっているのが分かる。
そのとき、ラジオから突然音声が流れた。
「――対象、移動確認」
三人とも一瞬固まる。
ノイズ混じりの声。明らかにニュースではない。
「――ポイントBに誘導しろ」
「――了解。処理は現地判断で」
ザッ、と音が切れる。
車内に沈黙が落ちる。
美月が小さく呟く。
「……なに、今の」
女性――沙紀は、ほんのわずかに眉をひそめる。
「通信、拾った?」
「でも、これラジオですよね」
蒼が言う。
沙紀は短く答える。
「普通じゃない」
その言葉の意味を考える前に、視界の先に人影が見えた。
道路の中央に、男が立っている。
動かない。
まっすぐこちらを見ている。
街灯の下、その姿ははっきり見えた。スーツ姿。場違いなほど整った服装。周囲が混乱している中で、その男だけが静止している。
沙紀がブレーキを踏む。
車が減速する。
完全に止まる前に、男が一歩前に出る。
逃げ場はない。
男が口を開く。
「その車、止めてください」
低く、よく通る声だった。
沙紀はハンドルを握ったまま動かない。
蒼は直感で理解する。
この男は、普通じゃない。
空気が違う。
周囲の混乱から切り離されたような存在感。
男は続ける。
「あなたたちは、すでに観測対象です」
意味が分からない。
でも、嫌な予感だけははっきりしている。
「ここから先は、我々の管理下になります」
沈黙。
その一瞬の間に、沙紀がアクセルを踏み込んだ。
車が一気に加速する。
男の横をすり抜ける。
バックミラーに、男の姿が映る。
動かない。
ただ、こちらを見ている。
その手には、小さな通信機のようなものが握られていた。
「……なに、あれ」
美月の声が震える。
沙紀は短く答える。
「たぶん」
一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「関わっちゃいけない側の人間」
蒼は後ろを見る。
男の姿はもう見えない。
でも確信だけが残る。
この世界の異常は、ただの自然現象じゃない。
知っている人間がいる。
そしてその人たちは
隠している。
車は暗い道を走り続ける。
空は、さらに近い。
星の光が、静かに強くなっていく。
世界の終わりは、もうすぐそこまで来ていた。




