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星が近づく世界  作者: 藤苺めぇ


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3/6

重力の向こう側

沙紀は、ハンドルを握る手に力を込めていた。指先が白くなるほど強く握っていることに、自分でも気づいていなかった。エンジンの振動が、足元からじわじわと体に伝わってくる。道路は混乱していた。信号は機能しているのか分からないまま点滅を繰り返し、車は互いに譲ることもなく、無理やり隙間に割り込んで進んでいる。クラクションの音が絶え間なく鳴り、怒鳴り声と泣き声が混ざり合っていた。


ほんの十分前まで、これはただの帰り道だった。仕事を終えて、いつも通りの時間に車に乗り、なんとなく音楽を流しながら運転していただけだった。それが、空を見た瞬間から全部崩れた。雪。沖縄ではあり得ない光景。最初は笑いそうになった。でも、すぐに違和感が勝った。星が近い。説明できない距離感。空が落ちてくるような圧迫感。その直後に見た、空のカウントダウン。そして今。


「……なんなの、これ」


声に出した瞬間、少しだけ現実味が増してしまい、余計に怖くなった。目の前の車が急停止する。沙紀は反射的にブレーキを踏む。タイヤが鳴る。ギリギリで止まる。前の車の中では、小さな子供が泣いていた。母親らしき人が必死に何かを話しかけている。言葉は聞き取れない。でも、内容は分かる気がした。大丈夫、大丈夫と繰り返しているのだろう。沙紀は視線を逸らし、前を見た。


進めない。


このままここにいたら、巻き込まれる。理由は分からない。でも、直感だけが強くそう告げていた。沙紀はハンドルを切る。対向車線に半分乗り上げる形で車を前に出す。後ろからクラクションが鳴るが、もう気にしていられない。ルールを守っている場合じゃない。今はただ、動き続けることが重要だった。


アクセルを踏み込む。


車は無理やり前へ出る。隙間を縫うように進み、なんとか渋滞を抜ける。少しだけ道が開けた。だがその瞬間、空が光った。視界の端で強い光が弾ける。反射的に顔を上げる。燃えながら落ちてくる光。隕石。その言葉が頭をよぎるが、すぐに否定したくなる。そんなものが現実に降ってくるはずがない。でも現実に、落ちている。遠くで爆発が起きる。地面が揺れる。ハンドルがぶれる。沙紀は必死に持ち直す。


「……落ちてる」


呟いた声は、自分でも驚くほど冷静だった。恐怖が大きすぎると、人は逆に静かになるのかもしれない。沙紀は前を見据えたまま考える。どこへ行くべきか。街の中心は危険だ。建物が多い場所は崩れる可能性がある。なら、開けた場所。高い場所。海が見える丘。そこなら、少なくとも視界は確保できる。


伊佐の高台が頭に浮かぶ。


沙紀は迷わずハンドルを切る。坂道へ入る。道は比較的空いていた。みんな下へ逃げているのかもしれない。逆方向に向かっている自分が正しいのか分からない。でも、今は自分の直感を信じるしかなかった。エンジン音が少し荒くなる。坂を登る。車体が揺れる。後ろでまた爆発音がする。振り返りたい衝動を押さえ、前だけを見る。


やがて視界が開ける。


丘の上に出た瞬間、沙紀は思わずブレーキを踏んだ。タイヤが砂を噛む音がする。車が止まる。エンジン音だけがやけに大きく響く。沙紀はゆっくりと顔を上げる。


空が、違っていた。


星が、異常なほど近い。ひとつひとつがはっきりと形を持っているように見える。まるで空のすぐ向こうに宇宙があるような距離感だった。怖いはずなのに、一瞬だけ見とれてしまうほど綺麗だった。地面を見ると、青白い花が風に揺れている。こんな場所にこんな花があった記憶はない。周囲には蛍のような光がふわふわと漂っている。冬なのに。沖縄なのに。全部がおかしい。


そのとき、ラジオがノイズ混じりに音を立てた。沙紀は反射的にボリュームを上げる。


「……現在、各地で重力異常が確認されています」


声は途切れ途切れだったが、はっきりと聞き取れた。


「重力の変動により、地球の軌道に影響が出ている可能性が――」


ザーッというノイズが入る。


「……専門家は、未知の重力源の存在を指摘しています」


沙紀の呼吸が止まる。


重力。


その言葉が妙に現実味を帯びる。星が近い理由。物が落ちる理由。地面が揺れる理由。全部が一本の線で繋がる。


「……引っ張られてる?」


自分の声が、少し震える。


地球が。


何かに。


空を見る。


星の奥に、わずかに歪んだ部分があることに気づく。黒いわけでも、明るいわけでもない。ただ、そこだけ空間が捻じれているように見える。渦のような形。見てはいけないものを見ている気がして、目を逸らしたくなる。それでも、目が離せない。


そのとき、地面が大きく揺れた。今までとは比べ物にならない強さ。車がガタガタと音を立てる。沙紀はとっさにハンドルを握る。視界がぶれる。バランスを崩しかける。丘の下の街を見ると、建物の一部が崩れているのが見えた。煙が上がる。火が広がる。


そして、海。


水面が大きくうねっている。普通の波じゃない。もっと深いところから押し上げられているような動き。その中に、何かが見える。長い影。ゆっくりと動いている。


「……あれも、出てきたの」


沙紀は呟く。


理由は分からない。でも、分かってしまう。あれもこの異常の一部だと。空だけじゃない。海も。地面も。全部が変わっている。


ラジオが再び音を立てる。


「……地球は現在、未知の重力圏に接近していると考えられます」


「このまま接近が続いた場合――」


一瞬、間が空く。


「――地球は軌道を維持できなくなる可能性があります」


その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。


軌道を維持できない。


つまり。


「……宇宙に、落ちる?」


口にした瞬間、全身が冷たくなる。


あり得ない。


でも、今起きていることの方が、もっとあり得ない。


空を見上げる。


星は、さらに近い。


手を伸ばせば届きそうなほどに。


その向こうで、歪みがゆっくりと広がっている。


沙紀は車のドアを開ける。外に出る。足元が少しふらつく。風が強くなっている。空気が不安定に流れているのが分かる。耳鳴りのような音が、ずっと続いている。


それでも、目を離せない。


怖い。


でも、それ以上に。


「……綺麗」


思わず、そう呟いていた。


世界が終わるかもしれない夜。


それでも、目の前の光景はあまりにも美しかった。


星が、近い。


その事実だけが、静かに心に落ちていく。


そして沙紀は理解する。


これはもう、止まらない。


世界はもう、元には戻らない。


空の向こうで、何かが確実に近づいている。


それだけが、はっきりしていた。

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