逃げるしかない夜
最初に崩れたのは、音だった。
ドン、と腹の奥に響くような衝撃音が遅れて届く。
空で爆ぜた光の余韻が、まだ網膜に残っている。
蒼は思わず耳を押さえた。
遅れてやってくる音は、雷のようでいて、もっと重く、もっと現実的な重さを持っていた。
空気が揺れる。
地面がわずかに震える。
周囲の誰かが叫ぶ。
「やばいって!」
「逃げろ!」
その言葉が引き金になったように、人の流れが一気に変わる。
さっきまで空を見上げていた人たちが、一斉に走り出す。
蒼の横を、誰かがぶつかりながら通り過ぎる。
肩に衝撃が走る。
よろける。
それでも、まだ動けない。
視線は空に釘付けのままだった。
燃える光がいくつも落ちてくる。
一つじゃない。
二つでもない。
無数に。
まるで空そのものが崩れて、破片が降ってきているみたいだった。
「蒼!」
名前を呼ばれて、やっと意識が戻る。
美月が腕を掴んでいた。
「逃げるよ!」
その声に、蒼はやっと頷く。
「……うん」
足を動かす。
でも、思ったより遅い。
頭の中がまだ現実を受け入れきれていない。
状況が整理できない。
ただ分かるのは一つだけ。
ここにいたら危ない。
二人は走り出す。
靴底がアスファルトを叩く音がやけに大きく聞こえる。
周囲の人たちも同じ方向へ流れている。
どこへ向かっているのか分からないまま、とにかく離れようとしている。
遠くで何かが地面にぶつかる音がする。
ドゴン、と鈍い音。
その直後、地面が揺れる。
今度はさっきよりもはっきりと。
「……っ!」
蒼は思わず立ち止まりそうになる。
怖い。
体が強張る。
でも美月が引っ張る。
「止まらないで!」
「うん……!」
息が上がる。
肺が焼けるように熱い。
でも足を止めるわけにはいかなかった。
通りの先に交差点が見える。
信号は赤のまま。
でも誰も止まらない。
車も、人も、全部がぐちゃぐちゃになって動いている。
クラクションの音が鳴り続けている。
怒鳴り声。
泣き声。
混ざり合って、何を言っているのか分からない。
そのとき。
視界の端で、何かが落ちるのが見えた。
光。
一直線に。
「……!」
蒼は反射的に顔を上げる。
近い。
さっきよりもずっと。
それは空から落ちてくる火の塊だった。
建物の向こうに消えた次の瞬間。
衝撃。
爆発音。
空気が押し出される。
「きゃっ!」
美月が悲鳴を上げる。
蒼は思わずしゃがみ込む。
風圧が遅れて体を叩く。
熱を含んだ空気が一瞬だけ通り抜ける。
焦げたような匂いが鼻に入る。
「……今の、なに」
美月の声が震えている。
蒼は答えられない。
分かっている。
でも、言葉にしたくない。
隕石。
そんな言葉を口にしたら、完全に現実になってしまう気がした。
二人は再び走り出す。
街の様子が、明らかに変わっていた。
コンビニのガラスが割れている。
電柱がわずかに傾いている。
どこかで火が上がっているのが見える。
さっきまで普通だった場所が、ほんの数分で別の世界になっている。
蒼の頭の中で、断片的に情報が繋がる。
星が近い。
位置がズレている。
地震。
雪。
そして、今のこれ。
全部がバラバラだったものが、急に一本の線になる。
「……おかしい」
思わず口に出る。
美月が息を切らしながら聞き返す。
「なにが?」
蒼は走りながら言う。
「全部……つながってる」
「星が変で、地震が来て、雪が降って……」
「で、今これ……」
言いながら、自分で怖くなる。
偶然じゃない。
これは全部、同じ原因だ。
その確信が、じわじわと広がっていく。
そのとき、また揺れが来る。
今度は明確に大きい。
建物の壁がきしむ音がする。
「やばい、倒れるかも!」
誰かが叫ぶ。
人の流れがさらに乱れる。
押される。
バランスを崩す。
蒼はとっさに美月の手を強く握る。
離れたら終わりだと思った。
「絶対離れないで」
「うん……!」
美月の手も震えている。
二人は必死に前へ進む。
そのとき。
蒼はふと気づく。
音が変わった。
さっきまでの混乱した音じゃない。
もっと低い。
もっと重い。
地面の奥から響くような音。
ゴォォ……という、連続した振動。
蒼は立ち止まり、振り返る。
遠く。
街の向こう。
海の方向。
暗闇の中で、何かが動いている。
最初は分からなかった。
ただの影に見えた。
でも違う。
動いている。
ゆっくりと。
うねるように。
「……なに、あれ」
美月が呟く。
蒼は目を凝らす。
距離があるはずなのに、妙に大きく見える。
その理由に気づいた瞬間、背筋が凍る。
近いんじゃない。
大きすぎる。
海の方から、何かが街に向かっている。
建物の影を越えて見えるその輪郭は、明らかに生物の形をしていた。
長い。
太い。
蛇のような、ミミズのような。
理解が追いつかない。
頭が拒否する。
「……嘘」
蒼は一歩後ずさる。
そのとき、また空が光る。
反射的に見上げる。
星が。
さらに近い。
さっきより、明らかに。
圧迫感が増している。
空が落ちてくる。
そんな感覚が現実になり始めている。
蒼はようやく理解する。
これはもう
逃げ場のある出来事じゃない。
「……ねえ」
美月が小さく言う。
「これ、どうなるの」
蒼は答えられなかった。
ただ一つだけ、はっきりしている。
ここにいてはいけない。
考えるより先に、言葉が出る。
「……走ろう」
声は震えていた。
でも、それでも言う。
「とにかく、離れる」
理由なんて分からない。
どこが安全かも分からない。
それでも。
止まったら終わる。
そんな感覚だけが、確かにあった。
蒼は美月の手を引く。
二人は再び走り出す。
背後で、低い音が近づいてくる。
地面がわずかに波打つ。
空は異様なほど近く、重くのしかかっている。
世界は、確実に壊れ始めていた。




