星が近い夜
沖縄の夜は、いつも少しだけ湿っている。
昼間に温められた空気が、ゆっくりと地面に降りてくるような感覚。肌にまとわりつくような生ぬるさがあって、それがこの土地の夜の当たり前だった。
蒼は大学の帰り道、片手でカバンを持ちながら、もう片方の手で首元を軽く扇いだ。昼よりはマシとはいえ、空気は重い。Tシャツの背中にじんわりと汗が残っているのが分かる。
道路脇の街灯が、少しオレンジがかった光で歩道を照らしている。遠くからは波の音が聞こえる。この時間帯になると、車の数も減って、街はゆっくりと静かになっていく。
その“いつも通り”の中で、蒼はふと違和感を覚えた。
視線が自然と空へ向く。
星が見える夜だった。
沖縄は都会に比べると空が明るいとはいえ、こういう日はちゃんと星が見える。蒼は昔から、特別好きというわけでもないのに、夜空を眺める癖があった。
理由はよく分からない。ただ、見てしまう。
今日もいつも通り、なんとなく見上げたはずだった。
でも、すぐに眉をひそめる。
「……あれ」
声が、思ったより小さく漏れた。
星が、大きい。
ほんの少しじゃない。気のせいで済ませられるレベルではなかった。
一つ一つの星が、くっきりと輪郭を持っているように見える。遠くにある点ではなく、そこに“存在している何か”として感じられる距離感。
空が、近い。
そうとしか言いようがなかった。
「ねえ、見て」
隣を歩いていた友人の美月が、同じように空を見上げている。
「今日、星やばくない?」
蒼は視線を空から外さないまま、小さく頷いた。
「……うん」
「なんかさ、近くない?」
「……近い」
言葉にした瞬間、余計に現実味が増した気がした。
美月はスマホを取り出して写真を撮ろうとする。
「ちょっと待って、これ絶対SNS映えじゃん」
カシャ、と軽い音が鳴る。
画面を確認した美月が眉をしかめた。
「え、うそ、全然写ってない」
蒼もちらっと覗き込む。
そこに映っているのは、ただのいつもの夜空だった。
星は、小さい。
さっきまで見ていた空とは、まるで違う。
「……なんで」
蒼は小さく呟く。
自分の目で見ている空と、画面の中の空が一致しない。そのズレが、妙に気持ち悪かった。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
蒼は取り出して画面を見る。
ニュース通知。
【異常観測速報】
一瞬、指が止まる。
開くか迷って、結局タップした。
画面に表示されたのは短い文章だった。
「国内外の天文台において、恒星の位置に微小なズレが確認されています」
「……え」
思わず声が出る。
「どうしたの?」
美月が覗き込む。
蒼は画面を見せた。
「星の位置がズレてるって」
「え、なにそれ、こわ」
軽く笑いながらも、美月の声は少しだけ強張っている。
そのときだった。
足元が揺れる。
ほんの一瞬、体がふわっと浮くような感覚。
次の瞬間、ぐらりと地面が横にずれた。
「え、ちょ、なに」
「地震?」
沖縄では珍しい揺れだった。
周囲の人たちも一斉に立ち止まる。信号待ちをしていた車の中からも、顔を出して辺りを見る人がいる。
揺れは長く続かなかった。
数秒で、何事もなかったかのように止まる。
でも、空気だけが変わっていた。
さっきまでの“いつも通り”が、少しだけ壊れている。
「……今の、ちょっとやばくない?」
美月が小さな声で言う。
蒼は答えなかった。
答えられなかった。
その代わり、また空を見上げる。
星は、さっきよりもさらに大きく見えた。
いや――
近づいている。
そんな錯覚じゃない。
確実に、さっきより近い。
そのとき。
空の端が、ふっと光った。
細い線ではない。
広がる光。
蒼は息を止める。
「……流れ星?」
美月が言う。
でも、違う。
流れ星は一瞬で消える。
あれは消えない。
ゆっくりと、落ちている。
尾を引きながら。
燃えながら。
「……落ちてる」
蒼の声は震えていた。
周囲でもざわめきが広がる。
誰かが叫ぶ。
誰かが走る。
誰かが笑っている。
現実感が、薄い。
そのとき、頬に何かが触れた。
冷たい。
蒼は指で触れる。
白い粒。
触れた瞬間、じわっと溶けた。
「……雪?」
あり得ない。
沖縄で雪。
でも、空を見上げると、確かに白い粒が落ちてきている。
一粒、また一粒。
それが少しずつ増えていく。
街灯の光に照らされて、白い粒がゆっくりと舞う。
幻想的な光景だった。
綺麗だと、一瞬だけ思ってしまうくらいに。
でも次の瞬間、その感情は消えた。
空に、光が走る。
線ではない。
形を持っている。
青白い光が、はっきりと浮かび上がる。
10
「……なに、あれ」
誰かの声。
笑い声が混じる。
「プロジェクションマッピングとか?」
でも、誰も確信は持てない。
数字が変わる。
9
蒼の背中を、冷たい汗が流れる。
理解できないものに対する、本能的な恐怖。
8
雪が強くなる。
7
遠くの空が赤く染まる。
6
また揺れる。
今度は少し強い。
5
人が走り出す。
4
泣き声。
3
スマホの通知音が一斉に鳴る。
2
蒼は空から目を離せない。
星が。
近すぎる。
逃げた方がいいと分かっているのに、体が動かない。
見てしまう。
1
時間が止まったみたいに感じる。
息ができない。
そして――
0
その瞬間。
空の向こうで、巨大な光が爆発した。
音は遅れてやってくる。
空気を震わせる、重い衝撃音。
蒼の体がびくっと跳ねる。
その光の中から
さらにいくつもの光が分かれて落ちてくる。
雨のように。
火の雨。
「……嘘でしょ」
美月の声が、震えていた。
蒼はただ立ち尽くしていた。
逃げないといけない。
そう思っているのに。
足が動かない。
頭の中で、何かが静かに理解していた。
これはもう
いつもの世界じゃない。
空が、落ちてきている。
その感覚だけが、はっきりと残っていた。




