1-24 エピローグ
馬車に乗ってから三度目の日の出を浴びた。
木材の硬い寝床は未だに慣れない。何よりも寒い。寒すぎる。全ての動物が凍るなんて冗談を本気にしてしまうほど寒かった。
そのため旅路はお世辞にも楽しいなどとは言えず、ずっと荷車の中にいた。幸い吹雪や雪崩はなく、平和な道程だった。
ロベルト・ダーナーと名乗った馬車を繰る商人から、分厚い寝袋を貸してもらった。フレゼリシアへの旅路の苦慮を、その寝袋は如実に物語っていた。くるまるとオークのようになってしまうそれに、寝るたびため息が出る。
寝袋から這い出したリィナは、荷台から銀世界の逆再生を見た。
植物は軒並み雪を被っており、よくこんな気候の中葉をつけられるなと感心する。
「なんだか、こういう景色のほうがフレゼリシアらしいです」
「起きてたんだ」
オークになっていたミミリーが耳を伸ばしながら寝袋から這い出た。
「んーしょっ」と零しながら、リィナの横に座り込む。
「こういう景色って、田舎の?」
「はい。私、八年間こんな景色に囲まれながら暮らしましたから」
「凄いね。あたしなら一日目で逃げ出すよ」
「そんな事を言っている場合ではなかったですからね……。ぶっちゃけ、小さい頃からずっとこの環境でしたから、慣れてたんでしょうね。メロイアに送られたときは、暑すぎて死ぬかと思いました」
「……そこで、フローラっていう人に拾われたんだ」
「はい……! 奴隷だった私を拾ってくれて、ここまで連れてきてくれたんです」
「そして、冒険の途中で別れた、と」
ミミリーは縋るように、存在を確認するように、リィナの肩に首を預けた。
長い耳が、くしゃりと折れ曲がる。
「……ちょうど、リィナさんが私を置いていったように。さよならもなしに、忽然と消えてしまったんです」
「あー……。だからあんな必死に」
「そうですよっ! 何で置いていくんですか!」
「それは一昨日言った」
「もう……」
突然の別れが、もはやトラウマとなっているようだった。
精神力は強そうなのに、特定の相手に対してはめっぽう弱いのかもしれない。
「次置いていったら、地の果てまで追いかけますから」
「怖っ」
「自業自得ですっ」
手綱を握るロベルトは、冷や汗をかいていた。
嬢ちゃん、面倒くさい恋人に捕まったな、という冗談を胸にしまって。
「一昨日のこと、思い出しちゃったじゃないですか。忘れたかったのに」
「楽しい記憶で塗り替えればいい」
「それリィナさんが言います? 寝袋でずうううっとくるまってたリィナさんが?」
「うっさい」
「ふぅ」と白い息を吐いたミミリーは、ふと外を見て。
「そういえば、シアさんは大丈夫ですかね」
「……気にかけてるんだ」
「あんなにお金を渡してしまったら、期待も心配もしないでいられるわけないです。孤児院の、弟さんたちと逃げられていたらいいけれど」
「心配するより、信じた方がいい」
「えっ?」
「あたしも、あんたを置いていったときは心配しなかった。だって、あんたなら一人で復讐を最後までやってのけるって信じてたから。……心配っていうのは、優しさに見えて不信の表れなんだよ。相手のことを本当に信じてるなら、心配しない方がいい」
いいこと言うな、とロベルトは感心した。
「……そうします。やっぱりリィナさんは聡明で、勇敢で……。フローラさんに似てる」
「もういいよ。それ」
「へへ」とミミリーは悪びれもせず笑った。
実際、フローラもリィナと同じ考えでミミリーを一人にしたのだろう。
別にそれは聡明でも何でもない。
ただ、ミミリーにとって自分が不必要だと思っただけだ。
フローラという得体も知れない人間の思考が、手に取るようにわかってしまうこの感覚が、不快に思って背筋が凍った。
――あたしと人間が、似てるわけないじゃん。
南の遠くに太陽が昇ってきたところで、山越えの折り返し地点。つまりは下りに差し掛かった。この山を下り終えたら、フレゼリシアの都――ノルトハーゲンに至るそうだ。
馬の鬣の向こうに、大きな都市が見えた。
一際高い煙突が黒い煙を吐いているのが見えた。ミミリーが言うには、先進の証らしい。
「――それで、蒸気機関が実用化されたんです! ……聞いてます?」
「え、ああ、うん。聞いてた」
「……絶対聞いてない。端的に言えば、千年前の冬厳竜封印を経て極寒の地になったフレゼリシアで生き抜くために発達した暖房技術を、更に応用したものが蒸気機関なんです。寒すぎるのは、一概に短所と言えないってことですね」
「火を暖房として使っていたから、それを動力の発生にも応用したっていうことか」
「そうです! それでできたのが、蒸気機関車です。ほら、見てくださいこの線路を!」
馬車の走る峠道。その崖下に、手こぎトロッコ用の線路とは比べものにならない大きさの線路が引いてあった。
そこだけ森が切り開かれ、小川には石橋が架けられていた。
「手こぎのトロッコでは絶対に輸送できない量の物資や人を運べるようになったんです!」
「おかげで俺らは食いっぱぐれちまうって訳だ」
ロベルトが横顔だけこちらに向けながら、吐き捨てるように言った。
「あえぅっ!? ご、ごめんなさい! 私、無神経でした……!」
「別にいい。蒸気機関車が開発されてるのは知ってたからな。あの線路はノルトハーゲンとラップランドをつなぐ線路だ。南の方で魔王軍の攻撃が激しくなるまでは、敷設が進んでいた。今は延期されて、ノルトハーゲンと小さい集落たちを結ぶだけだ」
「それって、機関車自体は走ってるってこと?」
「ああ。一日に二往復。雪の中を鉄の塊が突き進むのは圧巻だぞ」
リィナは感心しながら腕を組んでいた。線路を見下ろして、何かを考えている。
「その、食いっぱぐれるって?」
ミミリーは恐る恐る質問した。
「あの線路がラップランドまで届いたら、俺はどうなる。俺が何日もかけて行く道を、俺の何倍の荷物を担いで一日で行っちまうんだ」
その背中は、哀愁漂っていた。
ロベルトはこの仕事で命を繋いでいる。この仕事で、妻子を養っている。それをある日突然、無機質な鉄の塊に奪われたら。大衆に熱く迎合される技術に奪われたら。行き場を失った恨みは、やがて悲しみや呆れに帰すのだろうか。
彼もまた、技術革新の生け贄となるのだ。
それが人間社会の理であった。
リィナは崖下に延びる線路へ、蔑みの眼を向けていた。
馬車は特に異状なく進んでいたが、突然ロベルトが手綱を引いて馬を止めた。
「おいおい、ここで雪崩かよ」
「雪崩?」
「ああ、あれを見ろ」
十馬身ほど先。大きく盛り上がった雪の丘で、道が塞がっていた。
「それほど大きいものではないが、巻き込まれたら崖下に真っ逆さまだな」
「運が良かったですね……。除雪されていないところを見ると、発生からそれほど経っていないように思えます」
「とにかく、除雪をしよう。馬だけならともかく、荷台もあったらひっくり返っちまう」
「手伝います!」
「あたしも。早く暖まりたいし」
荷台からスコップを三つ取りだし、三人は除雪を始めた。
新たな雪崩を発生させないよう、丁寧に側道へ雪を放っていく。
リィナはふと崖下を見て雪崩の道筋を追った。どうやら線路にまで雪が被っており、鉄の轍を白い怪物が喰らっていた。
その先端に、馬の死体と荷車のようなものがあった。一頭や二台といった量ではなく、どちらも十から二十は転がっていた。
「ロベルト」
少し声を張って、名前を呼んだ。
「どうした」
「あれを」
ロベルトとミミリーも、下を覗き込む。
「あの馬車って……私がラップランドに戻る前、ロベルトさんが同行していたキャラバンじゃ……」
「……ああ。俺の友人だ。俺がミミリーを下ろしたあと、先に行っていた」
「ロベルトが同行していたら危なかった」
「助けないとっ!」
崖下へ踏み込もうとしたミミリーを、リィナが咄嗟に抱き留めた。
「あんた正気!? もうとっくに死んでるよ!」
「まだわかんないじゃないですか!」
「どう見ても死んでる! この高さから落ちて、雪を被ってたらすぐ死ぬ」
「でも……でも、ロベルトさんの、お友達なら、助けないと!」
「……もう助からない。気持ちは嬉しいが、自然の力だ。仕方ない」
ロベルトはスコップを担いで、再び除雪作業に戻る。
「こんなこと、何度も経験した」と零して、俯いた。
「ロベルトさんは……ロベルトさんは、それでいいんですか」
「……もうやめなって。ミミリー」
「まだ助かるかもしれないのに。すぐ馬車に詰め込んで、全速力で近くの街に駆け込んだら、助かるかもしれないのに!」
「そうはいかないんだ」
「私は行きます! 絶対に見捨てない!」
「ここはフレゼリシアだ!」
あの寡黙そうなロベルトが、空気を震わせるような大声を、崖下に目を向けるミミリーへ浴びせた。
彼女の肩が跳ね、足を止めた。
「ここでは自然に多くの動物が殺される。何十年この道を通っている商人でも、初めて通る冒険者でも殺される。それだけじゃないんだ。彼らを助けに行った人間も、雪に足を取られて死ぬ。俺の友人を助けに行ったお前が死んだら、何の意味もねぇだろうが……! フレゼリシアは、そういうところなんだよ」
虚ろな目をするミミリーを横目に、彼は一際大きな雪の塊を投げた。
「俺もお前も、いつかはこうなると思って生きろ」
リィナもまた、除雪作業に戻った。
立ち尽くしていたミミリーは崖下に向け、「ごめんなさい」と零した。続けて二人にも、同じ謝罪の言葉を発した。
南にあった太陽が傾き始め、三人が段々と焦り始めたとき。
「ん、今何かが」
リィナの足下で、雪の丘が蠢いた。
「ミミリー、ここら辺にモンスターって」
「雪山ですと、狼や熊などがいますが……雪崩が起きたら基本的に逃げ出します」
「巻き込まれたとしたら……?」
「そりゃ、雪の下に……。もしかして」
リィナはミミリーに向かってこくんと頷いた。深刻な顔をしたミミリーは、ロベルトを避難させた。
蠢いた地面をスコップで突くと、それは殻を破らんとする雛鳥のように、雪の中で身を捩った。
急いで丘から駆け下りる。勢い余った体をミミリーに受け止めてもらい、振り返ると刹那。その背中に雪がかかった。
丘の頂上から、遠吠えをする巨大な狼が顔を出した。
だがその体毛は白く、体のそこここに氷柱をつけている。
「あれは……!」
「アイシクルウルフだ! しかもでけぇ! 早く逃げろ!」
雪の丘から這い出してくる彼奴は、体に赤い傷をいくつもつけながら、よろよろと立っていた。
「……凍傷で体が弱っている」
「まさか、助けようなんて思ってないよね」
「私たちに威嚇をしていなければ、そう思ってましたよ」
二人は背中から、各の武器を構える。
リィナは落日弓を。ミミリーは大剣を。
同行を誓ってから、初めての戦闘だった。
「ちょうどいい。ノルトハーゲンのギルドに持って行く土産は、あいつにしよう」
「臨むところです!」
ミミリーは早速、威嚇の戦技を発動。
リィナは山の斜面に飛び退き、彼奴から距離をとった。
腹を空かせた彼奴は牙を剥き出しにしてミミリーに襲いかかる。
三つ数える間に、丘から滑り落ちて飛びかかった。
「おりゃぁぁあ!」
雪に突き刺した大剣を振り上げて、彼奴の顔にぶちまける。
細い雄叫びを上げて、彼奴は立ち止まる。目を開けると、もうそこにミミリーはいない。
振り返ると、跳躍しながら大剣を振り上げる彼女の姿があった。
ただでさえ弱っている体を、回避行動へ移行させる体力はもうなかった。
「あたしなしでも良さそうだね」
「やるな、ウサギの嬢ちゃん」
弓を背中にしまって、リィナはロベルトと合流していた。
ミミリーがアイシクルウルフを余裕で一刀両断するその瞬間を、そしてその衝撃で雪の丘が崩れる様子を、二人は腕を組んで見ている。
「狼さん! ここはフレゼリシアです!」
ミミリーの攻撃でかなり除雪が楽になり、夕方前には出発の準備ができた。
「あたしたちはここで降りるよ。多分キャラバンが雪崩にやられたって報告をしないといけないから、あんたは急がないとでしょ」
「まぁ、そうだが……」
「フレゼリシアの景色も見たいですし、私たちは大丈夫ですから」
「わかった、そうするよ。さっきはありがとな」
「いえ、ここまで送ってくれて、本当にありがとうございました。またお会いしましょう、ロベルトさん」
元貴族としての血が騒いだのか、ミミリーは礼儀よく再会の約束をした。
ロベルトと彼の乗る馬車は、先ほどよりかなり速いスピードで、下山ルートを駆けていく。
それを追うようにして、二人の少女も歩き始めた。
黒煙を吐く都市に向かって、一歩ずつ。
極寒の厳しい大地に草臥れた体を奮い立たせ、白い息を吐きながら。
冒険者としてこの街で。さらにはこの大陸で、恐れ知らずの異名が名を馳せ、旅路を有利に進められるよう、祈る。そして復讐への覚悟を決めようとしていた。
だがどこまで背伸びしても、この二人はまだあどけない少女そのものだ。
「……あ」
「ん、どうしたんです?」
「土産にするとか言って、あいつの皮剥いでない」
「もうっ! 気づくの遅すぎですよ! 荷物まとめちゃったじゃないですかぁ!!!」
『ドーントレス』の名前が噂になるのは、もう少し先になりそうだった。
「陛下、実験は成功です」
「そのようだな、アウグスト」
実験結果を見るアスラン国王の、大きな背中の後ろで、アウグストと呼ばれた正装の神学者は嗤い顔でいた。
「ですが、やはりあの二人でないと厳しいかと……」
「片割れが見つからぬ限り、奴は何の役にも立たぬ。いつか来る龍災を防げるのは、あの二人が揃ったときだけだ」
「その通りであります」
彼は厳しい顔をしていた。それは無理難題を押しつけられた、人間の正常な表情。
「……私の部下の情報で、一つ興味深いものがあります。有用かはわかりかねますが」
「何だ」
「逃げ出したあの女は、どうやらフローラという名前で潜伏しているらしいのです」
国王は「フローラ……」とその名前を反芻した。
「必ず見つけさせろ。どこに潜んでいたとしても、ここに連れ戻すのだ」
「私と私の優秀な部下に、お任せあれ」
大樹の中に閉じ込められた力なき冬厳竜の寝姿は、迷いの森で誰にも見つかることなく、静かに氷の轍を引いていた。
いつか、この封印が解かれることを願って。
第一幕 終




