1-19 殺戮
彼の――魔王の言葉を反芻していた。
――サナトスたり得るには、ただ一つ。己の血統に恥じない高潔さを、徹頭徹尾保つのみである。
サナトスの高潔さとは、果たして眼下で巻き起こっている煉獄そのものなのだろうか。それとも、また違った形をした何かなのだろうか。
そもそも形なんてないのだろうか。
甲高い悲鳴が虚空を一閃した。
逃げ遅れた市民なのだろうか、リィナの直下。すなわち城壁に追い込まれた女が、叫んだらしかった。
肩から滝のような血を流す彼女は、傷口を押さえながら必死に、何か呼びかけている。
彼女に躙り寄る異形が三体。からからと、およそ生物が出すべきでない音を立てながら、大斧を引きずって女を睨視する。
もっとも、眼球なんてないのだが。
「やめて……来ないで……」
袋小路だった。
何故こんな狭い路地に逃げ込んでしまったのだろうか。
愚かだなと嘲った。
「殺さないで……お願い!」
その願いは当然ながら届かない。
大斧を細い骨の腕で持ち上げた骸骨の兵士は、荒い刃先で首元めがけ振り下ろす。
鈍い音の後、女は白い目を見せながら崩れた。声もなく、血潮の奔流が首の傷口から飛び出した。ただそれだけ。
何も感じなかった。だって彼女は人間だから。人間だという事実が罪なんだ。それだけで死に値する。
興味をなくして、リィナは別の場所を見やった。
上空から飛来した兵士たちによる裏取りが功を奏して、城門を防衛していた兵士たちは包囲された。
ギルドの緊急クエストに参加していただけの、熟練の冒険者たちが次々と命を落としていく。
若い者も年長者も、男も女も関係なく、骸骨たちの攻勢に薙ぎ倒されていった。
きっと魔王を倒すため、名声を上げるため。数多の目標を胸にパーティを組んで努力していたものも多いだろうが、そんなこと知るどころか、知ろうともしない骸骨の海に飲まれて死んでいった。
「ざまぁみろ」
もう人間に怯える必要はない。普通の冒険者を演じる必要もない。
ここだけが自由だ。この地獄を、見下ろせるこの独壇場だけが、リィナの自由だ。
夜の月が赤くなった。高く上がった炎たちを、逃げ惑う人々が気にしている余裕なんてなかった。
赤い月を背に、壁の上から見下ろすその少女が、堕天使のそれに見えた。
聖堂騎士団であり、ゲネラリス教徒の彼らからしてみれば、魔王は地獄の悪魔と手を組んだのかと勘ぐったに違いない。
「悪魔が……俺たちに堕天使をよこしたのか……」
「逃げろ! 奴らが来るぞ!」
「エリナ! 後ろだ!」
「いやぁぁぁぁぁぁ! あたしの腕がぁぁぁぁ!」
「もう逃げ場はねぇのかよ!」
街中に怒号や悲鳴が響く。我先にと、人々は中心の城を目指していく。
「冒険者さん……! 助けてください!」
「知らねぇよ! 自分でなんとかしろ!」
逃げ惑うのは丸腰の市民だけじゃなく、立派な武器を持った兵士や冒険者たちも同じだった。
怪我を負って助けを求める弱き女の腕を振りほどき、屈強な冒険者は駆けていく。
結局、それが死を前にした人間だった。
大通りに響く蹄の音とともに、バスタードソードを一閃する女騎士の姿があった。
通りすがりに骸骨の頭を吹き飛ばし、そのまま前線に向けて駆けていく。
カフカだった。ポニーテールを靡かせながら、愛馬を叩いて目指すのはひとつ。
リィナだった。
カフカはこの混乱と殺戮のさなか、魔術師部隊の指揮官から情報説明を聞いていた。
――あの人影が怪しい、と。
彼女は外套で察した。ギルドで会った、あの女だ。
確かに遠目でしか見えない。だがカフカの読みは正確だった。
支援の部下すら後方に置いていった。敵は遥か上空。単騎で突撃するにはあまりにも不利。
頼みの綱としてあるのは、脚力を増幅する支援魔法ただ一つ。
それほど、彼女はこの故郷を愛していた。同時に、リィナを殺すことだけ考えていた。
「今行ってやる……! 息をつく間もなく、お前を八つ裂きにしてやる……!」
彼女はどうしようもなく、根っからの戦士だった。この瞬間までは。
今となっては、ただ怒りに任せて前を行くただの怪物に成り果てた。
業火に飲まれる街を見下ろせば、一筋の光が闇の中を突き刺していた。
そこにいた魔王軍の兵士たちは悉く倒れる。
「ようやくお出ましか」
「遅かったね」
一人と一匹はのんきにそう言った。
光を纏った女はこちらを睨んで何か叫んでいた。
「こっち向かってきてるね。弓ないけど、大丈夫?」
「まだ城攻めには足りないからなぁ……。もう少し魔素を送り続けないと」
「でもすっごい形相だよ」
ろんろんは背中からちょこんと顔を出してそう言う。
「怒りに全部支配されてるね。あんなのただの化け物じゃ――」
片手で頭を抱えて、自分に問うた。
自分の足を見やれば紺碧の髪が垂れて、邪魔になる。そんなことを気にする余裕などなかった。
「……リィナ?」
「あたし……あたしも……おんなじじゃん……。何言ってんだろ……ほんとに」
気遣わしげに見るろんろんは、何も言わず顔を引っ込めた。
震える手を、かなぐり捨てるように下ろして、リィナはため息を一つ。
「まぁ、いいや。やることやるだけだし」
そうだ。それでいい。
自分が決めた目標を完遂すればいい。
そうすれば、全て報われる。
――あたしの恨みも、おじいちゃんの願いも、全て報われる。それはカフカみたいに、怒りが全て支配する感情なんかじゃない。極めて理性的で知的な計略だ。
そう自分に言い聞かせて、奮い立たせた。
ろんろんにとっては聞き慣れた、夜の底に沈むようなリィナの低い声色。
自分以外の存在全てを見下しているような、蔑みを含んだくぐもった声だった。
「……ようやくあたしも、強者と戦えるって訳か」
リィナが他者を強者であると認めることは少ない。それだけ、カフカは人間の中でも突出した能力者であるのだ。
そんな者と、直接剣を交えて戦うことができる。
「引けないところまで来たって、ことだね」
「何を今更」
「もしあたしに何かあったら、よろしくね。ろんろん」
「もちろんだよ、リィナ」
「頼りにしてるから」
右目が紫に光る。魔王軍の紋様が妖しく浮き出、やがてリィナの眼前に小さな魔法陣を展開する。
こほん、と咳払いをして。
ふぅ、と息を吐いた。
魔王軍幹部であるという重責が、一端の少女にしか見えないリィナにはあった。
そして、その使命に酔いしれていた。
「……魔王軍――いや、我が軍は優勢。抵抗する人間を薙ぎ倒し、逃げ惑う人間を殺戮している。もう戻ることはできない。人間に頭を下げて許してくださいなんて言えない。さしあたってやれることはただ一つ。人間を殺し尽くすことだ。……賽は投げられた。状況は最高。これより、我が軍と、サナトスの反撃を開始する――」
彼女の、彼女なりの高潔さかもしれなかった。
この殺戮こそが。
そして、もう一人の女の高潔さが、閃光と怒号とともに衝突する瞬間が、遂に訪れたのである。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
疾走する早馬から飛び立ったカフカは、増幅した脚力を駆使して馬を押しつぶすほどのそれを得た。結果はまるで投石機のような機動だった。
服と髪を靡かせ、風を切るスピードで城壁の天辺まで跳躍したのである。
リィナと目を合わせた。鬼の形相で、彼女を睨む。数瞬前まで街を見下ろしていた彼女はあまりの速さに目を丸くし、一歩退いた。
これがカフカという女なのか。
カフカは右手のバスタードソードを、リィナの首を吹き飛ばさんと地面と水平に振るった。
確実に斬るため、右腕の筋肉を総動員するだけでなく、腹を捻って腹筋まで使った。体の全てを使ってリィナを殺そうとしていた。
同時に城壁へ着地する姿勢を作る。万一リィナが攻撃を躱したとしても、すぐさま追撃できる態勢を整えるため。
ブラウスを羽織った上半身は捻られ、体のラインが容易に判別できた。コルセットスカートのフリルは剣士にあるまじき小洒落た服飾だったが、空中へ飛び上がったカフカに、美しさを付加していた。
「……っ!」
声が出る前に体を動かした。
頭の位置を下げ、膝を折る。リィナの頭上に鉄の塊が通った気配がして、冷や汗をかいた。
猫耳の、指一本分上を黒鉄の剣が横切った。
――すぐに追撃が来る。
姿勢を低くしたまま、下へのエネルギーを後ろへ流用した。
読みは的中していた。
まさに今、リィナの鼻尖を、空を切る剣先が突き出ていた。
「っぶな! ちょっと、なんであたしを――」
カフカは躊躇なく三撃目。次は腰から抜いた短剣で受けた。
鋭い高音。それはまるで剣戟の幕が開かれたという合図のようにも聞こえた。
リィナは知らないふりをしてみたが、全く効果がなかったようだ。カフカは躊躇なく、猛然とした唸り声を上げながら一撃一撃に明確な殺意を込めて攻撃してくる。
反動をつけた刺突攻撃。低姿勢から突き上げるような斬撃。
何度相殺しても立て直し、息をつく間もなく攻撃してくる。
動き一つ一つが俊敏すぎて、まるで隙がなかった。
「殺してやる……殺して、八つ裂きにしてやるっ!」
火花が散る激しい剣戟の中で、リィナの目ははっきりと捉えていた。城の上に浮かぶ、落日弓の姿を。
魔王軍の転送が終わった。巨大な紫煙に包まれた魔法陣が、ゆっくりとその姿を隠していく。
流星のように黒鉄の弓が宙をゆく。円を描きながら主人のもとへ一直線に。
その間もリィナはダガーでカフカの連撃を受け流す。横目に自らの武器を捉えながら、五、四、三と数え。
一際力の入った刺突攻撃を受けた直後、その勢いを利用して跳躍した。
風切音を立てながら歯車のように回転し、城壁に火花を散らす落日弓は、カフカの前を横切る。
息を漏らしながら、彼女は足を止めた。
──やっと隙を見せた。
落日弓は宙に浮くリィナの体を半周し、左手へ帰る。柄をガッチリと掴んで息をつく暇もなく、矢を番えた。
空気が揺れた。たった一本の矢が、たった一本の細いストリングが、空気を揺らした。
矢は当たらなかった。だが、十分な牽制になった。
そのまま城壁に着地し、なんとか飛び退いて再び番えた。カフカは先程の一本目の回避行動と、次に来るかもしれぬ二本目の警戒に全神経を使わなければならない。
ここで彼女の連撃は、やっと途絶えた。
両者、五馬身ほどの距離を取って互いの目をじっと見ている。
額には汗が滴り、白い息を吐く。
月と、カフカの手にある神々しい光剣の煌きだけが、二人の顔を知っていた。
「形勢逆転、って言えばいいのかな」
どこかあどけなさの残るリィナの表情。その本性を、やっとカフカの前で顕にした。




