それぞれの揺り籠(1)
翌日、正孝はいつもの東久留米駅より一つ手前、ひばりヶ丘駅で愛美と待ち合わせをした。愛美の実家も目的地の公園も、その駅からの方が近いのだ。
「おぉ! 幸谷君やる気満々だね!」
愛美は、階段から降りて来た正孝に言った。
俗に『シャカシャカ』等と言われるピステ上下。黒に白いロゴマークが胸に入ったごくシンプルなものだ。加えて、黒いエナメルバックを肩にかけている。
「うん……。一応、恰好だけでもと思って」
正孝はそう応えて俯いた。
愛美の恰好は、小さめの白シャツに空色のカーディガンを羽織り、デニムのワイドパンツ、それにスニーカーという格好。いつも見慣れている制服や学校指定の運動着姿とは違う、私服。その姿に、正孝は照れてしまった。
「足は、大丈夫なの?」
「うん、昨日より全然マシ。テーピングも、しっかりやってもらったから」
愛美はそう言って、左足を少し前に出して見せた。
二人はそうして十五分程歩き、目的の公園にやって来た。野球場にクレーのサッカーコートが一面。その横に、芝生の多目的運動場が付いている。二人が付いた時には、すでに愛美の弟、優がいて、サッカーボールを蹴っていた。
「優、こっちこっち!」
愛美が声をかけると、優は二人に気づいて、ボールを蹴りながらとことこやってきた。
優を見て正孝は一瞬、彼が女の子かと思った。
綺麗な目鼻立ち、肌は白くきめ細やかで、髪はさらさらしている。
さすが、佐藤さんの弟だと正孝は思った。
「こんにちは」
正孝は、ベンチに腰掛けながら優に言った。
優は。「こんにちは」と、消えそうな小さな声で、俯きがちに言った。
「大丈夫よ優、このお兄ちゃん優しいから」
愛美はそう言って弟を安心させようとしたが、優は緊張して俯いている。
「ちょっと待ってね」
正孝はそう言うと、エナメルバックからシューズケースを引っ張り出し、中のトレーニングシューズに早速履き替えた。
「幸谷君、靴持ってたんだ」
「サッカー部の部室にあったやつ。遠野に頼んだらくれたんだ」
正孝はそう言うと、きゅっと靴ひもを結んだ。
そうして「よし」とベンチから立ち上がると、ひょいと、優の足元にあったボールを足で取った。その速さに、優も愛美も、一瞬何が起こったのかわからなかった。
優は、取られたボールを取り返そうと足を出した。
いかにもボールは、触れそうな場所にある。
ところが、優がボールに触るかどうかという瞬間、正孝が足でボールを動かした。
ボールは紙一重で、優の伸ばした足の先を掠め、正孝の足元に収まった。
「え!?」
驚いたのは愛美だった。
とても、素人の動きではない。
というより、ちょっとやったことがある、というくらいの経験者のレベルでは無い気がした。
優はというと、ボールが自分の信じられない動きをするのを面白がって、正孝のボールを奪おうと本気で動き始めた。
正孝の持つボールは、右に左に動き、優の股の下をくぐったかと思えば、今度は優の頭の上を越えた。そうして紙一重の所で、いつも優は奪えない。
正孝はポン、ポンとボールを蹴り、ある瞬間、すっと、そのボールを背中に乗せた。
落ちてくるはずのボールが背中で止まり、優は片足を上げたままひっくり返った。
転んだ優は、けらけら笑った。
正孝も笑いながらボールを背中から落とし、今度はくるくると、ボールでけん玉かヨーヨーのように扱った。次々に繰り出される正孝のフェイントや曲芸師のようなボール扱いに、優も愛美も驚かされっぱなしだった。
「すごい! どうやるの!」
優はすっかり興奮して、正孝に技のコツを教わった。
簡単な技を一つ、二つと、正孝は優に教え、優が成功するまで、それにじっくり笑顔で付き合った。そのうち優も興が乗ってきて、難しい技を正孝にねだった。
正孝は、それならと、足をクロスさせて、かかとでボールを浮かせる、小学四年生には少し難しい技を優に見せて、教えた。優は早速、その新しい技に取り掛かった。
優が黙々と練習し始めたので、正孝は愛美の据わるベンチに一度戻って来た。戻る、と言っても十メートルと離れていない。
愛美は、戻って来た正孝に水筒のスポーツドリンクを差し出した。
正孝はそれを受け取りながら座った。
「優君、全然筋いいよ。身体柔軟だし」
正孝はそう言ってカップのドリンクを飲み干した。
「幸谷君、何者?」
「え?」
「だって、上手すぎるでしょ! サッカー部より上手いんじゃない?」
「そんなことないよ」
「いやいや……」
そんなことあるよ、と愛美は思った。
そしてまた、人見知りの優と一瞬で友達になってしまった正孝に、二重に驚かされていた。しかし、優が正孝に懐くことには、何ら不思議は無かった。何しろ正孝は、穏やかなのだ。優とよく似ている。
そうして愛美は、そうか、と思った。
幸谷君に感じている歯がゆさと、優に感じている歯がゆさは、似ているのかもしれない。
二人とも、似ている。
マイペースで、穏やかで、勝負事が苦手で……。
「コウ君! できた! 見てた!?」
優がそう言って、正孝に声をかける。
正孝はベンチに座ったまま、楽しげな眼を優に向けて応える。
「もう一回やってごらん」
優は、もう一度技に挑戦する。
――失敗。
「三回連続で上手くいったら成功だね。惜しい、もうちょっと」
「三回!?」
「でも、一回できたってことは、できるんだよ。最初は一回もできなかったんだから」
「そっか」
と、優は正孝に煽てられて、再び練習をし始める。
愛美は、正孝の教え上手に舌を巻いた。
そして弟が、こんなに楽しそうに、一生懸命ボールを蹴っている様子も、愛美は初めて見た。試合の時とは、全然違う。失敗して転がっていったボールを、小走りで追いかけて、すぐに練習を再開する。
「できた!」
そのうち、優は新しい、難しい技を本当に三回連続で成功させた。
「すごいね! やったね!」
正孝は優にそう言って、拍手を送った。
「ほら、水飲みな」
愛美は、優にもスポーツドリンクをコップに注いで飲ませた。
そのうち、公園に優のサッカー仲間がやって来た。優と同じチームの同級生もいれば、中には優と別チームで、いつも優や優のチームが弱いのをからかう子供たちもいる。
愛美は少し警戒したが、正孝は面白がって、皆で試合をしよう、ということになった。
皆の上着でゴールを設定して、四対四。
正孝は、やはり抜群に上手かった。優より上手いという、地域の選抜に選ばれるような子も、正孝から全くボールを取れない。そのうち少年たちは、正孝が強すぎるので、正孝一人チームに使用、ということになった。
一対七。
優や他の少年たちはミサイルのように正孝に殺到するも、正孝はそれを、体の使い方とボールさばきで躱した。突然現れた未知の強敵に、少年たちは大はしゃぎだった。
「上手すぎる! 取れない!」
「何それ、今何っ、あぁ!」
「スライ、スライ!」
「だめだぁ!」
少年たちの無邪気な必死さに、正孝は笑った。
学校では見ることの無い、心から楽しそうな笑顔。
「優! 一緒に取るぞ! 俺が突っ込むからお前奪え!」
強豪チームに所属する少年と優が共同戦線を張る。
そしてそれが、少年たちの必死さで、上手くいった。優が、正孝の脚からボールを奪ったのだ。
優が突いたボールが正孝の足にあたり、ポーンと、跳ねた。
正孝の頭を越えたボールを、優が追いかける。
優は、自分の身長の倍ほどに浮き上がって、落ちてきたボールに合わせて踏み込んだ。
優のバランスを取る左腕が、鳥の翼のように美しく開く。
その全身が、弓のようにしなる。
そして――。
ボン、と低い音。ボレーシュート。
そのボールは、全くの無回転で、前後左右にぶれながら、上着で設定したゴールの間、高さはちょうど、正孝の膝丈くらいの場所に吸い込まれ、背後のネットに突き刺さった。
「すげええ!」
少年たちは、優のシュートを褒め称えた。
そうそうお目にかかれない、凄まじいボレーシュートだった。
愛美も、これには驚いた。
まさか優が、そんなシュートを打てるとは思っていなかったのだ。
「やられたぁ」
と、正孝は芝生の上にぱたんと仰向けに倒れた。
少年たちの興奮は冷めやらず、今度は、優のボレーシュートを真似する練習が始まった。
空振りをしたり、とんでもない所にボールを蹴ったりするのを、互いに笑い合いながら、次々にボールを蹴る少年たち。
「お疲れ様」
芝生に寝転がる正孝のもとに、愛美が、水筒とタオル、そしてサンドイッチの入った弁当箱を持ってやってきた。正孝は上半身を起こし、愛美が差し出したタオルを受け取りながら上半身を起こした。
少し離れたところで、優たちはもう正孝と愛美そっちのけで、次々ボールを蹴って盛り上がっている。正孝はタオルで汗を拭きながら、小学生たちの無尽蔵なエネルギーを見て笑った。
「優があんなに楽しそうにサッカーしてるの、私初めて見た」
愛美が言った。
正孝は少年たちのほうを見ながら応えた。
「優君も優君なりに、楽しんでるんだよ。周りからそう見えなくても」
「そうだよね……私が大人げなかった。反省」
「まぁ、わかるけどね。でも、周りが勝手に期待して、強くなれとか、上手くなれとか、勝てっていうのは、見てる方はいいかもしれないけど、やってるほうは苦痛だよ。折角一番楽しい時なのに、楽しくなくなっちゃうから」
「……幸谷君が、そうだったの?」
正孝は愛美の目をちらりと見て、俯いた。
そうして少し首を傾げながら考えた後に、応えた。
「僕は別に、そういうわけじゃないかな」
「そうなんだ」
愛美は相槌を打った。
愛美は、本当はもう少し、そのことを正孝に訊いてみたかった。そして、まるで自分が、サッカーが上手いことや、運動が得意なことを隠すように普段振る舞っている理由も。
しかしそれは、今では無い気がした。まだ私には、そこまでの信用がない。私だってまだ、幸谷君には隠していることがたくさんある。今とは違う、中学時代の自分とか……。
「と、ところで幸谷君」
「何?」
「八木尾君から、中学時代の事、私の……何か聞いてる?」
「あぁ……」
正孝は少し考え、それから、小さく笑いながら言った。
「ちょっとだけ」
「……どんな事?」
「ヤギちゃんから告白されたこと」
「そんな事も話したの!?」
「あと……その頃の佐藤さんが、髪を染めてたって事」
「……っ!」
愛美は、顔を真っ赤にして俯いた。
正孝は、愛美の素直な反応に笑った。
「写真見せてもらえばよかった。今度――」
「ダメ、やめて! 見せないし、見ちゃダメ」
愛美はそう言うって、正孝のピステシャツの裾を握ってぐいぐい揺すった。
「わかった、わかったよ」
正孝はそう言いながら暫くのあいだ、愛美の好きに揺らされていた。




