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あなたに甘い劇薬を  作者: ノマズ
2,それぞれの揺り籠
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獣の宴と羊の意気地(5)

 夏果だろうか。あるいは、瑞希が心配して電話までしてきたのか。


 だとしても、私には別に、話すことは無い。話したいことも。


 ただ疲れたと、一言くらい言うかもしれないけど。


 ところが、携帯に表示されていた名前は、明日香でも瑞希でもなかった。


「えっ!?」


 ――幸谷君?


 愛美は驚いた。


 今、全く想像していなかった名前だった。


 愛美は恐る恐る、通話ボタンを押した。


「あ、もしもし? 幸谷君?」


『あー、うん、佐藤さん?』


「うん、私だよ。今日は……手当してくれてありがとね。おかげで今、全然痛くないよ。歩けるようになったし。テーピングぐるぐる巻きだけど」


 あははは、と愛美は笑った。


 しかし電話越しに正孝が笑った気配はない。


『もう、家?』


「え? ううん、まだ学校」


『あ、そうなんだ。後夜祭には、出るの?』


「……ううん。そろそろ帰るところ」


『そっか』


 電話の向こうの正孝はそう返事をしたあと、少しの間、何も言わなかった。


 愛美は、正孝が何か、次の言葉を用意しているような気がしたので、それを待つことにした。


 やがて、正孝の声が再び聞こえて来た。


『どこにいるの?』


「今?」


『うん』


「えっとね……三階の空き教室。ちょっと、昼寝してたんだ」


 あはははと、再び愛美は笑う。


『迎えに行くよ』


「え?」


『歩けるって言っても、やっぱり心配だから』


「大丈夫だよ! もうほんと、普通に――」


『僕も中学の時、ちょっと大きい怪我したことあるんだ。だから……まぁ、勝手に心配してるだけなんだけど。――僕は、いかない方が良い?』


 正孝にそう訊ねられて愛美は、衝動的に湧いてきた感情をぐっと抑え込んだ。


 本当に心配しないで、大丈夫だから――愛美はそう言おうとした。


 しかし、頭とは裏腹に、愛美は応えた。


「怪我……まだ痛い。足首、テーピングで全然動かないし、階段とか、転びそうになるし、靴とか、全然履き替えられないし……」


 そう言う愛美の言葉は、だんだんとかすれ声になった。


『今から行くから待ってて。食堂のところだよね?』


「うん。でも、幸谷君、今どこなの?」


『僕もまだ実は、学校にいるんだ』


「え、そうだったの? でも、いいの? マスコのメンバーと食事会とか、無いの?」


『やるみたいだけど、みんな神輿のメンバーだから、僕は行かない』


「八木尾君は?」


『あぁ、ヤギちゃん? そっか、佐藤さん、知ってたんだね』


「一緒にパネル、作ってたんでしょ?」


『うん。中学同じだったって聞いて、吃驚したよ』


「うん。私も、八木尾君が幸谷君とパネルやってるって、聞いてびっくりした」


 世間は狭いね、と正孝は言った。


 スピーカー越しに、がさがさ、ごそごそと、忙しそうな音が聞こえる。


『――ヤギちゃんは、行くって言ってたよ』


「幸谷君も行けばいいのに」


『食事会?』


「うん」


『ううん、行かない』


「楽しいかもよ?」


『かもしれないけど、まぁ……』


 と、その時、愛美は教室の外から、タンタンタンと、階段を上って来る心地よいリズムの足音に気づいた。愛美は携帯を耳にあてたまま顔を上げた。


「幸谷君、今――」


 どこ、と愛美が訊こうとした時、教室の入口に制服の男子生徒が現れた。


 切ったばかりのセミショートの華奢な男の子。


 携帯をブレザーのポケットにしまいながら、ほっとしたような表情を浮かべる。




 愛美は、携帯を耳から離した。


 そうして、不意に現れた正孝の顔を見ると、わずかに唇を開いた。


「ごめんね、寝起きに」


 正孝はそう言いながら、椅子に座る愛美のもとに歩み寄った。


 愛美は、正孝が自分のもとにやって来るのをじっと見ていた。


 そうして愛美は、開きかけた唇をぎゅっと閉じた。


「立てる?」


 正孝は、愛美に訊ねた。


 愛美は、最初首を縦に振りかけた。


 しかし、すぐにぶんぶんと、横に振って、俯いた。


 正孝は愛美の前に立って、両手を愛美の前に差し出した。


 その瞬間、愛美は正孝の両手を取ってぐいっと引っ張り、その引っ張った勢いのまま、正孝の胸に飛び込んだ。


 正孝は一瞬、勢いに仰け反りそうになったが、自分ごと愛美が倒れないように腹に力を入れて、愛美の身体を抱えるように抱き止めた。正孝はそのまま、愛美の背中に回している両の手を大きく開いて、愛美を支えた。


 愛美の体温を感じながら、正孝は驚きで声も出せず、愛美は愛美で、何も言わなかった。


 そうしてただ、二人は抱き合ったまま、じっとしていた。


「佐藤さん、やっぱり軽いね……」


 正孝は、愛美の首筋に顔をうずめたくなる衝動を抑えながら、緊張した声で言った。


「ごめん」


 愛美はいたずらっぽくそう言うも、そのまま数秒は同じようにしていて、それから、ゆっくりと、背伸びをしていた右足に自分の体重を乗せた。次に、左足。


 ふうっと、息を吐きながら、正孝は最後まで愛美の左手の掌に自分の手を、手すりのように触れさせていた。その正孝の優しさに、愛美はもう一度、正孝の身体に飛び込みたいと思った。


 しかしそれは、流石に困らせてしまうだろうと思い、愛美はやめておくことにした。それにそれは、何度もやるようなアトラクションではないのだ。


「……大丈夫?」


「うん」


 愛美は、にこりと正孝に微笑んで応えた。


 二人は教室を出て階段を降り、二年教室棟の玄関を出た。


 自転車置き場で正孝は、愛美の自転車を持ってやり、その籠に愛美と正孝自身の荷物を入れた。そうして、ゆっくりと、並んで駅に向かった。


「本当に駅までで大丈夫?」


「うん。そんな、ホント、言うほどひどくないから」


 愛美は、心配する正孝の自転車を持つ腕を、ぽんぽんと叩いた。


 そして信号待ちの時に、愛美は正孝が自転車のハンドルに置く右手の人差し指を握りながら言った。


「後夜祭の、ダンスの事なんだけど」


「あぁ……うん」


「あれ、私にとっては、全然大事な事じゃないんだ。だから……幸谷君とは踊りたくなかったの」

 愛美はそう言って、じっと正孝の目を見つめた。


 自分の言っていることの意味が、ちゃんと伝わっているかどうか、愛美には自信が無かった。それどころか、こんな言い方をされて伝わるわけが無いとさえ思っていた。


 しかし言葉にすると、そう言う言い方しかできなかった。それ以外に愛美には、自分の本心を正孝に伝える術がなかった。


 愛美は、何も言わない正孝の指を、今度は小指から人差し指まで全部握った。


「佐藤さんは、本当は僕の事、嫌いなのかと思った」


「違うよ!」


 愛美は怒ったように声を上げた。


 信号の青に、横並びに待っていた歩行者と自転車が動き出す。


 正孝は、愛美に両手でグイっと手首をつかまれて、動けなかった。


 愛美の目は、怒っていた。


 睨んでいるのではないその目の力に、正孝は圧倒された。


「ここで、証明しようか?」


 愛美はさらに、ぐいっと、自転車のハンドル越しに身を乗り出そうと近づいた。


 愛美の胸が微かに、正孝の右手に当たった。


 しかし愛美は、少しも気にしない。


「もう、大丈夫……」


 正孝は辛うじてそう答えたが、愛美は暫く、正孝の目をじっと見つめて、動かなかった。正孝も、蛇に睨まれた蛙のごとく、動けない。


 青信号の点滅が赤に変わった後、やっと愛美は、視線の鎖から正孝を解放した。


 駅に着き、バスロータリーをぐるりと回り込んで、改札へ続く階段前にやって来た。


 正孝は自転車の籠から自分の荷物を取り出した。


「じゃあ、佐藤さん、あの……本当に気を付けてね」


「うん、大丈夫」


 愛美はそう言うと、自転車にまたがった。


「じゃあ……」


 と、正孝は別れの言葉を口にしかけたが、意を決したように口を閉じ、改めて口を開いた。


「あのさ!」


「う、うん」


「明日、本当は弟と遊ぶはずだったんだよね?」


「うん」


 急にそんな話題が出てきて、愛美は目を丸くした。


「もし良かったら、僕が、弟君の相手しようか?」


「え?」


「サッカー、するはずだったんだよね?」


「うん、そうだけど……」


「だったら、僕も、サッカーはちょっとやってたことがあるから。もし良かったら、だけど……」

 正孝の申し出を、愛美は頭の中で整理するまで少しかかった。


 しかしやがて、愛美は、正孝が自分にとっても、弟にとっても素晴らしいプランを出してくれたことがわかり、目を輝かせた。


「いいの? ホントに!?」


「うん」


「明日?」


「うん。あ、違う日の方が――」


「ううん、明日がいい! 予定通り。でも、幸谷君は明日で大丈夫なの?」


「うん。僕は別に、予定があるわけじゃないから」


 正孝が答えると、愛美は、ハンドルの上の両手をきゅっと握った。


 正孝は、さっきとはまた違う、愛美の目線の圧力にたじろいだ。


「じゃ、じゃああの……行くね。佐藤さんも、帰り道、気を付けてね」


 正孝はそう言うと、踵を返して駅の階段を上り始めた。


「うん、また明日ね! 時間と場所、連絡するから!」


 愛美の声に、正孝は肩をすくませた。


 急に何だろうと、周りの人の目が一瞬愛美に向くが、愛美はそんな視線は気にせず、正孝が階段を上りきって見えなくなるまで、その背中を見つめていた。

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