獣の宴と羊の意気地(3)
校庭側入り口から保健室に入った愛美は、ケンケンをして、ベッドの手すりにつかまりながら、出ていた椅子に座った。保険の女性教諭が、早速愛美の対応をする。
「ごめんね、ありがとね」
と、椅子に座った愛美は、入口外の正孝と拓、そして望に明るく言った。
もう少し様子を見ていようか、それとももう校庭に戻ろうか、三人とも決めかねて、愛美が保険教諭に足首の腫れの具合を確認されているその様子を、見るとはなしに眺めていた。
いっそ、保健室に入ってしまおうかと正孝は思ったが、それはやはり、恥ずかしい。
そうしているうちに、七組の生徒たちが幾人か、三人のもとにやって来た。
夏果、緑、そして遅れて岳斗。
「もうみんな、大袈裟だよ」
愛美は、保健室の中から、開け放した扉の外に向かって言った。
愛美の左足首は、赤くなっていた。腫れがあるかどうかはわからないが、外のクラスメイトは、愛美の痛々しい姿に、励ます言葉を失った。
擦りむいた程度のちょっとした怪我なら、手当てしたまた競技に出られるが、この愛美のけがは、そう簡単なものではない。そのことは、素人目にも皆、一目でわかった。
「お前、相方怪我さすなよ!」
バシンと、そう言って岳斗が、景気よく拓の肩を叩く。
拓も、責任を感じていて、反応が悪い。
「走ってて気が付かなかったの?」
そう拓に言ったのは、夏果だった。
岳斗と違い、夏果の言葉には棘があった。いたって真剣な声。
「いや、そんなの、わかんねぇよ……」
走ってたんだから、と拓が尻すぼみに応える。
「あれじゃマナ、マスゲ出れないじゃん」
そう言った夏果の声は、怒っている。
拓は、何も言い返せなかった。
声を上げたのは、望だった。
「拓だってわざとじゃないんだから、そういう言い方ないんじゃない」
夏果は、望をきっと睨んだ。
しかし望も、負けていなかった。
夏果の視線を真っ向から押し返す。
拓は、突然始まった女同士の戦いに、おろおろしている。
「お前らここで騒ぐなよ。ほら、午後最後、クラス競技、行くぞ」
岳斗が言うと、夏果は拓とは目も合わさず、元来た道を戻った。遅れて拓、望、岳斗。最後に正孝が岳斗についていこうとしたが、そこで岳斗は振り向いて言った。
「お前もうちょっと佐藤さんの様子見てろよ。ちょっと時間あるから」
正孝は岳斗の言葉に背中を押され、靴を脱ぐと、保健室に入った。
愛美は椅子に座り、左足をもう一つの椅子の上に乗せている。氷嚢が、今度は灰色のバンドで巻きなおされている。
「骨はたぶん大丈夫、場所が違うから。でも、うーん、じん帯伸ばしたかなぁ。暫くは安静ね」
保険の女性教諭はそう告げると、新しくやって来た生徒(脛を打撲した男子)の対応を始めた。
正孝はパイプイスを愛美の隣に広げて、座った。
「あはは……ごめんね、迷惑かけちゃって」
愛美は、弱弱しい笑顔を浮かべて言った。
正孝は首を振り、それから愛美に訊ねた。
「痛い?」
「ううん。氷が冷たくてよくわかんない。でも、なんか大丈夫な気がする」
「今日は、無理しちゃダメだよ」
「……そうだね」
愛美は、頷いた。
これがもし幸谷君でなかったら、きっと、違うことを言っているだろうと愛美は思った。
正孝は、愛美の左足を見つめて、何も言わなかった。
「でも、一位取ったよ」
愛美がそう言うので、正孝は小さく笑った。
愛美も笑った。
それから愛美は、はぁと、大きなため息をつき、それから言った。
「明日、弟とサッカーする約束してたんだけどなぁ!」
「あぁ、弟さん、小学四年生だっけ? サッカーやってるんだよね?」
正孝は、移動教室の時に愛美が話してくれたことを覚えていた。
「そうそう!」
「一緒に遊ぶことあるんだ」
「あるけど、サッカーは、一緒にやったことない。明日が初めてのはずだったんだけど」
「そっか……」
正孝は残念そうに視線を落とした。
まるで、自分が怪我をしたかのように。その様子を見て、愛美は笑ってしまった。
「そんな、幸谷君が凹むことないのに」
「うーん……」
「というか、私もそこまでは落ち込んでないよ。大丈夫」
愛美はそう言った。
しかしそれから、ぽつりと言葉をつづけた。
「私さ、ちょっと前に弟の試合見に行ったんだ。で、弟に怒ったの。ボール取られても取り返そうとしないし、負けても笑ってるし……」
正孝はそれを聞いて、くすくすと笑った。
「笑い事じゃないよ! で、でもその後ね、そしたら、優――弟怒っちゃって。もう私に観に来てほしくないって」
「言われたの?」
「ううん。私は直接は言われてないんだけど、お母さんが、そう言ってたって」
「あぁ」
なるほど、それで仲直りに、明日のサッカーだったのかと、正孝は合点がいった。だとしたら、やっぱり、佐藤さんは残念に思っているはずだ。
そして同時に正孝は、愛美の意外な一面を見た気がした。
妹も弟もいない正孝にはいまいちよくわからなかったが、兄弟は喧嘩が当たり前と聞く。ちょっと弟が怒ったくらいで、気にする姉も珍しいのではないだろうか。八歳も年が離れていたらなおさら。
「弟さんも、明日お姉ちゃんとサッカーできるの、楽しみにしてたのかな」
「あぁー……どうだろ。でも、即答で『行く』って言ってた」
愛美は、その時の弟の様子を思い出して小さく笑った。
正孝は小さく頷いた。
愛美の反応だけで、愛美と弟との関係が、目に見える様だった。
きっと、サッカーはしなくても、もう仲直りは出来ているはずだ。
「幸谷君、あのね……後夜祭の事なんだけど。あれは――」
と、愛美が言いかけた時、保健室に新たな人物が、愛美の見舞いにやって来た。
金髪に、程よく日に焼けた肌。正孝よりも少し背が高い男子。
沢城凌也だった。
「マナちゃん、怪我したって聞いたんだけど――」
と、凌也はそう言って、愛美のもとにやって来た。
正孝はぱっとパイプ椅子を立った。
待って――と、愛美は言おうとしたが、それより早く、正孝が言った。
「じゃあ、佐藤さん、クラス競技あるから行くね」
正孝はそう言うと、保健室を出た。
靴を履きながら、
「マジで怪我してんじゃん。大丈夫?」
「うん、ありがと。でもごめんね、マスゲは無理そう」
「全然、全然、それは大丈夫だけど」
二人のそんな会話を背後に聞きつつ、正孝はグランドへと歩き出した。
昼休み明けの午後一番、マスゲームは赤、青、白組の順で踊った。
各組、病欠や怪我で、急遽休みはあったが、ダンス部の二年生、三年生は他の組のマスゲの振りを覚えているので、愛美の所も代打で、当たり前のように乗り切った。
午後は騎馬戦、選抜リレーが体育祭のトリと大トリである。
激しい戦いの末、最終的に優勝したのは、今年は青組だった。
青組の生徒には、学食のドリンク無料券が一枚ずつ配られる。
あれだけ頑張って、準備して、それっぽっちの景品か――とはならないのが武蔵黒目高校の生徒たちで、その無料券一枚を、勝った青組は閉会式でハチャメチャに喜び、負けた白組と紅組は、悔しがりながら勝った青組に拍手を送った。
そうして今年も、体育祭が幕を閉じた。
閉会式が終わると、この日はそれで解散、放課後となる。
後片付けや後夜祭の準備を割り当てられた団体の生徒は、ゆるゆると動き始める。
生徒の列がばらけ始める中、愛美は拓に呼び止められた。
「愛美、ごめんな。怪我」
拓は、沈んだ声で愛美に言った。
「全然平気、そんな大怪我じゃなかったみたい。もう歩けるし」
と、愛美は明るい声でそう言って、左足首を上下に動かして見せた。
「それに、タックンのせいじゃないよ。私がドジだっただけ。ホントに気にしないで」
「いや、ホント、悪ぃ……」
「いいって、大丈夫だから」
あぁ、と拓は返事をして、その場を離れた。
愛美はそれから、自分と拓とのやり取りを少し離れた場所から見ていた女子生徒――望に目をやった。
すると望は、愛美の視線から露骨に目を逸らした。
愛美は望のその様子を見て、頬に微かな笑みを浮かべた。
やっと望も、自分の立ち位置をはっきりさせたらしい。
これで望まで自分の所に、また「大丈夫?」だとか「痛くない?」だとか、そういった類の励ましを言いに来たら最悪だと、愛美は思っていた。
「さて、どうしようかな」
愛美は、小さく呟いた。
このまま帰るのでも良いが、それは何か味気ない。
後夜祭に出るつもりはないけれど、このまますぐに帰ったのでは、何か、この怪我に負けた様な気がする。
「コウちゃん、お疲れ! 写真撮り行こうぜ、写真! 水瀬さんも呼んだから」
「え、どこに?」
「パネル前だよ! 解体される前に、時間あるから!」
七組の集団の中に走ってやってきた辰巳が、正孝をそう言って連れて行ってしまった。
愛美は、二人に何か声をかけようと思ったが、すぐに行ってしまったのでできなかった。
はぁ、と愛美は一つため息をつく。
「待って、幸谷君!」
そう、大きな声で呼び止められない私は、今日は負け犬だ。
愛美は、ひとまず教室に戻ろうと思った。
制服に着替えて、一人でまた、景気づけに焼き肉でも食べに行こうかな――愛美はそんな事を考えた。
そんな愛美のもとに、女子生徒が一人やってきて、その小さな背中に声をかけ、肩を叩いた。
「マナ、お疲れ様」
夏果だった。
「あぁ、うん。お疲れ様」
愛美は、うっかり低い声で返事をした。
いつもなら、嘘でも高い声で、明るく答えるものだ。しかし愛美は、もう今更取り繕うのも面倒だと思った。
「怪我、どう?」
「たぶん腫れも、大したことないよ。テーピングしっかりしてるし、歩けるし」
「後夜祭は出るの?」
「ううん。一応、暫くは安静って言われたから、大人しくしてるつもり」
「この後は?」
「……もう帰るよ。やることもないし」
夏果はそれから、まだグランドの真ん中にうろうろしている集団の方を振り向いた。
愛美も、夏果の視線の方を見やる。
「そういえば夏果、タックンに告白するって言ってたけど、したの?」
愛美はそのことを思い出し、夏果に質問した。
すると夏果は、「それがさ」と笑った。
「なんか、冷めちゃったんだよね」
「冷めた?」
「うん。今日ほら、保健室の前でさ、マナも聞いてたでしょ?」
「何を?」
「望がさ、拓の事庇ったじゃん」
「あぁ……」
「なーんか、それ聞いたら、もういいやって」
「ふーん……そっか」
愛美は、グランドに残る生徒たちを眺めながら小さく呟いた。
「――やっぱり後夜祭出たら? バンドの演奏もあるし」
「考えとく」
愛美はそう応えると、一人グランドを後にした。




