獣の宴と羊の意気地(2)
「うわぁ、びしょびしょだねぇ、でも良かったよ、お疲れ!」
愛美が、帰って来た白団のクラスメイトをねぎらった。
男子はともかくとして、女子の方なんかは、白い体育着に下着が透けている。が、そうなることは皆承知なので、今更女子の方も、恥ずかしがったりしない。着替えも用意しているので、笑いながら二人、三人くらいで更衣室に向かう。
男子は、着替えない生徒も多い。
正孝はというと、一応もう一セットの運動着を持って来てはいたが、天気も良いので、このまま自然乾燥でもいいかなと思っていた。何しろこれから、昼間は二十八度を超える予報だ。
そのびしょ濡れの幸谷のもとに、愛美がタオルを持ってやってきた。
「幸谷君、お疲れ様」
愛美はそう言うと、持ってきた薄いピンク色のそのタオルで、正孝の髪を拭いた。
「大丈夫だよ、乾くだろうし」
「折角だから使ってよ」
戸惑う正孝に、愛美が言った。
正孝は、恥ずかしながらも、愛美のタオルを借りて、髪や顔を拭いた。ふんわりと微かに甘い、いかにも清潔そうな香りがする。その匂いとタオルの柔らかさに、正孝は、愛美を抱いているような錯覚を覚えた。
その錯覚がまた、正孝は悲しく、情けなかった。
自分はもう、この子に振られたのだ。相手にもされていないのだ。それなのに自分はまだ、もしかしたら、なんて思っている。佐藤さんは、普通の優しさと同情で、自分に接しているだけなのに。――あの、鼻血の手当てをしてくれた時と同じように。
正孝は、髪を拭くのを止めて、タオルを手に握った。
「洗って返すよ」
正孝はそう言うと、愛美から目を背け、校舎の方へ歩き出した。
「どこ行くの?」
「着替えてくる」
愛美は、とぼとぼ歩いて行ってしまった正孝の背中を見つめた。もう一度呼び止めて、もう少し、何でもいいから話しがしたかったが、出来なかった。愛美にも、正孝を傷つけてしまった自覚があった。
ずっとこのままなんてことはないだろうけど――というのは、私の良くない奢りだ。男の子ならなんだかんだと、また私に興味を抱いてくれるなんて、馬鹿な自信だ。
どんなに積み上げて来ても、たった一度、たった一言で、きっと取り返しがつかなくなる関係もある。私がそれを知らないだけで、きっと、あるのだ。
愛美は、頬の水を指でなぞった。
また私がびしょ濡れになったら、幸谷君は駆けつけて来て、抱きしめてくれるだろうかと、そんなことを愛美はぼんやり考えた。愛とか恋とか、そんな感情では無くても、同情でも良いから、またあの温もりがほしいと、愛美は思うのだった。
正孝が着替えてグランドに戻ってくると、プログラムは二年生の二人三脚まで進んでいた。
白いスプレーで楕円形に作られたコース。リレーと同じように、走者グループのスタート地点はその二か所。その片方に、愛美と拓も並んでいる。拓が屈んで、自分と愛美の足首に紐を結んでいる。
緊張しているのか、遠目からでも、愛美の表情が固いのが解る。
いよいよレースが始まりそうなので、正孝はコース奥の白組応援エリアには行かず、近場――救護テントの付近から競技を見守ることにした。近くに知り合いがいると、話しかけられたり、そうでなくても何か愛美にまつわる噂だったりが聞こえてきくるだろうから、ここはまさに正孝には丁度良かった。
八組が半周ずつリレーして計四週のレース。
何と愛美と拓のペアは、白組のアンカーだった。
レースが始まり、第一走者三組が、バトンを持って走る。
流れる音楽はウィリアムテル序曲。
第二走者、第三走者と、各組のバトンが渡されていく。
どのペアも、なんだか危なっかしい。「イチ、ニ、イチ、ニ」の掛け声を二人で発しながら、必死に半周を走る。
『赤団、赤団、勝利は赤団!』
『頑張れガンバレ青団、頑張れガンバレ青団、頑張れガンバレ青団、赤白ぶっ潰せ!』
『シーロ、シーロ、シーロ、ウーウォウ!』
応援が走者を後押しし、良い勝負。
その中で、白組だけが少し前を走ってトップ。
そしてその白バトンが、最終走者――拓の手に渡る。
愛美と拓の名前が白組応援エリアから連呼される。
このまま転ばずに走り切れば、白組は一位。少し遅れて赤組と青組。距離はあるが、しかしもし愛美と拓にアクシデントがあれば、十分に覆される可能性のある、それくらいの距離。
「転べ―!」
「拓死ねぇ!」
と、野次も飛ぶ。
こういう時、サッカー部には、運動部男子の風当たりが強い。
正孝も、手に汗を握っていた。
一位でなくても、怪我無く終わってくれればそれでいい――。
しかし、ある瞬間、愛美の身体が拓の隣で、ガクンと沈んだ。
「あっ……!」
正孝は思わず声を上げた。
次の二歩目、三歩目で、二人の速度が落ちる。拓と結んでいる愛美の左足だ。着地した時にくじいた。正孝はその一瞬、そのポイントを見逃さなかった。
しかし愛美は、拓の体操着をぎゅっと握ると、走り続けた。拓も、また速度を戻す。
――やめたほうが良いよ!」
と、正孝は心の中で叫んだ。
しかし二人は、走り続ける。
後ろの二組が追い突いてくる。
急かされて、拓と愛美の走る速度も上がる。
――パンパン!
レース終了を告げるピストルの音。
一位は、白組。
白組の生徒たちは、最後に走った愛美と拓のもとに集まり、一位の旗を掲げて喜んでいる。
愛美も笑顔だ。
が、正孝はその愛美が、走り終わった後なのに、その場を動かないのを見ていた。左足を、微かに浮かせている。
「なんで誰も気づかないの……」
正孝は呟いた。
しかしそんな正孝のつぶやき声などは、色々な音や声にかき消される。
走者たちが走って退場する。
愛美も、走っている。
列の中の一人として、遅れることもなく。
――ダメだ、誰も気づいてない。
正孝は一度奥歯を噛むと、背後の救護テントに走った。
「お疲れぇ! やったね一位!」
体育館際に退場した後、愛美は二人三脚の白組の仲間たちに声をかけた。そうして互いに、ハイタッチなどをして喜び合う。
「じゃ、俺たちも戻ろうぜ」
と、機嫌よく拓が言う。
白組の競技者たちは、悠々と凱旋し始める。
が、愛美はその場に立ち尽くしたまま、笑顔で拓に言った。
「私もうちょっとここで、休んでく。皆は先戻ってて」
こんな中途半端な場所で? と皆思ったが、本人がそう言うならそれでもいいかと、皆納得して、応援エリアに戻り始める。皆が自分に背を向けると、愛美はその場にしゃがみこんだ。
――そこへ、右手に氷の入った氷嚢を、左手にハンディーラップを持った正孝がやって来た。
愛美はしかし、顔を下に向けていたので、正孝がやって来たことには気づかなかった。
「佐藤さん」
正孝は、愛美に声をかけながら、その肩を叩いた。
愛美は、顔を上げた。
笑顔を作る余裕も無かったのだろう。その顔は、痛みを堪えているのか、苦しそうだ。
「あれ、幸谷君、どうしたの」
と、愛美は、やはり苦しそうな声で正孝に言った。
正孝は愛美の横に立膝をつき、
「いいよ、そのまま座っちゃって」
愛美の目を見ながら言った。
大丈夫だよ、と、愛美は言おうとしたが、大丈夫では無いのは、自分が一番わかっていた。
左足が、ズキズキと痛む。
歩けない。
愛美はそのまま人工芝に尻を置き、両足を伸ばした。
正孝は愛美の左足首に氷嚢を当てた。
「内側にくじいたんだよね?」
正孝に訊かれ、愛美はこくりっと頷いた。
その二人の様子を、たまたま振り向いた白組の生徒が見て気づき、皆で戻って来た。愛美が怪我をしている事には、誰も気づいていなかった。
「え、怪我してたの!? いつ? 大丈夫」
と、皆口々にそんな質問を愛美に投げかける。
歩ける? タンカ呼ぼうか――。
愛美は顔を上げ、笑顔で皆に応えた。
「全然大丈夫だよ。ちょっと捻っただけ。大袈裟、大袈裟」
愛美の言葉を聞き、少しほっとした雰囲気が漂う。
「マジかよ、大丈夫かよ」
と、拓も愛美を気遣う。
正孝は氷嚢を愛美に左足に押し付けて、その上からラップを巻いた。
ぎゅ、ぎゅっと、きつく巻きながら、「大丈夫、大丈夫」と、愛美が答える声を聞く。
いつやったのか、走ってるときか、最初のほうか、等、巧が愛美に訊く。「最後の方だよ。最初じゃなくて良かった」と、愛美は応える。
それで拓が、何となくほっとしたような吐息をついた時、正孝は顔を上げた。
「一緒に走ってたのに気づかなかったんだね」
正孝は、拓を見上げながら言った。
拓は、言葉に詰まった。
他の白組の生徒たちも、緩んだ顔がそれで急に引き締まる。
「とりあえず、保健室に行こう。掴まって。立てる?」
愛美は、正孝にはもう逆らわず、正孝の肩に掴まり、体重を預けた。
すると、ぐんと、エレベーターのように体が持ち上がった。
愛美は驚いた。その瞬間は、痛みのことなど忘れてしまった。
――幸谷君、こんなに力、あったんだ。
「こっち、俺が支える」
拓はそう言って、正孝の逆側の松葉杖役を買って出た。
「ごめんね、なんか」
と、愛美は顔を赤くしながら応え、二人に肩を回し、体重を預けた。




