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あなたに甘い劇薬を  作者: ノマズ
2,それぞれの揺り籠
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獣の宴と羊の意気地(1)

 ついに体育祭当日がやって来た。


 六月一週目の土曜日。快晴の空で、雨の予報も出ていない。


 グランドには来賓用テントや救護用のテントが張られ、正門は体育祭仕様に、風船などで飾り立てられている。在校生の保護者の他、一般の客やテレビ局までやってくるのが武蔵黒目高校の体育祭である。授業の一環というよりは、生徒たちも「魅せる」という意識が強く、準備体操もただのラジオ体操的なものではなく、授業で習うアップテンポのダンスを使う。


 そして移動は、常に駆け足。


 一年生はまだ入学したばかりでおろおろしているが、たらたら歩いていようものなら、教師ではなく先輩からどやされる。生徒にとっては、教師より、何をしでかすかわからない同世代の年上のほうが遥かに怖いものである。


 準備体操の後は選手宣誓。そして、応援団の応援合戦が始まる。


 次に、グランドにマスコット団の神輿とパネルが運び込まれ、神輿アピールとパネルアピールが繰り広げられる。この時には、各組マスコット団の代表者数名がが前に出る。その中に栞の姿もあり、栞は恥ずかしそうにしていたが、正孝は白組の応援エリアから、栞の晴れ姿を見守った。


 それが終わると、いよいよ競技が始まる。


 最初は、一年生のクラス競技、『ジャンボバトンリレー』。バトンが海水浴で使うシャチやドーナツやらの巨大浮き輪なので、それだけで会場は笑いに包まれる。が、これはどの競技にも言えることだが、やっている側は、大真面目である。


 武蔵黒目高校の場合、一年生は先輩たちの圧力から、二年生、三年生は純粋に勝利への欲と負けん気から、本気で優勝を目指している。「だるい」などと口にしようものなら、応援団が黙っていない。『参加することに意義がある』、というよりはこの高校の場合は、『やるからには勝つ』という意識の方が圧倒的に強い。


 スターターの銃声が空に響き、いよいよレースが始まった。


 黄色い声、野太い声、応援歌、そして太鼓の音が、競技者たちを奮い立たせる。


 走る系の種目では、それに加えて吹奏楽部が、アップテンポのルパン三世のテーマや天国と地獄などの運動会定番クラシックを演奏し、走者を急き立てる。


『行け行け白団、行け行け白団、赤青なんてぶっつぶせえぇ!』


『赤団勝つーぞ! 赤団勝つーぞ! 赤団勝つーうぞぉオーオー!』


『ガッツ出っせ青団、ぶっち切れ青団、オーオー、赤白倒せ!』


 どの組もその応援は、プロスポーツのサポーターのようになる。音頭を取るのは応援団だが、声出しは、生徒が勝手にやり始める。応援歌の中には、相手を貶したり、馬鹿にするような歌もあるので、たまに、喧嘩をする生徒も出てくる。それなので、組同士の境目にはロープが張られ、体育科の強面教師が竹刀を持って待機している。


『赤団負けて赤っ恥! 赤団負けて赤っ恥! 青団ビビッて真っ青だ! 青団ビビッて真っ青だ! 白団優勝あたりまえ! 白団優勝あたりまえ!』


 一年生のクラス競技で白組が一位を取ると、二年七組の生徒も、白組の挑発的な応援歌を誰憚ることなく大声で合唱する。そうすると、それを跳ね返すかのように、赤組、青組も、白組を挑発するような応援歌を歌い始める。


 そんな応酬が、とりあえずは昼休憩まで続く。


 高校生の体力にノリという麻酔が加わると、少し尋常ではない盛り上がり方をする。


 二種目目、三種目目と続き、四種目目はいよいよ二年生の選択競技である障害物競争が始まる。正孝の出場する競技である。網やらハードルやらボールやら、体育倉庫にある雑多なものが、グランドのコース上に雑にセットされる。


 そうして恒例のスプリンクラー。


 にょきっと人工芝の帽子をかぶった散水機が、グランドの中央――レースのコース上に顔を出す。

 これは毎年、障害物レースの恒例で、二年生、三年生は知っている。競技が始まると、何の躊躇もなく、そのスプリンクラーが威力マックスで、放水を始めるのだ。当然その水は、コース内の競技者だけでなく、生徒や一般客、来賓テントにまで届くが、この体育祭ではそんなこと、全く問題にしない。

 いよいよかと、正孝は白組の応援席を離れようとした。


 障害物レースのスタート地点に並ぶ時間である。


 その正孝の背中に、愛美が声をかけた。


「幸谷君!」


 正孝は、愛美の声に立ち止まり、反射的に振り返った。


「髪、切ったんだね」


「うん」


 正孝は小さく返事をした。


 静の助言に従って、一昨日切ったばかりである。前回よりも少し短いセンターパート。


 だけど今はレース前。そんな時に、どうしてそんなことを言うのだろうか。


 正孝は、愛美に話しかけるのは嬉しかったが、今は警戒心の方が強かった。


「似合ってるよ」


「う、うん……」


 愛美は正孝を褒めたが、正孝の気持ちは浮かない。


 どんなに褒めてもらっても、その本当の所では、自分は好かれていないのだ。髪を切ったところで自分が、愛美の眼鏡にかなうことはない。ダンスさえ許してもらえない自分なんかは――。


「じゃあ、行くね」


「うん……幸谷君、頑張ってね!」


「うん」


 正孝は渋い顔で返事を返し、指定の位置に移動した。


 コースは直線で、障害物の対岸の生徒にタスキを渡せばお役御免である。


 が、コースはそう簡単ではなさそうだった。


 正孝側のスタート地点からだと、まず最初に、走りづらいエバーマットエリアがある。その先には匍匐前進で進まなければならない網エリア。それを超えると横向きに置かれた平均台とハードルの置かれたハードルエリアがあり、最後には色々な種類のボールがブルーシートの上に転がされているボールエリアがある。


 正孝は、十四人いるうちの十番走者である。


 準備が整うと、スターターが第一走者の横に立ち、ピストルを上に構えた。


 ――位置について、用意……。


 ――パーン!


 ピストルの音が鳴る。


 その瞬間、第一走者が走り出すのと、スプリンクラーが水をばらまき始めるのは同時だった。きゃあっと、いたるところから悲鳴が上がる。


 第四走者が走る頃には、皆、今年の障害物レースが、過酷なものだと悟り始める。


 まず、水でびしょ濡れのエバーマットが滑る。


 第二に、危険なハードルエリア。そのエリアの平均台は、低いからと甘く見ていると脛をぶつけてのたうち回ることになる。


 そしてボール地帯。


 避けやすいキャンディーボールはともかくとして、恐ろしいのはテニスボールとゴルフボールだ。見落としやすく、踏むと痛い上、バランスも崩れる。しかも刻一刻と、そのボール地帯のブルーシートに、無視できない水溜まりができ始める。


「いってぇ!」


 ゴルフボールを踏んづけた生徒が、転びながら声を上げる。


 第七走者まで走った時点で各組互角。全てのエリアで痛そうな被害がすでに出そろっていた。至近距離のスプリンクラーで、競技者はもう全員びしょ濡れである。


 そうしていよいよ、正孝にタスキが回ってきた。


 白いタスキを受け取った正孝はそれを肩にかけながら、走り出した。前には赤組、後ろには青組の走者がいる。コースの区切りも無いので、ぶつかったり、悪質でない限りは互いに妨害しても良い。


 最初のエバーマット、正孝は思い切り走り込み、マットの手前で幅跳びのごとくジャンプした。スライディングのような着地をして、そのまま滑って次のエリア。


 正孝のこのファインプレーには歓声が起こった。


 赤団の生徒との差も縮まる。


 しかし匍匐前進は、正孝は苦手だった。


 もがく様に進んでタイムロス。


「幸谷君、頑張れぇ!」


 たくさんの声援の中で、愛美の声だけはなぜか、正孝の耳にはっきり聞こえた。


「いってぇええ!」


 平均台に脛をぶつけた青団の生徒がぴょんぴょん跳ねまわる。その声を後ろに聞きながら、正孝は最後のブルーシートとボールのエリアに入った。前を走る赤団の生徒とは、もう腕一本分の距離である。


 と、前を走るその生徒は、転がっていたストレッチボールに腕を回すと、突然後ろを向き、ストレッチボールごと正孝に体当たりをかました。


 まさかそんな事をされるとは思っていなかった正孝は、避けきれず、ぼうんと、ボールの反動に弾き飛ばされた。


 正孝はヘッドスライディングのような格好で、水溜まりに滑り込んだ。


ばしゃあと、浮かんでいたピンクのキャンディーボールと共に、派手な水しぶきがまき散らされる。


ところが、正孝に体当たりをしたその生徒は、後ろから青組の走者が来ているのは見ていなかった。角刈りのラグビー部男子。後ろから巻き上げて来たその角刈り走者が、ストレッチボールに突っ込む。


「嘘だろぉ!」


 角刈りの体当たりは、赤組走者ごとストレッチボールを吹っ飛ばした。


「しゃあ!」


 角刈りが吠える。


 しかし正孝も、こうなったら、このまま終わるわけにはいかないと思った。愛美の応援に促されたせいかもしれない。正孝は立ち上がると、近くに転がっていたキャンディーボールを、一か八か思い切り蹴飛ばした。


 キーンと、ボールの真芯を捉えた時の独特の音が鳴る。


 普通のキャンディーボールなら空高く飛んで行ってしまうところだが――ボールは水を纏って重くなっていた。


 正孝の蹴ったキャンディーボールは、水しぶきをあげながらものすごいスピードで真っすぐ飛んだ。その低弾道の一撃は、走り出した角刈り男子の脚と脚の間に挟まった。


「うおぅ!?」


 いきなりボールに足を取られ、角刈りは前のめりにずべしゃっと転んだ。


 正孝は再び走り出した。


 角刈りはうつぶせのまま振り返り、自分を飛び越えようとする白組走者――正孝の足首津混もうと腕を伸ばした。


 しかし、正孝の方が一瞬早かった。


 正孝の左足は角刈りの手を掠め、ばしゃんと、水しぶきを上げて着地した。


「いけぇぇぇ、幸谷君っっ……!」


 愛美の声援。


 生徒たちは一連の激しいやりあいに大盛り上がりで、審判もファール無しの判定を出した。


 正孝はそうして、一着で白タスキを十一番目の走者に渡した。


 結局障害物レースは、白組は二位だったが、激しいレース内容に、競技の後は大きな拍手が起こった。スプリンクラーが引っ込んで、びしょ濡れの競技者たちは、グランドの競技エリアを駆け足で後にした。

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