そっと貴方の戸口の下に(3)
翌日、愛美は自分で決めた通り、いつもより少し早く家を出て、一度学校に自転車を止めると、学校の荷物だけを教室のロッカーに入れて、それから歩いて浄牧院に向かった。
徒歩三分とかからない。
駅から学校に歩いてくる生徒はまだまばらである。
同じ制服の学生と何度かすれ違いながら、愛美は寺の山門をくぐった。
立派なイチョウやカヤの樹が、寺の敷地を覆っている。日陰と小さな陽だまりのコントラストが、石畳や土の地面にでき、風が吹くたびにそれが、ちらちらと動く。
愛美は、手水舎の冷たい水で手を洗い、地蔵や供養塔や庚申塔、惣門の左右に構えている立派な風神、雷神の像などを見て回り、二人が来るまでの時間を潰した。
やがて、八時過ぎ、緑と望が、山門をくぐってやってきた。
二人とも緊張で、顔が引き締まって見える。
他方、二人から見る愛美は、随分リラックスしているように見えた。
「おはよう」
愛美は二人に挨拶をし、二人も「おはよう」とぎこちなく応じた。
愛美は、緑と望の目を、それぞれに少し見つめ、それから口を開いた。
「謝りたいのは、この間の事」
愛美の声は穏やかだった。
いつもの、教室にいる愛美ではない。少なくとも二人は、こんな穏やかな表情で、人を寝かしつける様な低音で話す愛美を見たことが無かった。
「自分のこと棚に上げて、あんな言い方して、ごめん」
愛美はそう言うと、ゆっくりと頭を下げた。
愛美にそうさせている罪悪感に耐えられなくなったのは、望だった。
「う、ううん! 私こそごめん! あたしの方が我が儘だった。マナには色々やってもらってたのに、ごめんね」
高い声と早口で、望が言った。
その隣で緑は、唇を結んでいた。
自分からは絶対に謝らない、もう愛美のことは、何を言われたって許さない――と心の中に決めていた緑は、しかし今になって、面子に固執している自分が、泣きたいほど情けなく思えて来た。
「うん、私、大丈夫、気にしてないから」
緑は、装った落ち着きで、頭を上げた愛美にそう言った。
愛美はもう一度、望と緑の目を、それぞれに見つめた。その目には、敵意も、教室で愛美が見せるわざとらしい何がしかの輝きも無かった。緑はその時、初めて愛美に自分を見てもらえたような気がした。それは望も同じだった。
そして二人は、今ほど愛美に、心から『敵わない』と思ったことは無かった。
少しの間の後、愛美は言った。
「――ごめんね、こんな早くに呼び出して。でも、来てくれてありがと」
その声はまたいつもの愛美に戻っていた。
高くて、可愛らしいソプラノ。
そしてその表情も、ニッコリ笑顔。
ちょっと押しつけがましいその、目の輝き。
「私、もうちょっとここで休んでいくから、先行ってて。また、学校でね」
愛美の言葉に、二人は頷き、「また後でね」と手を振りあった。
二人が山門をくぐり、道を左に曲がって見えなくなると、愛美は、駐車場わきのベンチに腰を下ろした。指先も、足の裏の感覚も、今はしっかりしている。
小鳥のさえずりが、耳に心地良い。
これで、全部がチャラになるわけでは無いと、愛美にはわかっていた。雨降って地固まるというが、固まろうが、流れようが、どちらにしてもその土は、雨が降る前と降った後では、違う土だ。それを「元通り」なんて白々しく考えるつもりはない。謝ったって、胸の中にあるわだかまりが、全部解きほぐされて昇天していく――なんてほど高校生だって単純じゃない。
だけど、と愛美は思った。
今日は土曜日。土曜授業で、それが終わった後は、各団の練習がある。いよいよ体育祭まで一週間。ラストスパートの一週間。大詰めの最初の一日だ。そんな一日目の朝を、こういう形で始められたのは、お互いにとっては良かったのではないか。
そして愛美はまた、自分がこんなに穏やかな気持ちになれるとは、思っていなかった。目が覚めた、ともいえるかもしれないし、麻酔が効いているような感覚、とも言えなくもない。今の自分が本物のなのかどうか、愛美自身、よくわかっていなかった。
こんな時、詩が書けたらなと、愛美は思った。
幸谷君のように、言葉が浮かんで来る、そういう才能があったなら、コップから何かが溢れて、零れているようなこの気持ちも、持て余したりはしないだろうなぁ――。
愛美は少しベンチで休むと、手水舎のちょろちょろと流れる水音を横切って、山門を出た。
さっきよりもたくさんの生徒が歩いている。
愛美の目は自然と、道のどこかに、詩の得意な彼の姿を探した。同年代の男子の平均よりも少し背が高く、さらりとしたセミロングの髪の、華奢な男の子。スクールバックを左手に持って、右の肩には大きな手提げ袋を提げて登校してくる。
愛美は、少しだけ素直になれたご褒美に、そういう偶然があってもいいような気がしていた。
そうして愛美は、偶然を期待した自分の気持ちの中を覗いて、このところずっとあった自分の中の違和感、不調とも成長とも、言いようによっては何とでも言えるような失敗の原因の由来が、解った様な気がした。
――私、幸谷君に褒めてほしかったのかも。
愛美は、学校への短い道を歩き始めた。
もう、幸谷君の気持ちは取り戻せないかもしれないけど、それでも何か、この手の中に、今まで手にしたことのない貰い物が、まだ残っているような気がした。
体育祭三日前の水曜日に、正孝たちが作っていた白団のパネルは完成した。
先週は土日返上で描き上げ、そして週明けからの三日間で塗りの仕上げをした。三枚を広げて重ねると、一枚の大きな絵になる。
今まさに雲を切り裂いて現れたというような金色の竜のぎょろりとした目は、片方を斜め下に、片方を斜め上に向き、異形の形相である。その上に乗る金冠の神ゼウスは、腕を振り上げ、その手の雷の鉾を、今まさに眼下に突き下ろそうとしている。
図工室のテーブルやいすを廊下にまで出して、無理やり広げた三枚一組のパネル。それを、辰巳、正孝、そして栞の三人は立ったまま、山の景色を眺める様に見下ろしていた。
「マジで完成したね。こう見ると、迫力ヤバいね、傑作だ」
辰巳が嬉しそうにそう言った。
正孝も、思った以上の迫力とスケールに驚いていた。
今まで、布一枚ごとには見ていたが、三枚合わせて一つの絵になると、天地創造の一幕がそこに切り取ってあるような凄みがある。近くで見れば精密さには欠いているが、立ち上がって眺めるくらいの距離があれば、そんな細かい部分は気にならない。
「すごい……」
栞はそう言って黙り込むと、そのうち、涙を流し始めた。
「泣くなよ水瀬さん。ほら、お疲れ!」
辰巳はそう言うと、栞の前に掌を出し、ハイタッチを求めた。栞は、パチンと辰巳の手を叩いた。辰巳はそのまま、正孝の前にも手を出し、正孝も栞に倣って、辰巳の手に自分の手を合わせた。
見れば、辰巳の目も潤んで、眼鏡の奥で目の縁が、少し赤くなっている。
それを見た正孝は、何か、書かずにはいられなかった。手提げからメモ帳を取り出してくる時間も惜しい。
そこで正孝は、チョークを手に取ると、背後の黒板に、今まさに浮かんだ〈詩〉を書き始めた。
あらぶる空を見よ
あの黒雲を
青い海を切り裂き
赤い炎を手なずけて
白空の巨人が目を覚ます
涙と汗は金色の
竜を守る盾となり
千里を走る竜の目は
八方世界の悪を射つ
仲間を守るその愛に
主の拳は稲妻の鉾を持つ
いざ勇気を打ち下ろす
今がその時 稲光
我らは白空の勇者
我らは白空の王者
ふうっと、一気に書き終えた正孝は息をついた。
辰巳と栞は、急に何が始まったのかと思ったが、正孝がどんどん文字を書き、その勢いと、力強い言葉に、息を呑んだ。
「え、これ、何かの歌詞? 特撮か何か?」
辰巳が、感心しながら正孝に訊ねた。
正孝は、首を振った。
「今考えた」
「え、今!? コウちゃんが?」
「うん」
と、正孝は少しだけ照れながら、しかし自信をもって頷いた。
「え、マジで!? これ、すごくない?」
辰巳は、栞の顔を見た。
栞も、「すごいです!」と、絶賛している。
「え、コウちゃんって、こういうの作るの得意なの? ――ってか、そうか、文芸部だからか!」
「文芸部じゃ出してないよ。それに、これは何というか、自分でもよくわからないんだ」
正孝が言うと、栞が正孝に訊ねた。
「これ、詩ですよね?」
「まぁ、そうなんだろうねぇ」
正孝は、今しがた自分の書いた白チョークの文字を眺めながら言った。
「この歌詞、援団に提供したら? マジで、恰好良くない?」
辰巳の意見に、栞も頷く。
しかし正孝は、応援団に歌ってもらうまでもなく、もうこれで満足だった。今まで、誰にも自分からは見せようと思わなかった詩。発作のような、気持ちが悪いと言われるこの性質。それを曝け出すなんて、絶対嫌だった。
それなのに、この二人には、大丈夫だと思った。
そして正孝がさらに自分で不思議に思ったのは、二人に「知ってほしい」と思った事だった。
自分にも、そんな気持ちがあったなんて、正孝は知らなかった。
その日の帰り、正孝は駅まで、辰巳と一緒に歩いた。
辰巳は市内に住んでいるので、自転車を引いている。夕方、日が落ちて夕日の残光もすっかり消えた頃である。並んで歩きながら、正孝はもう一つ、辰巳に思い切って打ち明けてみようと思うことがあった。
「ヤギちゃん、実はね……」
「うん?」
「僕も、佐藤さん、誘ってみたんだよ」
「え、もしかして、後夜祭に!?」
「うん」
と、正孝は笑って応えた。
「どうだった?」
「ダメだった」
正孝は、前に辰巳が自分に応えた時と同じように、かぶせ気味に即答した。
辰巳は、正孝に似合わない早い反応に、一瞬目を満丸くしていたが、すぐに、にへらっと、頬を緩めた。正孝はそれから、どんな風に断られたかを、辰巳に話した。
辰巳は一通り内容を聞いた後で、「マジかー」と相槌を打った。
それから、「それは凹むよな」と、正孝に共感を示した。
「いや、でも、コウちゃん頑張ったと思うよ。あの佐藤さん相手にさ」
「そうかな?」
「うん。まぁ、元気出しなよ。うちの高校可愛い子多いじゃん? あ、でも、桃園さんはダメだよ。俺が狙ってるんだから」
辰巳はそんなことを言って笑った。
そうして駅で別れた後、辰巳は一人自転車に乗り、家に帰る十分ほどの間、考えていた。何か一言、佐藤愛美に言ってやりたいと、そんなことを思っていた。




