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あなたに甘い劇薬を  作者: ノマズ
2,それぞれの揺り籠
43/52

そっと貴方の戸口の下に(2)

四時間目が終わると、愛美は、昼食前のごちゃついた喧騒に紛れて、正孝の席を訪れた。


「幸谷君、ちょっといい?」


 正孝は、手提げから弁当を取り出そうとした手を止めて、一つ頷くと、愛美に連れられて廊下を出た。自動販売機まで歩きながら、愛美は、天気のことや好きな飲物についてなど、差しさわりの無い話題を正孝に向けた。それに対して正孝の方も、愛美の質問には差しさわりの無い答えを用意した。


 今日は随分、会話のテンポが速いなと、愛美は思った。いつもの幸谷君は、一言一言考えながら話すのに、今日は随分、ある意味、淡白だ。表面をなぞっているような会話。



 自動販売機の前までやってくると、愛美は、早速話を切り出すことにした。


「あのさ、幸谷君、昨日の返事なんだけど」


「あぁ……うん」


 正孝は、少し愛美から下に視線を外した。


「後夜祭のダンスの話ね」


「うん」


「私で良かったら、一緒に踊らない?」


 愛美はそう言って、にこりと正孝を見た。


 ところが正孝の反応は、愛美が予期していたものとは全く違った。


 正孝は、哀れみを含んだような目で愛美を見つめ、それから、儚げな微笑を浮かべ、首を振った。


「いいんだ、大丈夫だから」


「え?」


 と、愛美の笑顔が不自然に固まった。


「大丈夫、落ち込んでないから、全然」


 そう言って正孝は、愛美に微かに微笑んで見せた。


「えっと、それって、踊るのが、大丈夫って事?」


 愛美は、はがれ始めた笑顔を何とかまだ繕いながら。正孝に訊き返した。


「うん。僕とは、踊らなくていいから」


「え……」


 愛美は、そう言われて今度こそ固まった。


「誘ったりしてごめんね」


 正孝はそう言うと、その場を離れた。


 後に残された愛美は、事態を飲み込むまで、少し時間がかかった。


 ――今私、もしかして、振られた?


 愛美は、めまいを覚えて、近くの木製ベンチに座った。


 そうして、「まただ」と思った。


 自分は今もまた、幸谷君に断られるなんて可能性を考えていなかった。


 幸谷君なら絶対に、受け入れてくれると思ったのだ。


 それは、幸谷君への信頼ではなく、私の奢りだ。中学一年生の頃、真面目だけだった頃の私は違っていた。告白なんて、まだ誰からもされたことが無い頃は。そして今、自分がモテるなんて、そんなことが何の役に立つのだろうか。


 愛美は、頭を鈍器でぶん殴られたような気分だった。


そうして暫くの間、愛美は足の裏や指先の感覚を失っていた。自分がここにいる、という実感がなく、幽霊になったような気分だった。


 そんな愛美を発見したのは、深谷光輝だった。


「おう、マナ。何してんだよ」


 愛美は顔を上げ、はっとして我に返った。


「ううん、何でもない。ちょっと考え事」


「あ、そう。まぁいいや」


 光輝はそう言うと、自販機で缶コーヒーを買った。


 ガタンと、コーヒーが受け取り口に落ちてくると、光輝は愛美の方を振り向いて聞いた。


「愛美も何か飲む? 飲むなら奢るよ」


「ううん、大丈夫。ありがと」


 愛美はそう言うと、立ち上がった。


 光輝も缶コーヒーを取って立ち上がると、ぷしゅっと缶のピンを突き立てて飲み口を開けた。それから光輝は、コーヒーを一口飲み、愛美に話しかけた。


「そういや愛美、後夜祭出る?」


「うん、出るよ」


「俺今ダンスの相手探してるんだけど、いないんだよね」


「あぁ、そうなんだ」


「愛美さ、一緒に踊ってくんね?」


 愛美は、ふふっと力の抜けた微笑を浮かべ、頷いた。


「いいよ」


 愛美はそう返事をすると、その足で食堂に向かった。


 廊下を歩きながら、話しかけられた相手が光輝で良かったと、ほっとした。これがもし瑞希や明日香だったら、自分はたぶん、泣き顔を見せていたに違いない。


とりあえず今日も、家に帰るまでは頑張ろうと、愛美は決意した。




 マスゲームの練習を終え、家に帰った愛美は、食事と風呂を早々に済ませて、いつもより早い時間からリビングのソファーに寝転び、ぐでっとクッション枕に頭を預けていた。


 優が食事を終えると、颯美は風呂に入り、リビングには優と愛美だけになった。


 優は愛美の寝転がるソファーの座枠を背もたれにして、ぼんやりテレビを見始めた。


 オーパーツを巡るミステリークイズの番組がかかっている。


 恐竜のレリーフがお気に召したらしい。


 愛美は、水色のパジャマを着た弟のうなじを、指で突いた。そういう姉の悪戯にはもう慣れっこの優は、特に反応しない。


「優ちゃん、今度、一緒にサッカーしに行く?」


 愛美は、弟のうなじをいじりながら訊ねた。


 優はすぐに、横になっている姉の方に振り向き、答えた。


「行く」


 愛美は、弟の可愛らしさに笑いながら言った。


「じゃあ、今度、休みの日に行こっか」


「うん」


 と、優は力強く頷いた。


「来週の日曜日にしよっか。お姉ちゃんの体育祭の次の日。試合入ってたっけ?」


「わかんない。……でも行く」


 と、優の決意は力強い。


 可愛い弟だなと、愛美は優の頬を撫でた。八歳も年が離れていると、愛美は姉というより、母親に近いような立場だった。気持ちも自然、姉よりは、母寄りの保護者である。実際優は、母の言う事よりも、愛美の言う事をよく聞いた。


 颯美が風呂から上がってくると、愛美は早速、母に訊ねた。


「来週日曜ってさ、優、試合?」


「来週?」


 と、颯美が聞き返すと、優も母の顔を見上げた。


 その真剣な眼差しに颯美は何事かと気圧されながら、答えた。


「普通に練習よ、午前中」


 優はそれを聞くと、にまっと笑って、また愛美の顔を見た。


 愛美はそんな笑顔の弟の頬を両手でぷにっと挟んで、そのまま首筋をくすぐった。


 優はきゃはきゃはと全身でくすぐったがり、愛美の腹に頭を押し付けた。


「ちょっと優、くすぐったいでしょ」


 と、愛美は仕返しに、首だけでなく、優の無防備な脇にまで、指を伸ばした。堪らずに優は身をよじり、カーペットの上に寝転がった。


「何、二人でどこか行くの?」


 颯美は、不思議そうに訊ねた。


「優とサッカーしに行こうと思って。ね」


 愛美はそう言って弟に同意を求めたが、優が頷くより先に、寝転んでいる優のそのお腹のあたりをわしゃわしゃとくすぐった。優はきゃっきゃとくすぐったがった。


「あぁ、そう。公園?」


「うん」


「じゃ、サンドイッチでも作ってあげようか?」


「優、どうする?」


「作る!」


 くすぐられていた優が、元気に応えた。


 愛美は笑いながら、ソファーを立った。テーブルの上に置いていた携帯端末の画面が光ったのだ。愛美は携帯をテーブルから拾い上げると、リビングを出た。画面を確認しながら階段を上る。


「明日香だ……」


 愛美はとりあえず、その電話に出ることにした。




「もしもし、明日香?」


『あ、愛美?』


「うん。どうしたの?」


 愛美は自室に入り、ベッドの縁に腰を下ろした。


『今大丈夫?』


「うん、いいよ」


 愛美が答えると、明日香は用向きを愛美に話し始めた。


 内容は、緑のことだった。


 なんと今度は、緑と望が、ぎくしゃくしている、ということだった。望が、愛美と仲直りをしたほうが良いのではないかと言っているが、緑の方は、絶対に嫌だとそれを突っぱねているらしい。望も、自分のことで怒ってくれた手前、緑を差し置いて自分だけ愛美と仲直りはできない。


 明日香も、緑と愛美には仲直りしてほしいと考えている。今は緑とばかり一緒にいるが、その時に愛美の悪口をばかり言われるのが嫌だし、自分自身も、愛美とまた学校でも一緒に話したい。かといって、緑も友達だから、緑の気持ちを汲まずに愛美と気安く話すのも、できない。


『マナ、何とか、ならないかな……?』


 ハスキーボイスの明日香の声が、お願いしてくる。


「でも緑は、私と仲直りなんてしたくないって言ってるんだよね?」


『仲直りしたくないというか、『絶交だ』って』


 愛美は、『絶交だ』なんて、緑も案外子供っぽいことを言うのだなと思い、小さく笑った。私なら、本当にそんな事を思った相手については、わざわざ『絶交』なんて宣言しない。「仲直りできたらいいんだけど」とか何とか外交上言うだけは言って、心の中では絶対に許さないと決める。その点緑は、可愛げがある。


 私なんかより、よっぽど。


「まぁ、そりゃあ、そうかもね」


 愛美が言うと、明日香の元気のない声が返ってきた。


『ホントの所、何を言い合ったのか私はわからないけどさ、緑と望からしか、その時の話聞いてないから』


「うんとね……絶交が妥当だと思う。そういうこと言ったわよ」


『マジで……?』


 うん、と愛美は小さく返事をして、頷いた。


『愛美は、それで良かったの?』


 明日香のこの質問に、愛美は少し胸が痛んだ。明日香が何を期待しているのかが解る。「本当はそんなつもりは無かった。でも売り言葉に買い言葉で、つい強いことを言いすぎてしまった」、と、そういう答えが欲しいのだ。私が、本当の所では二人のことを、悪く思っていないと、私の口から聞きたいのだ。たぶん明日香は、私のことを嫌いになりたくないのだ。


 しかし愛美は、ここで中途半端な嘘を言うのは嫌だった。


 あの時、二人の言葉を聞いている時も、そして、二人に言葉をぶつけた時も、私はいたって冷静だった。いろいろな選択肢から、ちゃんと選んでそう言った。二人の心を突き刺すような指摘をしたのだ。うっかりではない。そう思っていたのも本当で、二人との関係が崩れてもいいと思っていたのも、本当だ。


「明日香には悪いんだけど、私は、かなり冷静だったよ。こうなることも何となく解ってたし」


 愛美が言うと、明日香の長い沈黙があった。


 その沈黙も、愛美には痛かった。愛美にとって明日香は、緑や望とは違う。一緒にいて楽しい女の子。元気を貰える。だから、自分が明日香の元気の火に水をかけるようなことはしたくはない。だけどここで、やっぱり明日香を誤魔化したくはない。単純な明日香は、誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せるだろうけど。


『そっか……』


 長い沈黙の後で、それだけ、明日香の返事があった。それからまた少し間を開けて、明日香が言った。


『じゃあ、やっぱり無理そうかな……?』


 愛美は、諦めのようなため息を吐き、それから応えた。


「でも、いいよ」


『え?』


「私、謝ってみるよ。受け入れるかどうかはわからないけど、私が謝れば、まぁ、今より少しは、マシになるでしょ」


『え、でもさ、それはそれで何か……いや、私がこんなこと話しておいてアレなんだけど……いや、愛美、やっぱりいい。ちょっと、私が混乱してただけかも。愛美に謝らせるのって、違う気がする』


 愛美は「何それ」と、明日香に笑って応じ、しかしそれだけでは終わらずに言った。


「いいよ、謝るくらい。私も好き放題言ったんだし、その時はまぁスっとしたし、そう思えば別に、謝ったって悔しくないわ。明日の朝済ませちゃうから」


 愛美は『済ませちゃうから』と、最後は少し軽い言い方をして、明日香の気持ちも少し楽にしようとした。しかし、電話越しに明日香が笑ってくれた気配はない。いつものように元気に、「あ、ホント? じゃあよろしくね!」とか、言ってくれればいいのにと愛美は思った。


『マナ、私これ、かなりヒドいお願いしてるよね……?』


「そんなことないよ。明日香の立場だったら、そう言うでしょ。大丈夫よ別に。私、謝ったくらいでどうこうなるわけじゃないし」


 愛美はそう言うと、これからお風呂だからと、明日香との電話を切ることにした。


 愛美は、自分でも意外に思っていた。自分から緑や望に謝るなんて、そんなことを思う日が来るなんて。しかし明日香にそう約束しても、不思議と腹は立たない。なんで私の方から、あの二人に――なんて気持ちは、不思議と起こってこないのだ。


 それどころか、これは自分が、当然つけるべき落とし前だという風にも、今は思う。


 愛美は自分の気が変わらないうちに、緑と望にチャットメッセージを入れることにした。


『明日の朝、謝りたいことがあるから、もし聞いてくれるなら、八時過ぎに浄牧院で待ってます』


 浄牧院というのは、駅から高校までの間にある寺のことである。この地域では名の知れた寺社で、立派な門も二つ構えている。一月の初めには、愛美は参加したことは無かったが、七福神巡りの大黒天担当の寺として、甘酒などが振る舞われるらしい。


 メッセージには、すぐに既読が付いた。


 それから少し間を置いて、緑からは『わかった、行く』と短いメッセージが入り、少し遅れて望から『私も謝りたいことあるから、行きます』と返事が返ってきた。愛美はそれに既読を付けて、ベッド脇の充電スタンドに携帯を乗せた。

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