そっと貴方の戸口の下に(2)
四時間目が終わると、愛美は、昼食前のごちゃついた喧騒に紛れて、正孝の席を訪れた。
「幸谷君、ちょっといい?」
正孝は、手提げから弁当を取り出そうとした手を止めて、一つ頷くと、愛美に連れられて廊下を出た。自動販売機まで歩きながら、愛美は、天気のことや好きな飲物についてなど、差しさわりの無い話題を正孝に向けた。それに対して正孝の方も、愛美の質問には差しさわりの無い答えを用意した。
今日は随分、会話のテンポが速いなと、愛美は思った。いつもの幸谷君は、一言一言考えながら話すのに、今日は随分、ある意味、淡白だ。表面をなぞっているような会話。
自動販売機の前までやってくると、愛美は、早速話を切り出すことにした。
「あのさ、幸谷君、昨日の返事なんだけど」
「あぁ……うん」
正孝は、少し愛美から下に視線を外した。
「後夜祭のダンスの話ね」
「うん」
「私で良かったら、一緒に踊らない?」
愛美はそう言って、にこりと正孝を見た。
ところが正孝の反応は、愛美が予期していたものとは全く違った。
正孝は、哀れみを含んだような目で愛美を見つめ、それから、儚げな微笑を浮かべ、首を振った。
「いいんだ、大丈夫だから」
「え?」
と、愛美の笑顔が不自然に固まった。
「大丈夫、落ち込んでないから、全然」
そう言って正孝は、愛美に微かに微笑んで見せた。
「えっと、それって、踊るのが、大丈夫って事?」
愛美は、はがれ始めた笑顔を何とかまだ繕いながら。正孝に訊き返した。
「うん。僕とは、踊らなくていいから」
「え……」
愛美は、そう言われて今度こそ固まった。
「誘ったりしてごめんね」
正孝はそう言うと、その場を離れた。
後に残された愛美は、事態を飲み込むまで、少し時間がかかった。
――今私、もしかして、振られた?
愛美は、めまいを覚えて、近くの木製ベンチに座った。
そうして、「まただ」と思った。
自分は今もまた、幸谷君に断られるなんて可能性を考えていなかった。
幸谷君なら絶対に、受け入れてくれると思ったのだ。
それは、幸谷君への信頼ではなく、私の奢りだ。中学一年生の頃、真面目だけだった頃の私は違っていた。告白なんて、まだ誰からもされたことが無い頃は。そして今、自分がモテるなんて、そんなことが何の役に立つのだろうか。
愛美は、頭を鈍器でぶん殴られたような気分だった。
そうして暫くの間、愛美は足の裏や指先の感覚を失っていた。自分がここにいる、という実感がなく、幽霊になったような気分だった。
そんな愛美を発見したのは、深谷光輝だった。
「おう、マナ。何してんだよ」
愛美は顔を上げ、はっとして我に返った。
「ううん、何でもない。ちょっと考え事」
「あ、そう。まぁいいや」
光輝はそう言うと、自販機で缶コーヒーを買った。
ガタンと、コーヒーが受け取り口に落ちてくると、光輝は愛美の方を振り向いて聞いた。
「愛美も何か飲む? 飲むなら奢るよ」
「ううん、大丈夫。ありがと」
愛美はそう言うと、立ち上がった。
光輝も缶コーヒーを取って立ち上がると、ぷしゅっと缶のピンを突き立てて飲み口を開けた。それから光輝は、コーヒーを一口飲み、愛美に話しかけた。
「そういや愛美、後夜祭出る?」
「うん、出るよ」
「俺今ダンスの相手探してるんだけど、いないんだよね」
「あぁ、そうなんだ」
「愛美さ、一緒に踊ってくんね?」
愛美は、ふふっと力の抜けた微笑を浮かべ、頷いた。
「いいよ」
愛美はそう返事をすると、その足で食堂に向かった。
廊下を歩きながら、話しかけられた相手が光輝で良かったと、ほっとした。これがもし瑞希や明日香だったら、自分はたぶん、泣き顔を見せていたに違いない。
とりあえず今日も、家に帰るまでは頑張ろうと、愛美は決意した。
マスゲームの練習を終え、家に帰った愛美は、食事と風呂を早々に済ませて、いつもより早い時間からリビングのソファーに寝転び、ぐでっとクッション枕に頭を預けていた。
優が食事を終えると、颯美は風呂に入り、リビングには優と愛美だけになった。
優は愛美の寝転がるソファーの座枠を背もたれにして、ぼんやりテレビを見始めた。
オーパーツを巡るミステリークイズの番組がかかっている。
恐竜のレリーフがお気に召したらしい。
愛美は、水色のパジャマを着た弟のうなじを、指で突いた。そういう姉の悪戯にはもう慣れっこの優は、特に反応しない。
「優ちゃん、今度、一緒にサッカーしに行く?」
愛美は、弟のうなじをいじりながら訊ねた。
優はすぐに、横になっている姉の方に振り向き、答えた。
「行く」
愛美は、弟の可愛らしさに笑いながら言った。
「じゃあ、今度、休みの日に行こっか」
「うん」
と、優は力強く頷いた。
「来週の日曜日にしよっか。お姉ちゃんの体育祭の次の日。試合入ってたっけ?」
「わかんない。……でも行く」
と、優の決意は力強い。
可愛い弟だなと、愛美は優の頬を撫でた。八歳も年が離れていると、愛美は姉というより、母親に近いような立場だった。気持ちも自然、姉よりは、母寄りの保護者である。実際優は、母の言う事よりも、愛美の言う事をよく聞いた。
颯美が風呂から上がってくると、愛美は早速、母に訊ねた。
「来週日曜ってさ、優、試合?」
「来週?」
と、颯美が聞き返すと、優も母の顔を見上げた。
その真剣な眼差しに颯美は何事かと気圧されながら、答えた。
「普通に練習よ、午前中」
優はそれを聞くと、にまっと笑って、また愛美の顔を見た。
愛美はそんな笑顔の弟の頬を両手でぷにっと挟んで、そのまま首筋をくすぐった。
優はきゃはきゃはと全身でくすぐったがり、愛美の腹に頭を押し付けた。
「ちょっと優、くすぐったいでしょ」
と、愛美は仕返しに、首だけでなく、優の無防備な脇にまで、指を伸ばした。堪らずに優は身をよじり、カーペットの上に寝転がった。
「何、二人でどこか行くの?」
颯美は、不思議そうに訊ねた。
「優とサッカーしに行こうと思って。ね」
愛美はそう言って弟に同意を求めたが、優が頷くより先に、寝転んでいる優のそのお腹のあたりをわしゃわしゃとくすぐった。優はきゃっきゃとくすぐったがった。
「あぁ、そう。公園?」
「うん」
「じゃ、サンドイッチでも作ってあげようか?」
「優、どうする?」
「作る!」
くすぐられていた優が、元気に応えた。
愛美は笑いながら、ソファーを立った。テーブルの上に置いていた携帯端末の画面が光ったのだ。愛美は携帯をテーブルから拾い上げると、リビングを出た。画面を確認しながら階段を上る。
「明日香だ……」
愛美はとりあえず、その電話に出ることにした。
「もしもし、明日香?」
『あ、愛美?』
「うん。どうしたの?」
愛美は自室に入り、ベッドの縁に腰を下ろした。
『今大丈夫?』
「うん、いいよ」
愛美が答えると、明日香は用向きを愛美に話し始めた。
内容は、緑のことだった。
なんと今度は、緑と望が、ぎくしゃくしている、ということだった。望が、愛美と仲直りをしたほうが良いのではないかと言っているが、緑の方は、絶対に嫌だとそれを突っぱねているらしい。望も、自分のことで怒ってくれた手前、緑を差し置いて自分だけ愛美と仲直りはできない。
明日香も、緑と愛美には仲直りしてほしいと考えている。今は緑とばかり一緒にいるが、その時に愛美の悪口をばかり言われるのが嫌だし、自分自身も、愛美とまた学校でも一緒に話したい。かといって、緑も友達だから、緑の気持ちを汲まずに愛美と気安く話すのも、できない。
『マナ、何とか、ならないかな……?』
ハスキーボイスの明日香の声が、お願いしてくる。
「でも緑は、私と仲直りなんてしたくないって言ってるんだよね?」
『仲直りしたくないというか、『絶交だ』って』
愛美は、『絶交だ』なんて、緑も案外子供っぽいことを言うのだなと思い、小さく笑った。私なら、本当にそんな事を思った相手については、わざわざ『絶交』なんて宣言しない。「仲直りできたらいいんだけど」とか何とか外交上言うだけは言って、心の中では絶対に許さないと決める。その点緑は、可愛げがある。
私なんかより、よっぽど。
「まぁ、そりゃあ、そうかもね」
愛美が言うと、明日香の元気のない声が返ってきた。
『ホントの所、何を言い合ったのか私はわからないけどさ、緑と望からしか、その時の話聞いてないから』
「うんとね……絶交が妥当だと思う。そういうこと言ったわよ」
『マジで……?』
うん、と愛美は小さく返事をして、頷いた。
『愛美は、それで良かったの?』
明日香のこの質問に、愛美は少し胸が痛んだ。明日香が何を期待しているのかが解る。「本当はそんなつもりは無かった。でも売り言葉に買い言葉で、つい強いことを言いすぎてしまった」、と、そういう答えが欲しいのだ。私が、本当の所では二人のことを、悪く思っていないと、私の口から聞きたいのだ。たぶん明日香は、私のことを嫌いになりたくないのだ。
しかし愛美は、ここで中途半端な嘘を言うのは嫌だった。
あの時、二人の言葉を聞いている時も、そして、二人に言葉をぶつけた時も、私はいたって冷静だった。いろいろな選択肢から、ちゃんと選んでそう言った。二人の心を突き刺すような指摘をしたのだ。うっかりではない。そう思っていたのも本当で、二人との関係が崩れてもいいと思っていたのも、本当だ。
「明日香には悪いんだけど、私は、かなり冷静だったよ。こうなることも何となく解ってたし」
愛美が言うと、明日香の長い沈黙があった。
その沈黙も、愛美には痛かった。愛美にとって明日香は、緑や望とは違う。一緒にいて楽しい女の子。元気を貰える。だから、自分が明日香の元気の火に水をかけるようなことはしたくはない。だけどここで、やっぱり明日香を誤魔化したくはない。単純な明日香は、誤魔化そうと思えばいくらでも誤魔化せるだろうけど。
『そっか……』
長い沈黙の後で、それだけ、明日香の返事があった。それからまた少し間を開けて、明日香が言った。
『じゃあ、やっぱり無理そうかな……?』
愛美は、諦めのようなため息を吐き、それから応えた。
「でも、いいよ」
『え?』
「私、謝ってみるよ。受け入れるかどうかはわからないけど、私が謝れば、まぁ、今より少しは、マシになるでしょ」
『え、でもさ、それはそれで何か……いや、私がこんなこと話しておいてアレなんだけど……いや、愛美、やっぱりいい。ちょっと、私が混乱してただけかも。愛美に謝らせるのって、違う気がする』
愛美は「何それ」と、明日香に笑って応じ、しかしそれだけでは終わらずに言った。
「いいよ、謝るくらい。私も好き放題言ったんだし、その時はまぁスっとしたし、そう思えば別に、謝ったって悔しくないわ。明日の朝済ませちゃうから」
愛美は『済ませちゃうから』と、最後は少し軽い言い方をして、明日香の気持ちも少し楽にしようとした。しかし、電話越しに明日香が笑ってくれた気配はない。いつものように元気に、「あ、ホント? じゃあよろしくね!」とか、言ってくれればいいのにと愛美は思った。
『マナ、私これ、かなりヒドいお願いしてるよね……?』
「そんなことないよ。明日香の立場だったら、そう言うでしょ。大丈夫よ別に。私、謝ったくらいでどうこうなるわけじゃないし」
愛美はそう言うと、これからお風呂だからと、明日香との電話を切ることにした。
愛美は、自分でも意外に思っていた。自分から緑や望に謝るなんて、そんなことを思う日が来るなんて。しかし明日香にそう約束しても、不思議と腹は立たない。なんで私の方から、あの二人に――なんて気持ちは、不思議と起こってこないのだ。
それどころか、これは自分が、当然つけるべき落とし前だという風にも、今は思う。
愛美は自分の気が変わらないうちに、緑と望にチャットメッセージを入れることにした。
『明日の朝、謝りたいことがあるから、もし聞いてくれるなら、八時過ぎに浄牧院で待ってます』
浄牧院というのは、駅から高校までの間にある寺のことである。この地域では名の知れた寺社で、立派な門も二つ構えている。一月の初めには、愛美は参加したことは無かったが、七福神巡りの大黒天担当の寺として、甘酒などが振る舞われるらしい。
メッセージには、すぐに既読が付いた。
それから少し間を置いて、緑からは『わかった、行く』と短いメッセージが入り、少し遅れて望から『私も謝りたいことあるから、行きます』と返事が返ってきた。愛美はそれに既読を付けて、ベッド脇の充電スタンドに携帯を乗せた。




