狼のマスク(6)
体育倉庫から出て来た正孝は、まだ校庭の人工芝の上に愛美がいるのに気が付いた。蓮子と話していたようだったが、蓮子の方はもう、グランドを離れたようだ。
ちょうど四時間目終了を告げるチャイムが鳴り、グランドに残っていた生徒も、腰を上げて帰り始める。岳斗も、どこへ行ったのか、いつの間にかグランドにはいない。
立ち上がりかけた愛美と目が合い、正孝の唇がぴくりと震えた。
愛美を後夜祭のダンスに誘うなら、今がその時ではないだろうかと思ったのだ。
正孝に先に声をかけたのは愛美の方だった。
「幸谷君、怪我無かった? すごい転び方したけど」
「うん、大丈夫」
正孝は、少し照れながら笑った。
しかし、いつまでも恥ずかしがっているわけにもいかない。
正孝は、思い切って言ってみることにした。
「佐藤さん、あの……」
「うん」
「体育祭」
「あー、ね! もう始まっちゃうね。来週土曜日。パネルは――」
順調、と愛美は訊こうとしたが、正孝は愛美の質問を遮って言った。
「後夜祭あるでしょ」
愛美は言葉を止め、驚いた表情で正孝を見つめた。
愛美は、正孝の方から後夜祭に誘われるとは、万に一つも思っていなかった。そもそもその土俵で、正孝と仲良くなろうとは思っていなかったのである。
「もし良かったら、その、フォークダンスなんだけど、一緒に踊らない?」
愛美は、息を呑んだ。
それから愛美は、唇を小さく開いたまま、固まった。
これまで、誘いを断ってきたことなどは、愛美にはいくらでもあった。しかし、今ほど頭が真っ白になったことはなかった。
後夜祭のフォークダンスの相手は、何も一人に決めることは無い。むしろ何人かと踊るのが当然で、そのためにダンスの時間も三十分たっぷりある。
しかし愛美はこの瞬間、そういった時間的な事や合理性が、全く頭からすっ飛んでしまった。
自分はもう、沢城君の誘いを受けてしまった。
だから、幸谷君の誘いは、断らないといけない。
「ごめん……」
愛美の唇から、震えた声の返事があった。
その瞳には、絶望的な悲しさが揺れている。表情も凍って、大抵いつも頬に浮かんでいる微笑みも消えている。
「あ、いや、いいんだ。もう一緒に踊る人、決まってるんだよね?」
正孝は、辰巳の前向きさを思い出しながら言った。
先約がいたならしょうがない。
しかし愛美は、頷くことも、首を横に振ることもできなかった。
愛美の胸に、正孝を裏切ってしまったという気持ちがせり上がってきて、愛美はそれ以外考えられなくなっていた。
愛美のリアクションが無いのを受けて、今度固まったのは、正孝の心だった。
先約がいて断られるのと、先約がいないのに断られるのでは、ダメージが違う。
正孝は、愛美の反応がないのを、後者の拒絶だと思った。
「なんでもない、ごめん……」
正孝はそう言うと、殺人現場を目撃したかの如く、一歩、二歩と後ずさり、そして、三歩目で踵を返し、その場から逃げ出した。
「幸谷君、違う! 違うの!」
愛美の声が追いかけて来たが、正孝は愛美に背を向けたまま、構わず校舎へと走った。
その日正孝は、活動が始まって以来初めてパネル制作に欠席した。
愛美はその日、何とかいつものように喫茶店のバイトを終えて帰宅した。昼休み以降、今日はできるだけ何も考えないように、目の前のことに集中していた。
帰宅後、脱衣所に直行し、服を脱いで、風呂場では体を洗う。
しかし湯船につかると、今日考えないようにしてきたことが、ぽん、ぽんと浮かんでくる。
全て、後悔だった。
どうして幸谷君の誘いを断ってしまったのか。
そもそもどうして、幸谷君を後夜祭に自分から誘わなかったのか。
理由はあった。
後夜祭というイベントは、私と幸谷君には合わない。
後夜祭のあのいかにもな雰囲気の中で踊ることは、自分と幸谷君の関係を、あの枠の中に収めてしまうようで嫌だ。
でも、誘われたなら別だった。
というよりも、幸谷君からの誘いを断るなんて、最悪だ。
他の誘いなんて全部蹴って、受ければよかったのだ。
それなのに、そうできなかった。
いつもの自分なら、それくらい平気でやってのけるだろうに、幸谷君が絡むと、全然上手くいかない。
愛美は入浴剤で白くなった湯を手に掬い、ばしゃりと顔にかけた。
ぴたん、ぴたんと、自分の鼻先から、湯の雫が落ちる。
愛美は顔を拭って、白い浴室天井を仰いだ。
「私のせいだな……」
愛美は呟いた。
幸谷君にもう一歩踏み込みたいと、移動教室の時に思った。そして解っていたはずなのだ。そうするには、自分は、自分を認めなければならないことに。〈マトリョーシカ〉では、幸谷君には近づけない。
それなのに今の自分はどうだろうか。
今自分の周りで起こっている問題を、「大したことじゃない」なんて思い込むことにして、今までの自分を守ろうとしている。緑と望のことも、優のことも、それに、夏果との関係のことも。
私は結局、何一つ自分で、決着を付けようとしていない。
その必要が無いと思っているのだ。確かにそれは、半分は本音だ。もしかすると八割、九割くらいは真からそう思っている。優のことはともかくとして、少なくとも緑や望や、夏果のことに関しては。
だけど、心のどこかには、それじゃダメだと思う気持ちもあるのだ。
今まではそれに耳を傾けないでも良かった。そのほうがかえって、『佐藤愛美』らしかった。
でも今、佐藤愛美であることよりも大事なことがある。
それなのに自分は、わかっていたのに、この慢心を捨てきれなかった。
幸谷君が未だ私のことを『怖がっている』というのにも、理由があったのだ。
私は遠野君からそれを聞いたあの時に、気づくべきだった。
改めるべきだった。
愛美は湯船の中でじっくりとそんなことを考えて、風呂を出た。
夕食時になると、愛美は母の作ったシチューにじっと視線を落とし、スプーンを持とうともしなければ、バゲットに指を触れようともしなかった。
「食べて来たの?」
と、颯美は娘に訊ねた。
「ううん」
と、愛美は小さく否定する。
こりゃ、何かあったなと、愛美のわかりやすい様子を見て母は悟った。しかし、何があったかを話したそうな雰囲気でもない。きっと今、「どうしたの」などと訊こうものなら、無視をされるか、さもなくば、「煩い」と怒られる。
その加減については、颯美はよく了解していた。
「そういえば――」
と、颯美は、愛美が怒らず、かといって愛美にとっては興味のありそうな話題を出すことにした。
「体育祭、優も行くって」
「え、そうなの?」
愛美は顔を上げた。
「サッカーは?」
「その日朝一の練習だから、終わったら直行。マスゲームは、午後一だっけ? たぶん、もっと全然前に着くと思うわよ。全部見られるんじゃないかな」
「え、全部見るの?」
「見たいって」
「優が?」
「そ」
「ふーん……」
やっぱり、まだ優に怒ったこと気にしてたのねと、颯美は思った。愛美の「ふーん」一つからでも、その、まんざらでもないのが良くわかる。
「別にいいのに」
愛美はそう言うと、一口だけシチューを飲んだ。
結局この日、愛美の夕食はその一口だけだったが、それでも、全く食べないよりは全然良いかと、颯美は愛美の残したシチュー皿をラップした。




