狼のマスク(2)
緑と望が、愛美と喧嘩をしたという噂は、週明けにはそれとなくクラスに広がっていた。
それを裏付けるように、月曜日の昼は、緑と望、そして明日香、夏果の昼食グループに、愛美は参加しなかった。
四時間目の授業が終わると、愛美は机に出していた教科書やノートをバックにしまい、淡いピンク色の弁当袋と小さな水筒を取り出した。そうして一人席を立つと、誰とも目を合わせず、教室の後ろの扉から廊下に出ていった。
正孝は愛美のその様子を見て、放っておけないような気になった。
外見的にはほとんどいつもと変わらず、授業中でも面白い事があるとクラスのみんなと同じように笑ったが、しかしそのあと、笑顔がすっと消える瞬間がある。そしてまた、視線を落とした時の俯き方なんかは、いかにも気を落としているように見える。
「佐藤、立野たちと喧嘩したらしいぜ」
唐揚げ弁当を持って教室に戻って来た岳斗は、正孝の隣の席に座ると、机をくっつけながら、正孝にそのことを教えた。
正孝はちらりと、明日香たちのいる女子グループの方を見た。
明日香、夏果、それに緑、望の四人。今日はそこに、男子は誰も入っていかない。七組の男子たちは決して君子では無かったが、危うきに近寄らずという危機管理意識は、すでに処世術としてしっかり持ち合わせていた。
岳斗でさえ、愛美の名前を出すときには、今日は声を潜めている。
明日香たち昼食グループの方はというと、皆、ちょびっとの白飯や、おかずの金平ごぼうなどを箸先で摘まんで、黙々と食事を摂っている。会話も途切れ途切れで、明日香も、いつものような大声で笑ったりしない。
確かに何かあったらしいと、正孝も岳斗の言ったことを信じた。
昼の放送が始まったので、正孝は声を潜めて疑問を口にした。
「でもなんで、立野さんと佐藤さんが喧嘩したんだろう?」
正孝から見ると、愛美と緑は、特別仲が良いようには見えないが、かといって、喧嘩をする仲とも思えない。何か、よっぽどの理由があったのだろうか。でもそれは、一体何だろう。
「牧田もいたらしい」
「牧田さんも……たまたま居合わせただけ、とか?」
「いや、立野の側だったって、薄っすら聞いてるけど」
正孝は首を傾げた。
望は、喧嘩をするようなタイプではない。正確には、できるようなタイプではない。
先の移動教室で正孝は望と同じ行動班だったので、望がどんな気質の女子かくらいかは、見抜いていた。緑や愛美はともかくとして、望ほど、喧嘩に縁遠いタイプもいないだろう。
「何だろう」
正孝は呟いた。
「え、理由?」
「うん」
「俺もそれは聞いてないな」
考え込む正孝に、岳斗が言った。
「また、男関係なんじゃね?」
「またって……」
「だってマナちゃんって、ヤリ――」
「そういう事言っちゃだめだよ」
正孝は、岳斗の言葉を制した。
岳斗は、正孝の初心な子供っぽさを笑った。
「でも他、考えられなくね。俺多分、拓のことだと思うんだけど」
「小佐田君?」
「二人三脚、佐藤とペアじゃん」
「あぁ……。でも、何でそれで?」
わかんねぇけど、と岳斗は前置きしてから言った。
「牧田も拓のことが好きとかだったら、女子だったら牧田に味方しそうじゃん」
「あぁ」
なるほど、と正孝は思った。
拓が望のことを好きなのは、移動教室前にはもう正孝は、岳斗から聞いて知っていた。しかし肝心の望の好きな人については、正孝も岳斗も知らない。行動班の活動中の二人の感じを見れば、望も明らかに拓に気がありそうだったが、結局実際の所は、望の口からでなければ本心はわからない。
それがもし、望の方でも拓のことが好きだったなら。そしてその望の恋を、女子たちが応援していたとしたら、拓とペアを組んだ愛美は、女子の目にどう映っただろう。
「そういえば遠野は、小佐田君の事、応援しないんだね」
「うん」
岳斗は即答した。
「めんどくせぇよ。んなもん、自分で勝手に決着つけりゃいいじゃん」
「まぁ、確かにね」
岳斗らしいなと正孝は微笑した。
「――佐藤さん、大丈夫かな……」
正孝は呟いた。
岳斗は、持ち上げかけて特大の唐揚げを止めて、正孝に訊いた。
「やっぱ気になってんの?」
「……まぁ」
岳斗は唐揚げを口に頬張り、そうして呑み込んだ後に、再び口を開いた。
「行って来いよ」
「え。でも、どこに?」
「佐藤のとこだよ。たぶん食堂だろ?」
「あぁ、そっか。でも……」
「早く行って来いよ。振られたらラーメン奢ってやるから」
「別に告白するわけじゃ――」
「いいから早く行ってこい」
岳斗はそう言うと、勝手に正孝の弁当箱に蓋をした。
「わ、わかったよ」
正孝は強引に促され、弁当箱を袋にしまうと、教室を出た。
愛美は、食堂の窓際の席に座り、袋から弁当箱を取り出した。
水筒のふたに飲み物――ハーブティーを淹れて、準備完了。
「いただきます」
愛美は弁当箱に挨拶をすると、蓋を開けた。
今日の主役はシュウマイだ。グリーンピースの帽子をかぶった可愛い奴。紅白かまぼこ、玉子焼き、そしてお馴染みのブロッコリーが色を添える。二段目には黒胡麻のふってある一口おにぎりが五つ入っている。
「うん。いい仕事してる」
と、愛美は上機嫌に独り言ちた。シュウマイは、愛美の好物なのだった。昨日の夜の残りだが、シュウマイなら毎日でも良い愛美である。
愛美は、一つ目のシュウマイを早速口に運んだ。
これこれ、と愛美は深くじっくり頷く。
そこで愛美は、不意に、昨日の夜、美味しそうにシュウマイを食べる優の笑顔を思い出した。
そこでチクリと、胸が痛む。
『お姉ちゃん、もう来ないでほしいってさ』
母の言葉を思い出す。優が自分にそう言ったという、その言葉を。
そうすると、シュウマイの旨味も、どこかへ消えていった。
愛美は弟に、そんな風に拒絶されたことは、今まで一度も無かった。一昨日は、母からそのことを聞いてもさらっと受け流したが、緑や望との喧嘩のことより、今愛美の胸を苦しめているのは、実はそのことだった。
「なんであんな大人げないこと言っちゃったんだろう」
と、愛美は、自分の優への態度を思い返し、後悔していた。時間が経つにつれ、その後悔は膨らんで、心臓を圧迫する。
――最近本当に、私はどうかしている……。
しかし愛美は、こんな所で落ち込んでいてはいけないと思い直した。そういうのは、自分の部屋で、一人でいる時にすることだ。今ここは学校で、学校では、公の仮面をかぶらなければならない。それを外して振る舞うみっともなさは、よく知っている。
愛美は、ぶんぶんと首を振ると、ハーブティーで喉を潤した。
ふんわりとハーブの香りが鼻に抜ける。
緑や望のことは気にしていない愛美だったが、明日香が二人と自分の間に挟まれているのは、良く理解していた。愛美はしかし、誰かに気を使っている明日香を見たくなかった。それで、教室を一人抜け出して、ここに来たのであった。教室にいると、明日香も明日香で気を遣うだろうし、何よりいや応なく、明日香の苦労している様子が目に入ってしまう。
しばらくこういう昼食もいいかもしれないわねと、愛美はそう思った。
ところがそんな愛美のもとに、男子生徒が一人、やってきた。
「ここ空いてる?」
その声に愛美が顔を上げると、声の主は、同じクラスの男子生徒だった。オムライス定食のトレイを持っている。
深谷光輝。
銀のネックレスをくびにかけ、たまに指にも銀の指輪を嵌めている。軽音楽部に所属していて、バンドのボーカルをやっている。張りのある肌に、白い歯、やんちゃそうな瞳、そして、微かに茶染めしているセミロングの髪の先。
「あ、うん、空いてるよ、どうぞ」
愛美は、すぐに光輝に笑顔を向けて応えた。
光輝は愛美の向かいの席に座り、定食のトレイを置いた。
「なんかあったの?」
光輝は、楽しむような笑顔を愛美に向けてそう訊いた。この、少し馬鹿にしたような笑顔が女子に人気なのを、愛美は良く知っていた。
「なんか、噂出てるよね」
「あの噂、ホントなのかよ?」
「ホントだったとしても、私は言いたくないかな」
「なんでだよ」
光輝はそう言って笑い、銀のスプーンでオムライスを掬った。
「お前、大丈夫なのかよ」
食事の合間に光輝が訊ねた。
「全然大丈夫だよ」
「ホントかよ。ハブられたりしてんじゃねぇの?」
「してないしてない」
愛美は、笑いながら応えた。
「でも今日一人じゃん」
「たまたまだよ。深谷君だって、一人で食べたいとき、あるでしょ?」
「まぁね」
「それと一緒。考えすぎ」
愛美はそう言うと、光輝の表情を少し窺って続けた。
「でも、ありがとね、心配してくれて」
「別に、大丈夫ならいいんだけどさ」
「深谷君は、困ってることとか無いの?」
「俺?」
「うん」
「俺は、別にねぇよ」
「ホント?」
「ねぇよ。なんだよそれ」
光輝の恥ずかしそうな様子を見て、愛美は笑った。プレイボーイを気取っているけど、中身は全然そうじゃない。表に出す態度の方向は違うけれど、その本質は拓と同じだと、そのことが、愛美を面白がらせた。
「彼女の悩みとかさ」
「いねぇよ」
「え、そうなの? 深谷君、モテるんでしょ?」
「知らねぇけどさ」
「へぇ。じゃあ、好きな子は?」
「は?」
「ねぇ、好きな子いないの? 教えてよ」
「いねぇよ! てか、言うわけねぇだろ」
「なんでよ、いいじゃん。相談乗るよ」
「いねぇって、うるせぇな。お前は自分の心配してろ」
「えぇ、ケチだなぁ」
愛美はそう言ってくすくす笑い、光輝はふてくされたようにオムライスを頬張った。
「あれ、なんだよ、戻って来たのかよ」
岳斗は、二年七組の教室に戻って来た正孝に言った。
正孝は、何とも言えない笑みを浮かべながら、再び席に着いた。
「食堂、いなかった?」
「ううん、いたんだけど……もう友達と一緒に食べてた」
「あぁ、なんだ。でもお前、折角行ったんだから、一緒に喰ってくりゃ良かったじゃん」
「うーん……でもそれは流石にね」
「他のクラスの奴?」
「いや……うーん、そうかな」
「まぁ、それじゃ確かに、気まずいか」
岳斗はそう言うと、最後の唐揚げを口に放った。




