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あなたに甘い劇薬を  作者: ノマズ
2,それぞれの揺り籠
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狼のマスク(1)

 土曜日は一日バイトに明け暮れ、その翌日の日曜日。


 愛美は母と一緒に、弟――優のサッカーの練習試合を観に行った。対戦相手は市内の少年団チームで、優と同じ学校の児童も数名、その相手チームにいた。


 愛美にとっては、気分転換も兼ねていた。


 金曜日、望と緑を相手に、自分らしくもなく向きになってしまった。そのことが愛美の中で、もやもやと、引っかかっていた。


 近頃自分がおかしい、と愛美はいよいよ、自分のアイデンティティを本気で疑ったほうがいいだろうかと、少し本気で考えるようになっていた。


 夏果にも、明日香にも、そしてそれだけならまだしも、望や緑にまで、本音を口にするような愚を犯した。どうでも良い事なんだから、軽くいなせば良いだけだったのだ。そして、そういう方法を、自分は良く知っているはずなのだ。


 それなのに――。


 練習試合が始まり、ボールが目まぐるしく、小学校の狭いグランドを行ったり来たりする。


「優、今日フォワードじゃん」


 愛美の母――颯美が、愛美の横で呟く。


 愛美は、学校のことなど忘れて、今日は思いっきり応援がしたい気分だった。


 ところが弟の優はというと、なかなかボールを貰えず、たまにパスが来ても、少し体の大きい相手が来ると、怖がって動きを止め、簡単にボールを失った。


「あぁ、もう。情けない!」


 愛美は、地団太を踏んだ。


 一点、二点と、優のチームは簡単に失点を許して、あたりまえのように負けた。


「優、ルール知ってるのかな?」


 愛美は、試合と試合の合間に、いら立った声で母に言った。質問ではなく、単に感情をぶつけただけだった。颯美も、娘のそういう所は知っているので、「まぁまぁ」と、宥めた。


 試合は結局、二時間のうちに終わった。


 結果は、全敗。


 それなのに、試合後のベンチは穏やかで、優は楽しそうにチームメイトと笑い合っていた。


「ねぇ、優、スポーツが勝負って事、わかってるのかな?」


 試合が終わった後、再度愛美は、母に訊ねた。


 ボールを取られても、シュートを外しても、負けても、ふわふわ、ふわふわしている。そんな弟を見ていると、愛美は無性に腹が立つのだった。試合後は、相手チームの知り合いの子に弱いだの下手だのと、そんな言葉を言われていたが、それでも優は笑っていた。怒ったのは、その相手チームのコーチだった。


 試合の後は、家族三人でお昼を食べに行く予定になっていた。


 しかし愛美は、とてもそんな気になれなかった。


 解散をして、母と姉の元に戻って来た笑顔の優を、愛美は叱りつけた。


「ねぇ、サッカーのルール知ってる?」


 姉にそう言われると、優はびくりと身をすくませ、その笑顔は一瞬で引っ込んだ。優にとって世界で一番怖いのは、やはり姉なのだ。滅多に怒ることは無いが、たまに怒ると――その怒りの矛先が自分に向いていなくても、震えるほど恐ろしい。


 一瞬で涙目になった優を見下ろしながら、しかし愛美は、唇を結んでいた。


「ほら愛美、優も優で頑張ってるんだから」


 と、母は娘をそんな風に宥めたが、それは、火に油を注ぐ結果となった。


「頑張ってるかどうかじゃなくてさ! 優、あんた、自分のこととか、チームの事、あんな風に馬鹿にされて悔しくないわけ? よく笑ってられるね。お姉ちゃん信じられない」


 愛美はそう言うと、ふいっと弟から視線を外した。


 母の颯美はというと、愛美の怒っているポイントが、自分の考えている所と少し違ったので少し驚いた。単に試合に負けたことや、はがゆいプレーをしたことを怒っているのだと思っていたのだ。だからすぐにまた、この少し大人げない、勝気な姉を窘めようと思っていた。


 ところが、愛美の沸騰ポイントが想定と違ったので、颯美はすぐに、優を励まして愛美を落ち着かせる言葉を思いつかなかった。愛美の言葉を聞いた颯美は、言い方はともかくとして、愛美の言葉にも一理あると、一瞬そう思ったのだ。愛美の口から「チーム」という言葉が出て来たのに、颯美は少し感動さえしてしまっていた。


 母が何も言わない間に、愛美はむっとした表情で言った。


「私お昼食べる気になれないから、二人で行ってきて」


「え、じゃああんたどうするの?」


 母の質問に対して、愛美は唇を尖らせて、「帰る」と言ってのけると、躊躇いなく踵を返し、そのまま自転車に乗り、学校を出て行ってしまった。一度も振り返らない。


 優は、すっかりしょげきって、涙を堪えている。


「大丈夫、大丈夫。お姉ちゃん、ほら、優のファンだから、熱くなっちゃったんだよ」


 颯美は息子にそう言ってみたが、あまり効果は認められない。


 やれやれ、と思っていると、颯美たちと同じように息子の試合を観に来ていた、チームメイトの母親が、颯美に声をかけた。


「お姉ちゃん、熱いタイプなのね。見た目可愛いから、ちょっと驚いちゃった」


 颯美は、一部始終見られていたのを知り、少し恥ずかしく思いながらも応えた。


「そうなのよ。オリンピックとか、ワールドカップの時なんて、ホント大変なの」


「へぇ、意外。怖くてちょっと、近寄りがたかったわ」


 あはははと、母親二人は笑い合った。


 すると、笑っている颯美の腕を、優がぎゅっと掴んで、グイっと引っ張った。大物のあたりがあった時のような強い引きに、颯美は思いがけずよろめいた。


 小さくても流石男の子の力だわと思いながら、颯美は息子の表情を確認した。


 すると、一瞬前まであんなに不安そうな顔をして、涙を浮かべていたというのに、今この瞬間には、もう優の涙は、すっかり引っ込んでいた。顔つきも、少し怒っているように見える。


 あら珍しい、と思いつつ、息子の力に引っ張られてながら、颯美は自転車置き場へと歩いた。


 



 その夜、九時を過ぎて優が眠ってしまった後、愛美は、そろそろ自室に戻ろうかとカップにココアを注いでいた。リビングには風呂から出たばかりの颯美もいて、ソファー横のクッション座椅子に座り、旅行番組を何となく見ている。


 そんな颯美が、いつもより少し口数の少ない愛美に声をかけた。


「結局、今日お昼、どうしたの?」


「食べなかった」


「え、食べなかったの?」


「食欲も無かったし」


 愛美はそう言うと、ココアを混ぜるのに使ったスプーンを洗い場のステンレストレイの中に入れた。


「食べないと成長しないわよ」


 と、颯美はそんな適当なことを娘に言った。


 しかし娘も娘で、適当にこうやりかえした。


「成長はあんまり期待してないから」


 さらっとそんなことを言う娘に颯美は、「可愛くないわねぇ」と「可愛い子ねぇ」と、両方の感情が同時に沸いた。


「優、何か言ってた?」


 湯気の立っているココアのカップを持ち上げながら、ちらりと愛美は母を見て、そう訊いた。


 颯美は少し苦笑いを浮かべた後、薬味酒をちびっと飲み、応えた。


「お姉ちゃん、もう来ないでほしいってさ」


「え……」


 母の言葉に、愛美はガーンとショックを受ける。


「優、そんなに落ち込んでた?」


「落ち込んでるというより、ちょっと怒ってたかな」


「怒ってた!?」


 愛美は、驚いて聞き返した。


 愛美も、優に向かって直接怒りをぶつけることは稀だったが、それ以上に、優が怒るというのは、なかなか無い事だった。それも、姉に対して。


「なんかねぇ、ちょっと珍しかった」


「えぇ……ホント?」


「うん」


 愛美は、しかし今更どうしようもないので、ココアを飲んで気持ちを落ち着かせることにした。


「でもまぁ、今泣いてた鳥がもう笑うって言うし、起きたらケロっとしてるわよ」


 愛美はもう一口ココアを飲み、リビングを退散した。母に励まされるのも、今は決まりが悪かった。


 自室に入った愛美は、ちゃぶ台にココアを置き、ベッドの脇に座った。


 そうして、ちゃぶ台に置きっぱなしにしていた携帯端末を確認する。


 着信が一件来ていた。時間を見れば、つい数分前。


 明日香からだ。


 チャットメッセージも入っているが、面倒なので読まずに、愛美は電話をかけることにした。


 数コールで、明日香が出た。


「電話した?」


 明日香が出るなり、愛美はそう言った。


 明日香も明日香で、「もしもし」だとか、「こんばんは」だとか、そう言った言葉は全部省略して、話し始めた。


『あぁ、うん。チャット見た?』


「ううん、まだ」


『見てよ! あれだよ、えーと……マナ、金曜日、緑たちと、やりあった?』


「あー……」


 当然そのことだよねと、愛美は理解した。


 あれから二日、明日香がそのことを、知らないわけがない。そうしてやはり、知らんぷりもできないのが、金森明日香という人間である。


『マナがそういうの、珍しくない?』


「そうでもないよ。彼氏の取った取られたは、まぁ、良くあることだから」


『それもすごいな』


「どういたしまして」


 愛美が言うと、電話の奥で明日香が笑った。


「二人から、色々言われたでしょ」


『まぁ、ね……。でも、呼び出したのは、緑たちなんでしょ?』


「タックン取ったのは私の方だけど」


 愛美がそう言うと、また明日香が笑った。


『でも、嫌な予感はしてたんだよねぇ、正直言うと』


「え、どういう?」


『マナがさ、何かするんじゃないかって』


「え、そうだったの?」


『うん、何となくね。その前から、望と関係怪しかったし』


「あぁ、そっか」


 愛美はそう相槌を打った後、一つ呼吸をして、それからぽつりと言った。


「ごめんね、明日香」


『え?』


「体育祭前にこんなことになってさ。明日香頑張ってるのに」


『いや、いいよそんなことは、全然。私は別に、マナが悪いとか、緑が悪いとか、そういう感じには思ってないし』


「でも明日香としてはさ、難しい立場だよね」


『いや、全然そんなことは無いけどさ。マナは、大丈夫?』


「え、何が?」


『全体的に』


「何それ。私は平気よ。むしろ、言いたいこと言ってスッキリしてるくらい」


『マナ、そんなに溜ってたの? ――いや、望には何となくわかるんだけど、緑はさ、ちょっと意外で。マナのことだから、多少何か言われても、笑って相手にしないのかなぁとか思ってたから』


 明日香が鋭いことを言うので、愛美は少しだけ驚いた。


 確かに、本当に、いつもならそうなのだ。これまでなら、あれしきのことで、向きになったりしない。明日香の見立ては正しい。私は、そういう女のはずなのだ。


『……あのさ、マナ、本当に、あったら、正直に答えてほしいんだけど――緑とか望とか、他誰かに、何か、嫌なこととかされてない?』


 明日香が本気で自分のことを心配してくれているのが、電話越しにもわかった。しかし真面目な話をするには、明日香の声は低く、かすれすぎている。


 愛美は、くすくす笑いながら応えた。


「そういうのは、全然無いよ。でも、ありがと」


『なんか危なっかしいんだよねぇ、マナって。ホント、困った事とか、嫌なことされてるとか、あったら言いなよ』


「わかったわかった」


『あと……人が真剣に心配してるのに笑うとか失礼じゃない!?』


「あははは、ごめんごめん。でもだって明日香、声が、可笑しくて」


『援団だからこうなるんだって!』


 ガラガラの声で、明日香が言った。


 そうしてまた、愛美は笑った。


 明日香との電話の後、笑って少し気が晴れた愛美は、部屋の脇ににょろっと膨らんで立っているバルーンサンドバックを、一度思いっきりグーで殴った。サンドバックは、ぼよん、と音を立てて倒れ、逆側の壁にぶつかって戻って来た。


 愛美は「はぁー」と、大きく息を吐きだしながら、背中からベッドに倒れ込んだ。


 ぐわん、ぐわんと、サンドバックが揺れている間、愛美は天井を眺めていた。


「何してんだろ……」


 ――私って。


 と、愛美は天井を眺めながら、心の中に続けて呟いた。

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