バトニング(4)
木曜日の昼休み、愛美は、空の弁当箱を捨てに行く拓を目ざとく見つけ、その食堂脇のゴミ箱の所で、拓を呼び止めた。
「おぅ、愛美か。どうしたの?」
拓はそう言って、素直に呼び止められた。
愛美は、拓の瞳のその奥に、微かに緊張の色が浮かんでいるのを見逃さなかった。
日頃拓は、少しぞんざいに話す。それは、男子に対しても、女子に対しても。しかし女子に対してのそれは、岳斗のように、自然にそうしているわけではない。女子を意識して、そうしているのだ。
そのことを愛美は見抜いていた。
拓の目の奥にある緊張を、愛美は見逃さない。
本当は初心で、女子へ示す優しさの程度に逐一迷っている、そんな男の子。
優柔不断な男子。
「小佐田君、二人三脚のペアって、もう決まっちゃった?」
いつもより少し、愛美は声のトーンを落としてそう訊ねた。
「あぁ、いや、まだ決まってないよ」
拓が答える。
愛美は、少し困った様な表情を浮かべ、それから、人が気まずいと感じるくらいの間を作った。呼吸二つ分くらいの間。
それから、愛美は口を開いた。
「私とペア、お願いできない?」
「え……」
拓は、思いがけない申し出に即答は出来なかった。
拓の頭の中には、望の存在がある。しかし愛美は当然、そのことを解っている。なにしろ拓は、望のことが好きなのだ。望に向けられている気持ちも、もう薄々は、拓だって気づいているだろう。
しかし愛美は、この場で拓の「イェス」を引き出す自信があった。
「小佐田君なら安心できるし……できればお願いしたいんだけど」
愛美が言うと、拓は少し困ったように目を泳がせ、それから愛美に訊ねた。
「光輝とかは? あいつもまだ決まってねぇんじゃね?」
その質問に対して愛美は、さらに少し声のトーンを落とし、視線も少し伏せながら言った。
「うん、深谷君でもいいんだけど、ね……」
そうしてまた愛美は、沈黙を作る。
含みを持たせた「ね」に、その後は続けない。その後は、察してほしいと暗に伝えるために。
「でもさ、俺かぁ……。俺、そこまで足速くねぇよ?」
「速いよ。私からしたら。それに、支えてくれそうだし」
「うーん……。ホントに俺でいいの?」
「お願いできないかな?」
拓の返答は、全て愛美の読み筋だった。
そして今しがた、愛美は詰みを確信した。
「……愛美が良いなら、俺は別にいいけど」
「ホント?」
愛美は、まだ喜んだ声を上げない。
まだ不安そうな、少し低い声で、顔だけを上げる。そうして、拓と視線を合わせる。
拓の目がまた泳ぐ。
愛美は、内心ほくそ笑んでいた。さっきトイレで仕込んできたカラーコンタクトが威力を発揮している。瞳が少し潤んで見える、〈うるるんティア〉、一箱十枚千八百円。
「いいよ、ペア。組んでやるよ」
拓から確かな約束の言葉を引き出して、愛美はそこでようやく笑顔を見せ、声のトーンを上げた。
「ありがとう。どうしようかと思ってたんだ。ホントにありがとね」
「おぅ」
拓はそう言うと、そそくさとその場を去っていった。
愛美は、拓が階段に消えていくのを見送った後、小さくガッツポーズをした。それから再びトイレに入り、コンタクトレンズを外した。
『ごめん、俺もう、佐藤とやることになったんだ。ごめん』
木曜日の夜、望は拓に二人三脚のペアをやらないかと、チャットメッセージを送った。望は、断れることは絶対にないだろうと思っていた。拓君の方から誘われなかったのは残念だったけど、と、そこを問題にしていたくらいだ。
それだけに、拓から帰って来たメッセージは望には想定外であり、衝撃的だった。
『そうだったんだ! ごめんね。二人三脚、一緒に頑張ろうね!』
と、辛うじて望はそう返したが、その後は枕を抱きかかえて泣くしかなかった。
そうして翌日、金曜日の七時間目後のホームルーム。
各選択競技の詳細がそこで決まり、皆に情報が共有された。二人三脚は、ホームルーム開始段階ではまだ、愛美と拓以外にはペアが決まっていなかったので、その場でくじ引きを作り、決めることになった。
拓と望以外の六人が、すでに流れ解散になりそうな、ざわついた教室の中で、明日香の持っているビニール袋の中に手を入れる。四つ折りにされたメモ帳が六枚入っている。「1」「2」「3」の文字が書かれた紙が二枚ずつ。同じ数字を引いたもの同士がペアである。
結局、望は大野というバレーボール部の男子とペアを組むことになった。
静はというと、光輝に決まった。
静とのペアくじを引いた瞬間、光輝は、
「うわなんだよぉ、最悪だよぉ」
と声を上げたが、それに対して、それと同じくらい大きな声で、
「じゃあお前、一人で走ってろよ」
と、岳斗が言って、皆を笑わせた。
「うるせぇよ」
と、光輝は言い返したが、その声は皆の笑い声でよく聞こえなかった。
そんな中、正孝は、クラスの女子たちの様子が何か、いつもと違うのに気づいていた。一見すればいつも通りに見えるが、ほとんどの女子が、何かを怖がるような、気を遣うような、そんな気配がある。
例えば、誰かが何かを発言した時、一瞬笑ったり、驚いたりといった反応が遅いのだ。それは、朝からそうだった。朝も、昼の昼食時も、女子の目配せが、いつもより明らかに多い。反応の遅延は、その目配せ、様子伺いから来ている。
今日は一体、何だったのかなと、正孝はそんな事を考えていたので、ホームルームが終わった後、教室を出るのが遅れた。ホームルームが終わって最初の三分が過ぎると、教室は途端にガランとなってしまう。
「お疲れぇ」
正孝と同じく、まだ教室に残っていた愛美は、正孝の席の横にやってきてそう言った。『だーれだ』のあの朝以降、話しかけられたのはこれが最初だった。
「お疲れ様。体実補助、大変でしょ」
正孝がそう言うと、愛美の頬が緩んだ。
「ううん、そんな大変じゃないよ。選択競技も決まったし。あとはほとんどやること無いし」
「そうなんだ。でも、お疲れ様」
「ふふ、ありがと」
愛美はそう応えてから、自分の頬を両手で包み込み、そのまま口元を隠した。
「二人三脚、ペアも決まって良かったね」
正孝がそう言うと、愛美は、両手を頬と口元から退けた。
そうしてその手を、そっと、正孝の方に持ってゆき、プツンと、右手の人差し指で、正孝の頬をつついた。
「何してるの」
と、正孝は驚いて笑いながら、突かれた頬に手をやった。
愛美は、ほんの一瞬、はっとした表情を浮かべたが、正孝が驚いている隙にその表情を隠し、笑顔を作った。
「幸谷君、隙だらけだよ」
「それは、そうかもしれないけど」
「否定しないんだ」
「実際、どんくさいから……」
「そう? でも幸谷君、鋭いと思うけど」
「全然だよ」
「そういえば、あれから詩は、書いてる?」
「まぁ、うん。あれは、発作みたいなものだから」
「また見せてよ。幸谷君の詩、雰囲気があって、私好きなんだよね」
「うーん……どうなんだろう。恥ずかしいよ」
正孝はそう言うと、机の上に置かれた愛美の手に視線を落とした。
愛美は、正孝に自分の左手を見られているのに気づき、はにかむように笑った。
二人は何も言葉を交わさないまま、ほんの少しの間、その時間を過ごした。
やがて、愛美が、我に返ったように言った。
「あ、幸谷君、このあと帰り?」
「あ! そうだ、今日もマスコだった。パネル作りなんだよね」
正孝はそう言うと、バックと手提げを持って立ち上がった。
「そっか。ごめんね、引き止めちゃって。パネル、頑張ってね!」
「うん、またね」
正孝はそう言うと、速足で教室を出て言った。
愛美は、正孝が慌てて出て言った教室の後ろの出入口を眺めて笑った。
「『またね』だって」
愛美は小さく呟いて、両手でまた、頬と口元を覆った。
正孝が第三図工室に行くと、すでに栞が、パネル作りの準備を始めていた。重いテーブルを、一人で端に退けようとしている。
「危ないよ! 一緒にやろう」
正孝はそう言うと、荷物を置いて、栞のもとに駆け付けた。
「あ、先輩。ありがとうございます」
栞は礼を言うと、腕に力を込めた。
テーブルを運び、いつも通り、ブルーシートを広げ、その上にポリエステル布を広げる。三枚塗るうちのまだ一枚目だが、その半分ほどはもう、塗り終えていた。
いつものようにアクリル絵の具や水をアルミの椀に入れて、筆を用意する。絵具を混ぜ合わせて水を加え、塗る場所に丁度良い色を作ると、この日も二人は、塗り作業の続きを始めた。
応援団が歌う応援歌の声と太鼓の音が聞こえなくなった頃、栞がぽつりと、正孝に質問した。
「今日は、ヤギ先輩来ないんですかね」
正孝は、平筆の両面に絵の具をつけて、再び布に色を塗りながら応えた。
「今日は、ESSがあるって、確か言ってたかな」
「そうなんですか」
栞は一旦そう相槌を打ち、筆を何度か絵具の入った器と布を往復させてから、またぽつりと正孝に訊いた。
「ESSって、英会話をする部なんですかね?」
正孝も、栞と同じように、何度か筆を動かしてから答えた。
「そう言ってたよ」
そこで二人の会話は一度止まったが、又再び、数分の沈黙を経てから、栞が口を開いた。
「他のパネルの人、来ませんね」
「まぁ、皆部活やってるんじゃないかな。――それに、暫く来ないと、来づらいでしょ」
「そうですね。でも、私がやっぱり、一言メッセージ入れるべきですよね」
「マスコの、グループチャット?」
「はい」
「大丈夫だよ、この調子なら」
「そうですかね……?」
「本当に困ったら、皆に助けてもらえば」
長い沈黙を常に挟みながら、二人の会話は、しかし二人には心地よいリズムで続いた。
「幸谷先輩がいてくれて、本当に良かったです」
また少しの沈黙の後、栞が言った。
「私、一人だったらたぶん……」
栞がそう言ったので、これには正孝は、すぐに反応した。
「水瀬さん真面目そうだからね。でも抱え込むこと無いよ。まだ一年生なんだし、困ったことになったとしても、それは、一年生に無理を押し付けてる二、三年生のせいなんだから」
そう言われて、栞は顔上げた。
そうして栞は、正孝も顔を上げて、自分の方を見ているのを知った。
栞は、慌てて小さく笑い、誤魔化すように、布と筆に視線を落とした。
「先輩は、部活は、入ってないんですか?」
「入ってなくはないけど、出てないんだ」
「何部ですか?」
「文芸部」
「え、文芸部なんですか!?」
「でも、本当に出てないよ。もう一年くらい顔出してないし、小説とか、書けるわけじゃないし」
「へぇ、でも、文芸部なんですね。本とか、読むんですか?」
「たまに。でも、読書家ってわけじゃないよ」
「絵本とか、読みます?」
「あぁ、絵本は……今は全然読んでないけど、好きだよ。好きなの?」
「はい。描いてみたいんですよね」
「あ、そっか、美術部だもんね」
「はい。でも、文才の方が無くて」
「絵だけの絵本でもいいんじゃない?」
正孝が言うと、栞は控えめな笑い声を上げた。大人しいけど、この子は結構笑い上戸なんだなと、正孝は気づいた。屋根裏の栗鼠が笑っている様な、栞の声とその笑う姿には、そんな面白さがある。
「夏休みに一冊、描いてみようかな……」
栞は、誰に言うでも無く呟いた。
正孝も何となく、「うん」と頷いた。




