バトニング(3)
凌也が行ってしまった後で、愛美はこっそりと、小さくため息をついた。
凌也は今、フリーだ。少し前に彼女と別れたということを、カラオケの時、自分から言っていた。光輝との比較で言えば、遊んで楽しそうなのは凌也の方だが、その凌也が相手だったとしても、今は、恋愛ごっこやデートごっこをする気にはなれない愛美だった。
「相手、凌也で決まり?」
グランドの賑わいに背を向けて、校舎に戻ろうとした時、愛美にそう声をかけた女子生徒がいた。
愛美は立ち止まり、振り返った。
夏果だった。
「あ、うん」
愛美は、つい少しだけ身構えてしまった。
一昨日、ファミレスでさしで話したばかりである。その話というのも、ただのおしゃべりではなかった。適当に相槌を打って、毒にも薬にもならないアドバイスに終始したって、あの時間はやり過ごせたのに、そうはしなかった。そもそもどうして、夏果の誘いを断らなかったのか。そのことが、愛美は自分でも未だわかっていなかった。その謎が、愛美には怖かった。
近頃、思ってもいないことを、言ったり、やったりしてしまう。幸谷君を前にしたときも。そして今、夏果に対しても自分は、そうしてしまうのではないだろうか。
「凌也の方から?」
「ま、まぁ……私が突っ立ってたから、見かねたんじゃない?」
「マナだからでしょ」
そういう認められ方は、やりにくいなと愛美は思った。
いつもならこの類の誉め言葉には、「そんことないよー」なんて、高い声音で適当に返すところだ。夏果がさも羨ましそうに、明るく元気にそう言った場合には、そうしていた。
しかし愛美は、お決まりの会話パターンから逸脱した夏果の様子――表情と声のトーンに、適当な返事を封じられた。夏果の声は低く落ち着いていて、その目に、早い会話を催促するような慌ただしい光も無い。
――一体何なの。
と、愛美は言葉を発しないまま、夏果の表情を覗った。夏果も愛美の目を見ていたので、その視線が重なる。
先に目を逸らしたのは愛美の方だった。
「じゃ、私バイトだから、そろそろ行くね」
バイバイと言うと、愛美はくるりと夏果に背を向けて、グランドを離れた。
「あぁ、うん、じゃあ、ね……」
早々と言ってしまった愛美の背中を、夏果は見つめた。
「振られた?」
と、夏果にそんな風に声をかけたのは、緑だった。夏果は緑と同じダンス部である。特別親密な間柄ではないが、二年生のダンス部員は八人である。大所帯でもないので、部員同士はそれぞれに、軽口を叩けるくらいの仲にはなっている。
「愛美、凌也とペアだって」
「へぇ、そうなんだ。ぴったりなんじゃない?」
夏果は、緑の顔をちらりと見た。
緑にしては、随分毒気のあることを言うなと緑は思った。
「マナと、何かあった?」
夏果がこう質問すると、緑は向きになって言った。
「別に何もないよ。何かあったは夏果の方だよ。愛美に話しかけるなんて、珍しくない?」
「そんなことないでしょ」
と夏果は応えつつ、本心は、まさに緑に言われた通りの事を自分でも思っていた。
自分から愛美に話しかけるなんて、今までほとんど無かったことだ。仲の良し悪しで言ったら、悪かった。その『悪い』というのも、喧嘩にすらならない悪さだ。お互いに、「こいつとは合わないな」という匂いを、クラスが変わってから早い段階で互いに嗅ぎ取ったのだろう。
「え、だって夏果、愛美のこと苦手でしょ?」
緑の図星を突いた指摘に、夏果は絶句した。
そしてまた、緑がそんな事を、ストレートに言ってきたのにも夏果は驚かされた。しかし、その最初の驚きはすぐに過ぎ去って、代りに夏果は、緑への腹立ちを覚えた。自分が愛美を苦手に思っているということは、誰にも触れてほしくなかった。
「別に苦手じゃないよ」
夏果は、口を尖らせて、低い声で言った。
夏果のそういう態度は、珍しくはない。教師にも、後輩にも、そして男子にも夏果は、気に入らなければそういう露骨な態度をとる。しかし緑は、自分が夏果にそうされるのは初めてだった。
「緑の方こそ、愛美の事苦手なんじゃないの?」
夏果は、腹立ちのままに、緑に質問を突き返した。
夏果の問いは、槍のようにぐさりと、緑の胸に突き刺さった。それで言葉に詰まった緑を見て、夏果は話題を変えることにした。腹が立ったとはいえ、夏果は緑と喧嘩をするつもりも無ければ、この件もこの感情も、緑との関係を危うくするほどの問題でもない。
「それよりさ、ペアパート前の左列なんだけど、移動場所、もう少し外側のほうが良くない?」
夏果が解りやすく話題を変えたのに、緑も乗った。
緑も、夏果とは、今の関係を壊したくはなかった。
「あぁ、確かにね。先輩に相談してみよっか」
と、そんな話をしながら、二人はダンス部の先輩のもとに向かった。
教室前のロッカーまで戻って来た愛美は、誰か知り合いと出くわす前に、さっさとロッカーから荷物を取り出して、更衣室に向かった。
二年教室棟の更衣室は二階の奥にある。更衣室までは、七組が一番近い。
更衣室は、教室の半分ほどの広さで、左右にロッカーがついている。体育前後の着替えの時は少し狭く感じるが、今は愛美の他に誰もいない。
一人だと更衣室は広く、そして静かだった。
制服に着替えながら、愛美は、夏果のことを考えていた。
今さっき自分は、夏果から逃げて来た。
夏果のことなんて、何も怖くないはずなのに。
だけどあの瞬間――夏果と目が合って、お互いに言葉を呑み込んだあの瞬間、私は、恐れた。あれは間違いなく、恐怖だった。うっかり、何かを打ち明けてしまいそうになったのだ。
思えば、最近こんなことばかりだと、愛美は思った。
今日もマスゲームの練習が始まる前、明日香の質問に、まるきり素の反応をしてしまった。話題にしたくない、隠しておきたいという事情に鍵をかけて笑顔を見せるのは、得意だったはずなのに。
着替えの最後、左足のハイソックスを引き上げている時、愛美は、脛の所でピタッと動きを止めた。
明日香に素を見せそうになって慌てるのはわかる。自分の中でもそれは、腑に落ちる。幸谷君に対しても。好きかどうかは保留だけれど、幸谷君は間違いなく、嫌われたくない相手だ。
だけど夏果は?
でも、夏果にも、同じようなことを感じたのだ。
あの一瞬、私は――。
愛美は、静かに呼吸をしながらソックスを引き上げた。
ぴったりとした、程よい締め付け。
愛美はすうっと息を吸いながら上半身を持ち上げた。
――夏果のことは気に入らなかった。最初から、嫌だと思っていた。だけど今、一昨日話した時の夏果の真剣な表情を見てしまってから、私はどうも、夏果のことを気に入ってしまっているのかもしれない。
愛美は、ロッカーに置いておいたスクールバックを取り出し、バチンと、ロッカーの扉を閉めた。薄っぺらいスチールがしなりながら、音を反響させる。
愛美は、ロッカーに向かい合って、その扉を指で触れた。
ひやっと、冷たい。
その冷たさが、愛美に一つの決心をさせた。それは愛美には不本意だったが、しかし今、決めてしまった以上、もう後戻りはできなかった。
愛美は一度ぎゅっと両目を閉じ、「はぁーあ」と、独り言のような大きく深い、そして自棄をおこしたようなため息をついた。それから、ぎゅっと、鳥の準備体操のように、両腕の肩甲骨をぐいっと動かし、つんと胸を張った。
「なんでかなぁ……」
愛美はそう呟くと、更衣室を後にした。




