バトニング(1)
放課後、文芸部の活動に出るつもりもない正孝は、帰宅する代わりに今は、職員室で第三図工室の鍵を借り、その足で、三年生教室棟一階にある、第三図工室に行くようになっていた。白組のマスコットパネルは、この第三図工室で作っているのだ。
鞄と手提げを部屋の隅に置いて、まずは机とテーブルを端に避ける。
それから、ブルーシートを敷き、ポリエステル布をその上に広げる。縦二メートル、横六メートルの細長く、巨大な布である。その布に、アクリル絵の具で色を塗るのが、マスコット団のパネル担当の仕事だ。最終的にはその細長い布を三つ組み合わせ、一辺六メートルの巨大パネルにする。
今はまだその一枚目だが、先週木曜日の顔合わせの日から作り始めて、まだ一週間と経っていないわりに、その進み具合は上々である。デザインは、金の竜に乗った神様(恐らくゼウス)が雷の鉾を持ち、今にも投げつけるぞと、阿吽像よろしく目を剥いているという構図である。
正孝が準備をしていると、遅れて六組の男子――八木尾辰巳がやってきた。
丸眼鏡に少し伸びた坊主頭。背は正孝よりも少し低いが、何となく、チョロQを彷彿とさせる。話すときに表情や身振りが忙しいのと、声が高いのが、何となく玩具っぽいのだ。
そんな辰巳とは、正孝はすんなり話すようになった。
「コウちゃん、準備早いよ」
辰巳は図工室に入って来るなり正孝にそう言って、自分も荷物を置くと、布を広げるのを手伝い始めた。ちなみに辰巳は、正孝の名前が『幸谷』なので『コウちゃん』と、自己紹介の後からは呼ぶようになっていた。そして正孝の方は、辰巳の名前が『八木尾』なので、『ヤギちゃん』と呼ぶことにしていた。
「いやぁ、やっとさっきペア決まったよ。二人三脚なんだけどさ、女の子の方から誘われちった。俺モテ期きてるかも。あ、そういえば今日これから雨降るらしいよ。傘持ってきた? 神輿のほう、外でやる準備始めてたんだけど、皆天気予報見ないのかな。てか、朝から曇りじゃんね、今日」
色々な話題をマシンガンのように口にする。
それが、からっと明るい口調で、表情も笑顔なので、毒づいても憎めないのがこの八木尾辰巳という男子だった。また、辰巳の言った『神輿』というのは、『マスコット神輿』のことで、これの制作もマスコット団の担当である。神輿は少し大がかりなので、二十名少しいるマスコット団の半分以上は、神輿の制作担当になっている。
「折り畳み傘は一本あるよ。いつも持って来てるから」
「あぁ、そうなんだ。俺朝から予報出てたから、普通の長いの持ってきたよ。――あぁ、ほら、もうなんか、細かいのが舞ってるよ」
辰巳は、がらがらと図工室の窓の一つを開けるとそう言った。
それから二人は、図工準備室からアクリル絵の具や筆、水を入れたり、絵の具を入れるためのアルミの器を持って来て、並べた。そうしていると、三人目の生徒がやって来た。白団の一年生で美術部の水瀬栞である。
「すみません、遅くなりました」
体と同じような細い声でそう言いながら、栞も残りの準備作業に取り掛かった。
正孝は先日栞から配られたパネルのデザイン図を布の横に置いた。準備が終わると、まず三人でするのは、今日はどこから描いていくかという作戦会議である。
「下書きはもう終わっているので、今日は、どんどん塗って行こうと思うんですけど……」
自信無さげに、栞が言った。
それでも栞が仕切っているのは、栞が、パネルのリーダーだからである。本来であれば、上級生の美術部がリーダーをするのだが、マスコットの全体指揮であるマスコ長の美術部三年生は、パネルではなく神輿のほうの主担当になっている。神輿の方が手がかかることから、その配置は確かに適当だったが、一年生でパルを任される栞は、心細かった。
他に白組には二年生にも美術部の生徒がいるが、その生徒は美術の一芸で入った生徒で――つまり、天才肌なので、体育祭時期でも自分の作品に没頭している。そういうわけで、パネルリーダーの役は一年生の栞に回ってきたのだ。
「意義なーし」
辰巳は手を上げてそう言った。
「じゃ、色作ろうか」
正孝はそう言うと、早速、空いているアクリル椀に、絵の具を入れ始めた。
これは正孝も知らなかったことだが、色を作る作業が、正孝は得意だった。前回の作業の時にそれがわかった。色も、原色のまま使用するところは良いが、混ぜて作らなければならない色もある。ところがこの、混ぜるという作業は、中々に繊細なのだ。
それを正孝は、美術部の栞よりも上手くやってのけた。
しかも栞は、美術部でも絵画を専門にしている。中学生時代から水彩画を描いてきたのだ。それだけに、正孝の能力には驚かされた。そうしてそんな正孝の存在は、一年生の栞には大きかった。また何より、正孝の人柄である。とにかく、乱暴ではないし、怖くない。
「ここの紫は、これでどうかな」
ゼウスの背景の紫色を大量に混ぜ合わせながら、正孝は栞に訊ねた。
栞はその紫を筆にとり、下書き用の布にすこし塗ってみた。そうしてそれを、原案の色と交互に何度か見比べて、それから言った。
「いいと思います。ほとんど同じ色になってると思います」
「流石コウちゃん」
と、そんな事を言いながら、三人は筆やら刷毛やらを取り、塗り作業を始めた。辰巳と栞はジャージ、正孝は制服を着て、三人ともその上から、支給された白エプロンをかけている。その恰好で四つん這いになりながら、布に紫色をつけていく。
絵具の匂いと、筆の独特の匂い。そのうち、窓の外から微かな雨音も聞こえてきて、正孝はその作業の沈黙に穏やかな気持ちになっていた。こういった作業は、正孝は好きだった。静かに黙々と、何かを作る。そうしている時は、正孝は小さな幸福を覚えるのだった。
「――降ってきたじゃん!」
雨が降り始めてからしばらく後、辰巳がそのことに気づいて、ひょいと上半身を持ち上げた。その姿はまるで、穴の近くで天敵を警戒するプレーリードックのようだ。
「神輿、大丈夫ですかね……」
栞も、辰巳の言葉で雨に気づかされたようだった。
「まぁ移動してるんだろうけど、雨降るんだから最初から中で作業始めればよかったのにね。皆携帯持ってるのに、肝心なことには使わないよね」
辰巳はそう言うと、ふうっと息を吸い込み、立ち上がって背中を伸ばした。
「あ、休憩してください」
栞は、図工室の時計を見てから言った。
いつの間にかもう、一時間も作業をしている。
「幸谷先輩も、少し休んだほうが良いですよ」
「うん」
正孝は、そう応え、辰巳と同じように背中を伸ばした。
正孝はまだまだ作業は続けられたが、折角の栞の好意の言葉を突っぱねるのも気が引けた。
「飲み物買い行かない? 水瀬さんも」
「あ、私はもうちょっとやります」
「あ、そう? わかった。コウちゃんは?」
「行こうかな」
正孝はそう応えると、上履きを履き、辰巳と一緒に図工室を出た。
「他の奴何やってんのかな。パネルって、ホントは七人いるんじゃなかったっけ。あ、八人だっけ?」
廊下を歩きながら、辰巳が元気に毒づいた。
正孝は笑いながら、「それくらいだったよね」と返事をした。
「パネルってどこもこんなもんなのかな? 去年俺援団だったからわからないけど。コウちゃんは、去年は?」
「去年は何もやってないよ」
「そっか、じゃあわからないね。まぁでも、パネルなんてこんなもんか。『体育祭の華三団』って言っても、実際マスゲと援団の二強だからね。しかもマスコの中でも、パネルより神輿の方が派手だし。しかもマスコって、部活の時間と被ってるから、部活入ってる奴来られないからね。まぁ俺は、来てるけど。ESS部、週三だし、行かなくても怒られないからね」
辰巳はそう言って、一人でけらけら笑った。
ESS部というのは、早い話が英会話をする部活である。辰巳はその、ESS部に入っている。顔合わせの時、辰巳は初対面の正孝に、推薦で進学した後、大学では英語圏の国に留学したい、ということを話していた。
二人は階段を上り、自販機が数台置いてあるゆったりした休憩スペースにやってきた。
少し吟味したあと、辰巳はいちごオレを買った。
そうしてそのペットボトルを持って立ち上がった後、突然、何の脈絡か正孝に突然質問をした。
「ところでコウちゃんさ、好きな人いるの?」
「え?」
「いや、やっぱ気になるじゃん。体育祭あるし」
正孝は首を傾げた。
体育祭があることと、好きな人のことと、どう関係があるのだろうと思った。
「ヤギちゃんは?」
正孝は逆に、辰巳に質問を返した。
辰巳もこれをはぐらかして、この場はそれでやり過ごせると、正孝はそう思ったのだ。ところが辰巳は、あっけらかんと答えた。
「俺、一組の桃園さん」
「え!?」
正孝は、辰巳が答えたことに驚いて声を上げた。
「知らない? 桃園さん」
「名前は何か、聞いたことあるけど――」
「今回赤組なんだよ、一組だから。でも、夜祭誘おうか迷ってるんだよね」
「後夜祭? あ、体育祭の後の?」
「うん。あれ、去年出なかった?」
「う、うん……」
去年、正孝は体育祭には辛うじて出たが、閉会するとすぐに帰宅した。後夜祭には当然、出ていない。そのため、体育祭の後に後夜祭があるということ自体を忘れていた。
「フォークダンス踊る時間ってのがあるんだよ。たぶん桃園さんは、それに参加すると思うから、そしたら俺、頼んでみちゃおうかな」
「積極的だね……」
「まぁね。別に、告白する気は無いけどさ。でも、きっかけ作りに行かなかったら、勝率ゼロパーじゃん。少しでも接点があればさ、それがちょっとは、まぁ、少なくとも一パーセント以上には上がりそうじゃない?」
「まぁ、それはそうだよね」
「でしょ? だからまず、行動しないと。向こうから俺に話しかけてくるなんてことはまずないんだから」
そう言って笑う辰巳を、正孝は少し尊敬してしまった。
わかっていても、なかなかそうは行動できないものである。しかし辰巳は、本当にやりそうだと、正孝は思った。
「で、コウちゃんは?」
「え……」
「おいおい、何逃げきれると思ってんの。俺言ったんだから、コウちゃんも言わないと」
そう言われると、正孝は弱かった。
確かに、人の好きな人を聞き出しておいて、自分は言わないというのは、ズルい気がする。
「好きかどうかはまだわからないんだけど……」
と、正孝はまずそう告げた。
辰巳は、「うんうん」と目を輝かせて頷く。
もうしょうがないと、正孝は続けた。
「同じクラスに、佐藤愛美って子がいるんだけど――」
正孝がそう言うと、辰巳は、正孝の口から出てきた名前を大声でリピートした。
「え、佐藤愛美!」
「え!?」
突然の大声に、正孝は驚いた。
一体、どうしたというのだろうか。
「え、佐藤さん?」
「う、うん」
「俺、佐藤さんとおな中だよ!」
「え!?」
「しかも、中三の時告白して、振られた」
辰巳はそう言って面白そうに笑った。
正孝は驚きすぎて、言葉を失った。
「可愛いよねぇ、佐藤さん。桃園さんとはまた違う可愛さ。でも、今と中学の時とかなり違うよ」
「そうなの?」
「うん。中学の時は――というかまぁ、ずっとじゃなかったけど、俺が告白する前は、ちょっと不良っぽかった。中三の夏過ぎくらいまでだったかな」
「不良?」
「髪とか明るめの茶色に染めてて、ヤンキー友達と仲良くしてたっぽい。俺はそのヤン友は知らないけど。三年の受験の頃にはなんか、いつの間にか髪も黒に戻してて、今みたいな雰囲気になってたね。それで俺、告白したんだもん」
「へぇ、そうなんだ……ちょっと想像できないな」
「でも、中学の頃から可愛かったよ。――なんだ、コウちゃん、佐藤さんのこと好きなんだ。趣味似てんのかな」
「いやでも、好きかどうか、まだはっきりしてないんだけど」
「でも、気になってるんでしょ?」
「まぁ……佐藤さんも何となく、気にかけてくれてて――いや、勘違いだと思うけど、僕あんまり、女の子と仲良くしたことないから、ちょっと話しかけられると嬉しくて」
「乙女か!」
辰巳は高い声で正孝にそんな突っ込みを入れた。
何かとんでもない告白を辰巳にしてしまったと思いながら、正孝は自動販売機に硬貨を入れ、ミルクティーを買った。その隣にチャイも売っていたので、何となくそれも追加で購入する。
「え、二本飲むの?」
「いやちょっと、何か気になって。持ってって、片方水瀬さんにあげようかな」
「あぁ、それがいいんじゃない。幸谷先輩は優しいなぁ」
「やめてよ」
と、二人はそんな会話をしながら、図工室に戻った。




