ナイフと麻紐(5)
翌日火曜日の朝、正孝がいつものように登校し、昇降口の下駄箱で靴を上履きに履き替えていると、そこへ突然後ろから、「だーれだ」という声があった。
声と同時に、正孝の視界が、小さな両手によって後ろから遮られる。
正孝にそんな悪戯を仕掛けたのは、誰あろう、愛美だった。
正孝も、隠すつもりの無い愛美の声に、すぐにそれとわかった。
ほとんど後ろから抱きしめられるように密着されて、正孝は身体を強張らせた。そんな正孝の緊張を感じ取って、愛美は一つ満足し、手をどけた。
上履きを履きかけていた正孝は、そのまま、愛美の姿を確認した。
「おはよ」
「お、おはよう」
愛美の笑顔に、正孝はどもりながら返事を返した。
それから、それとなく周囲を確認した。二年七組の下駄箱には他に誰の姿も無かった。正孝はそのことにまずは安心した。朝からそのことで、また誰かにからかわれては堪らない。しかし一方では、からかわれるかどうかはどうでもよくて、それよりも、久しぶりに愛美と言葉を交わせたことを嬉しく思う感情があった。
その、嬉しい感情の方が、からかわれたくないという気持ちより勝っているかもしれないのを、正孝は自覚した。そうすると自然と、自分の首筋のあたりの体温に妙に敏感になってしまうのだった。
「なんかちょっと久しぶりだね」
愛美はそう言ってにこっと正孝に笑いかけ、靴を脱いだ。
正孝は、愛美の靴を脱ぐ仕草に思わず息を止めた。愛美の動きは小動物のように可愛らしいのに、どこかやたらと大人びている。
靴を履き替える時にスカートが微かにめくれて、愛美のほっそりした白い太腿が見えた。
正孝は、自分の男の本能が沸き上がって来そうになり、慌ててふいっと、そっぽを向いた。
「どうしたの?」
と、愛美は上履きに履き替えて靴も下駄箱にしまった後、天井の隅を見ている正孝に訊ねた。
「え、いや、なんでもないよ」
正孝は応え、愛美の顔を見た。
愛美は、相変わらず笑顔である。
その笑顔も、いつもより少し、元気そうだ。
何か良い事でもあったのだろうかと、正孝は思った。そうしてそれは何だろうと、わかるはずもない推測をしようとした時、正孝はふと、その心当たりの情報が自分の中にあるのに気づいた。
――そうだ、一昨日の日曜日、佐藤さんは六組の男子と遊んだのだった。
「幸谷君マスコットだよね? どう? 順調?」
「あぁ、うん。まぁまぁかな」
愛美の質問にはそんな風に応えながら、正孝の頭は、愛美の日曜日のことを考えてしまっていた。日曜日、楽しかったのだろうか。さっきの『だーれだ』みたいに、その男子たちと触れ合ったのだろうか。その中に、好きな男の子がいたのだろうか。――もう実は、付き合っているのだろうか。
正孝はそんな事を考えて、静かに一人、混乱していた。
「あれからチャットも送ってくれないじゃん」
「あ、あはは……」
「嘘うそ。幸谷君、チャットとか苦手なんだもんね?」
「うん。あれ、でも、そのこと言ったっけ?」
「聞いてはないけど、何となく。違ったらごめん」
正孝は、これには少し驚きながら応えた。
「ううん、その通りで、苦手なんだよ。チャットもそうなんだけど、携帯の、あの小さい画面ずっと見てると、気持ち悪くなっちゃって」
「そうなんだ! でも、わかる、わかる。画面酔いでしょ?」
「たぶん、そんな感じだと思う」
愛美は正孝の声を聞きながら、やっぱり幸谷君は何か違うんだよなぁと、そのことを確かめていた。他の男子――例えば一昨日の親睦会という名のコンパ的なカラオケに来た男子。髪をいじったりするほどには外見も気にできていて、明るくて、場を盛り上げるのが上手い。
けれど、何か決定的に、幸谷君とは違う。どっちの何が、どう足りているとか、欠けているとか、そういうことではないけれど、明らかに違う。声のトーンも、話し方も、そのリズムも、人が違うのだから違って当たり前だが、それ以上に何かが根本的に違うのだ。
「佐藤さんは、マスゲームだよね」
正孝は、日曜日のカラオケのことは聞けないので、代わりにそんな確認を愛美にした。「そうそう」と、愛美は嬉しそうに応えた。
「幸谷君もマスゲームにすればよかったのに」
「いやぁ、人前で踊るのは……」
「えぇ、でも、私は幸谷君と踊りたかったなぁ……」
「えぇ」
と、正孝は照れて微笑した。
一方で愛美は、自分の言ってしまった言葉に驚き、焦っていた。
『一緒に踊りたかった』なんてことを、そんなような直接的な言葉を、今ここで正孝に言うつもりなど全くなかったのだ。全くなかったのに、どういうわけか、口が勝手に開いて、そう言ってしまった。それも、ちょっと拗ねた様な、要するに、甘えた様な声で。
「あ、もしかして幸谷君、『玉入れ』にしなかったのも踊りたくなかったから?」
愛美は、早口で正孝に言った。
正孝は、愛美の鋭さに驚きつつ、「うん」と頷いた。
「じゃあ二人三脚にすればよかったのに。そうしたら私と――」
そこまで言いかけた愛美は、そこで言葉を止めた。
これも、そんなこと、言うつもりの無い言葉だった。『そうしたら私と』のあとは……『一緒にペアになれたのに』だ。
「あー、でも、幸谷君、女の子と一緒に走るとかも恥ずかしいか!」
愛美は、乾ききった喉から、本音の代わりの言葉を発して笑った。
正孝の方では、愛美のその指摘も、まさにその通りだったので舌を巻いた。一番恥ずかしくないもの、という消去法で障害物レースにしたのだ。それを全て見透かされていたのを知り、正孝はまた、新しい恥ずかしさに苦笑いを浮かべた。
教室に着き、正孝は正孝の席、愛美は愛美の席に着いて、二人の朝の会話はそこまでとなった。
席に着いた愛美は、スクールバックから水筒を出して、ごくりと一口飲んだ。
ジャスミンティーを主としたハーブブレンド茶。
美容にも良い飲み物だが、今さそれよりも、ジャスミンのリラックス効果が必要だ。
「はぁ……」
愛美は息をついた。
ハーブの香りが鼻に抜け、少しだけ、気持ちが落ち着く。
愛美が移動教室の後、学校で正孝に話しかけなかったのは、実はこのせいだった。正孝と話していると、なぜかうっかり、素の自分が出てきてしまうのだ。そのことを愛美は、移動教室の間に嫌というほど思い知らされた。誰もいない所ならまだ良いが、学校のような、どこにいても誰かしら、人の目があるような場所では、幸谷君との会話は怖すぎる。
それなのに今日は、朝から幸谷君に話しかけてしまった。
なぜだろうかと今更ながら思う愛美だったが、しかしその答えは、考えてもとても分からなかった。ただ、今は少し、幸谷君とお話をするその資格が自分にできたという、そんな風に愛美は考えていたのだった。
朝から愛美に『だーれだ』をされて、ドキドキしながら始まったその日、正孝は何となく、今日は食堂で食べようと思い、昼休憩になるとふらりと久しぶりに、学食を訪れた。
安くて量が多いのは麺類とカレーだが、今日はちょっと違うのを食べようと、正孝はねぎとろ丼定食の食券を買った。それに『レッドスムージー』も付ける。十数種類のフルーツや木の実をミックスした飲物で、他の飲料よりも値段は少しするが、学食では正孝の一番好きな飲み物だった。
そうして正孝は、学食の端の奥まったところにある二人用のテーブルで食事をしていた。
すると、その近くに、女子生徒のグループがやってきて、四人掛けのテーブルを陣取った。正孝のいる場所からだと、壁が遮ってほとんど互いに見えないが、そのグループの生徒が椅子に座ろうとしたその一瞬、正孝は、その女子生徒の顔を見た。
その生徒は、同じクラスの金森明日香だった。
「――マナ部活入ってないからさ、やってくれるかなと思ったんだよ」
明日香が、恐らく向かいの席に座る友人にそう言った。
『マナ』というのが愛美のことだと、正孝はすぐにわかった。普段愛美は、友達から『マナ』の愛称で呼ばれている。
「でも大丈夫なの、愛美で」
と、こう言ったのは緑だった。
正孝はすぐにそれも、緑の声だとわかった。正孝は緑と言葉を交わしたことはほとんど無かったが、それでも、同じクラスの生徒で、普段よく聞く声であれば、誰の声かわかった。
「いやいや、愛美優秀だよ。頭私よりいいし――」
「それ明日香が勉強しないからでしょ」
「まぁそれはね! でもマナは優秀。しかもあの子、結構真面目だからね」
「へぇ」
と、緑の冷めた声。
「でもさ、男関係怪しいんじゃない。それでドロドロしたらさ」
「でもこの間、全然断ってたよ」
「日曜?」
「そうそう。向こうめっちゃマナのこと口説いてたけど」
「うわぁ。てかさ、彼女持ちいたんでしょ? その男が?」
「うーん、まぁ、その男子はそこまでじゃなかったけど、でも、ちょっとちょっかい出そうとはしてたかな」
その後、明日香の豪快な笑い声が続いた。
「でもさ、普通さ、気使わない? マナを誘った明日香も明日香だけどさ。愛美も、普通断るでしょ」
「え、そう?」
「だって愛美、前科あるじゃん」
「あぁ、人の彼氏取ったってあれ?」
「明日香どう思うの?」
「でもそれは……、まぁ、ねぇ」
そこまで聞いて正孝は、自分が盗み聞きをしている後ろめたさに、自然と顔を伏せていた。場所的にはもう、明日香たちに見つからないように席を離れることもできない。
かといって、会話を聞かない様、気にしないように心がけても、耳はそれを勝手に拾ってしまう。
――こんな話をそんな大声でして、誰かに聞かれているとか、思わないのだろうか?
正孝は明日香たちの配慮の無さといおうか、図々しさといおうか、そういうものを感じて疲れてしまった。しかし疲れていても、明日香たちの会話は続き、正孝の耳はそれを受信してしまう。
「最近マナ、なんか私のことを避けてるっぽいんだよね」
と、そう言ったその声は、明日香でも緑でもない。
しかし正孝は、その三人目の声の主が、望だとわかった。何しろ五月頭の移動教室で、同じ行動班だったのだ。明日香や緑に比べれば、望の声の方がよっぽど聞き慣れている。
「一緒にお昼誘ってもさ、全部断られるんだよね。私何かしたのかな? 全然心当たりないんだけど、何か聞いてる?」
望の問いの後、少し間があってから、明日香の声が応えた。
「全然聞いてないよ。それ、たまたま予定合わなかったんじゃん?」
「えー、でも、三連続だよ。絶対嫌われてるよ」
「でも心当たりないんでしょ?」
「だから困ってるんだけど」
望と明日香のやりとりがあり、その後緑の声が割って入った。
「でも普通さ、断ったら断ったで、フォローとかしない? それ、無いみたいなんだよ。ねぇ、望」
「うん」
「そうなんだ」
と、明日香。しかし明日香は、それ以上は何も言わない。
「もしかしてマナ、本当に拓のこと、好きなのかな……」
望の小さな声に(それでも正孝にははっきり聞き取れた)は、明日香が透かさず答えた。
「いやそれはないでしょ」
「なんでそう思うの?」
と、明日香に訊ねたのは緑。
「愛美たぶん、小佐田君みたいな男子はタイプじゃないよ」
「なんで明日香にそんなことわかるの?」
緑の訊き返すその声は、かなり不服そうだ。
「なんとなくだけど」
と、そう応える明日香の声は、少し悪戯っぽい。
「じゃあ愛美は、どういう男子がタイプだと思うの? まさか、誰か知ってる?」
「それは知らないけどさ、望はそこは、安心していいと思うよ」
そんな会話が、何を食べているのか、食事の合間から聞こえてくる。その全ての言葉を一言一句違わず拾い上げてしまう正孝は、かなり疲れてしまっていた。耳の電源をオフにしてしまえるのならそうしたかったが、生憎今は、耳栓を持っていない。耳栓は教室のバックの中だ。しかも会話の内容が、愛美に関することである。となれば、やはり気になる正孝だった。
「ところで望はさ、ちゃんと拓とペア組んだの?」
明日香の問いに、望が応えた。
「ううん、まだなんだよね……」
「え、まだ組んでないの!?」
明日香の驚いた声が続く。
少しその中には、批難の感情が見える。
「早く組んじゃえばいいじゃん」という明日香の言葉と、「まだ誘ってこないんだ」という緑の声が半ば重なる。
移動教室の前は、拓が誰が好きなのか、好きな人はそもそもいるのか等は知らなかった明日香と緑だったが、移動教室での出来事を望や愛美や、他の生徒から収集し、解析した結果、二人は、「拓は望のことが好きだろう」という正しい推論を導き出していた。
「金曜のホームルームまでだよ? 大丈夫?」
明日香がそう訊くと、望が応えた。
「木曜の放課後まで待って、誘われなかったら、私から言ってみようかなって思ってるんだけど」
「まぁ、断られることは無いだろうからねぇ」
と、緑が応えた。
しかし、少し遅れて、明日香は少し違う意見を声に出した。
「いや、早くしたほうが良いんじゃない。どうせ誘うんでしょ?」
「そんな焦ることも無いでしょ」
そう言ったのは、緑である。
「だって、二人三脚の女子って、望とマナと、あと、熊谷さん? と長谷部さんでしょ? たぶん長谷部さんは、望と拓のことは何となく察してると思うし、熊谷さんは、拓誘えないでしょ。仮に熊谷さんが拓を誘ったとして、拓、流石に断るだろうし」
緑がそう続けると、明日香も反論の声は挙げなかった。
それから三人の話題は、体育祭のことを中心にしながらも、愛美からは遠ざかっていった。そうしてやがて、三人が食事を終えてテーブルを離れていくと、正孝はそれを慎重に確認し、ほっと息をついた。




