ナイフと麻紐(3)
翌週の週明け、月曜日の朝はクラスホームルームから始まった。
教壇に立つのは体育祭実行委員の明日香。そして、急遽明日香から補助を頼まれた愛美。
当たり前のように前に出て来た愛美を見て、ほとんどの生徒はしかし、そほど気にしたりはしなかった。しかし立野緑は、「え」と一人小さく声を上げ、戸惑うのだった。
「選択競技、この時間で決めるから、どんどん手上げていってね。じゃあまず、二人三脚やりたい人――」
愛美が選択競技の種目を板書するのを待たず、明日香が勝手に進めようとした。流石に愛美も、それに待ったをかける。
「ちょっと明日香、早い」
「え、あ、あぁ、ごめんごめん」
愛美が板書しているのにその時気づいた明日香は、明るく謝って笑った。七組の生徒たちも、自然と笑ってしまう。ただ一人、緑を除いては。
愛美が全競技を書き終え、いよいよ選択競技を決めることになった。
挙手で決めようとした明日香に、しかし今度は、一つの意見が出た。
「最初にリレ選決めたら?」
誰か男子がそう言った。
確かにそうかと、明日香も思った。選択競技を決めた後にリレーを決める流れだと、リレーに出る生徒は二つの競技にいや応なく出場することなる。リレーは選択競技扱いなので、リレーに出たら、その生徒は他選択競技に出る必要は無いのだ。
「えっと、じゃあ、先リレ選決めます。女子は、なんだっけ、私でいいの?」
明日香は誰ともなく、クラス全体に訊ねた。
これには、誰も異議を唱えなかった。このクラスには陸上部の女子もいず、そもそも明日香は足が速い。
「男女一人ずつリレー出せるけど、七組からは両方とも一人で良いんだっけ?」
明日香は、今度はクラス全体に訊いた後、愛美に視線で訊ねた。
愛美は、しょうがないなぁという笑みを浮かべて応えた。
「六組は足速い子多いから、男子も女子も、うちからは一人ずつでいいって言ってたよね」
「あ、そっか」
明日香は思い出した。
そのことは昨日、六組の体実達と話して、聞いたばかりだ。
「じゃあ、一人ずつでいいので、女子は私ね。男子は――男子って誰が速いの?」
明日香は、今度はクラスの男子に訊ねた。
鈴木か、岳斗かと、二人の名前が所々から上がった。しかし、誰よりも大きな声で推薦する人物の名を挙げたのは岳斗だった。
「幸谷がいいと思います」
岳斗が言うと、「はぁ? 幸谷?」と、男子がまず、口々に反応した。
愛美も、岳斗のその推薦には驚いた。まさかここで、正孝の名前が、しかも岳斗の口から出てくるとは思わなかったのだ。悪ふざけなのだろうかと、愛美は岳斗を見た。
岳斗の目は、いかにも楽しげである。
しかし、その頬は笑っていない。
少なくとも、誰かをいじる時のような嫌らしさは見られない。
愛美は、岳斗の心理分析を諦めて、自分の仕事に戻ることにした。相応しいかどうかはともかくとして、推薦に挙がった候補者はとりあえず、その名前を黒板に書いておく。
なんだか皆の前で『幸谷』の名前を書くのは恥ずかしいなと、愛美は思った。
ところが、愛美がその名前を黒板に書き始めようかという時、物言いがついた。
「ねぇ、ふざけないでさ、ちゃんと走れる人出してよ」
緑である。
イライラした口調で、岳斗に半ば八つ当たりのように言った。
「は? 俺真剣だし」
岳斗は、憤然として反論した。
皆の視線は岳斗に向き、岳斗がその瞬間、思いのほか真面目に反論したので、そこでまたひと笑い起きた。皆、岳斗が正孝を推薦したのを、悪ふざけだと思ったのだ。
岳斗はちらりと、正孝を見やった。
正孝は押し黙って、恥ずかしそうにしている。
普通ならここで、愛美か明日香が、一応正孝にも、「どうですか?」というようなことを訊ねるのだが、しかし岳斗は、二人のどちらかがそれを言うより早く、口を開いた。
「じゃあロリ、お前やれ」
『ロリ』というのは、鈴木条のあだ名である。
スズキは、「えっ」とタコのような口をして驚き顔を作ったが、この推薦には、誰も否唱えなかった。
「じゃあロリで決定ね」
明日香が言い、皆勝手に拍手をする。
「おいおい、ちょっと待ってよ。一応俺にもさ、確認取ってよ」
「はいはい、じゃあロリ、いいね?」
「いやぁ、俺なんかとても」
「ウザい」
「すみません、やります」
鈴木の扱いは、いつもこんなものだった。
皆が明日香と条のやり取りに笑い、愛美は『鈴木』の文字を板書する。しかし愛美は、黒板に向かうその一瞬前、誰もそれには気づかない笑い声の中で、じりろと、緑へ射殺すような視線を放っていた。
その後、選択競技決めは円満に進み、正孝は結局障害物レースに、愛美は二人三脚に出ることに決まった。
その日の放課後、部活の後、愛美はマスゲーム団の練習のためグランドにやって来た。ちょうどサッカー部の練習が終わったところだった。水飲み場に岳斗がいて、がぶがぶと上に向けた蛇口から水を飲んでいた。
「遠野君、部活終わり?」
愛美は、岳斗に声をかけた。
いくつか岳斗に、聞きたいこともあったのだ。
岳斗はばしゃっと顔に水をかけ、練習着で顔の水を拭いながら、愛美の方に顔をやった。
「おぅ。佐藤は、これからマスゲ?」
「うん。ちょっと早いけど。遠野君、応援団だっけ? これから?」
「援団の練習は昼休憩の時か部活前だよ。なんか、夜やると苦情来るとかでさ」
「あぁ、そっか。でもそうだよね、太鼓も鳴るし、声もすごいからね。遠野君もちょっと、声枯れて来てない?」
「ちょっとね」
岳斗はそう応えると、はにかむように笑った。
なるほど、岳斗がモテるのがよくわかると、愛美は思った。岳斗はいわゆるハンサムではないが、笑顔はまるで子供だ。目が若干垂れ目なので、大型犬のような可愛らしさがある。そんな風に評価している愛美自身も、岳斗は、そう悪くないと思っていた。
「そういえば、リレ選、鈴木君で良かったの? 遠野君も足速いって聞いたけど」
「あぁ、まぁね。でも、俺とロリだったら、ちょっとロリのが速いんじゃないかな。同じくらいだったら、俺は騎馬戦に全力出したいし」
そっか、と愛美は相槌を打つ。
それから、聞きたいことの一つを、岳斗に訊ねた。
「でもなんで、幸谷君を推薦したの? 友達だから?」
「え? いや、別にそういうわけじゃねぇよ。まぁ……あいつ足、遅くないし」
「そうなんだ?」
岳斗はぼりぼりと頭の後ろを搔いた。
「そういや、お前六組の男子と遊んだんだって?」
「あぁ、うん。よく知ってるね」
「だって六組の体実、凌也――あいつサッカー部だし」
「あぁ、そっかそっか」
「口説かれただろ?」
「えぇ? もう、そんなんじゃないよ」
と、愛美は笑いながら軽く岳斗の肩を叩いた。
「普通に懇親会。明日香も一緒だったし」
「知ってる。その連絡入った時、俺、幸谷とラーメン喰ってたもん」
「え、そうなの!? いつ?」
「先週の、木曜じゃなかったかな」
「木曜……」
愛美はぎょっとした。
自分のそんな情報が、当日に内に幸谷君にまで回っていたと思うと、何か、恐ろしい。
「じゃあ、幸谷君も、私が懇親会行って来たの、知ってるんだ……」
と、今度は独り言のように、愛美は呟いた。
「知ってるよ」
「幸谷君何か言ってた?」
「何か? あー……いや、特には。てかお前ら、移動教室で仲良さそうだったのに、あれから話もしてないんだって?」
「え? 幸谷君から聞いたの?」
「うん、そう言ってたよ。まぁ、別に俺が関係ある話じゃないけど」
愛美は一瞬考えてから、思い切って岳斗に訊いてみた。
「幸谷君って、私の事嫌いかな? 何か聞いてない?」
「え、あいつが? あー、何か言ってた」
「え、何なに?」
「そうだ、怖いって」
「え、怖い? え、それ、幸谷君が、私の事?」
「そう。本音を隠してる気がするんだと」
「えぇ!」
けらけらと、岳斗は笑った。
「なんでよぉ。遠野君からもそう見える?」
「いや、俺はさ、そんな全部あけっぴろげの奴いないと思うから、別に、何とも思ってねぇよ。特別佐藤が怖いとかさ。どっちかって言うと、物理的に怖いのは桜庭みたいな奴かな」
「でも、遠野君と仲いいじゃん」
「魔人繋がりでな」
「桜庭さん、別に魔人なんて呼ばれてないでしょ」
冷静な愛美の突っ込みに、岳斗は苦笑いを浮かべる。
「あ、そういや、佐藤、二人三脚だっけ? ペアどうすんの?」
「あぁ……」
そうだった、と愛美は思い出した。
別段愛美は、二人三脚に思い入れがあるわけでもない。二人三脚のメンバーは男子四人、女子四人の八人で、男女で必ずペアになるという決まりがある。そう言う意味では人気のある競技ではあったが、愛美は、ペアは誰になっても良かった。誰と走るかは、今週の金曜までに決めなければならないが、誘われなければ、自分から誰かを誘うつもりはさらさらない愛美だった。
「拓と牧田も二人三脚だよな」
岳斗が言った。
愛美は、この二人のことは、今となってはどうでも良かったが、一応恋愛事なので、興味がある振りをして「そうなんだよね!」と目を輝かせて反応して見せた。
「あいつらさ、どうなの?」
岳斗は、少しイラついた調子でそんな質問を愛美にした。
「えぇ、どうって、どう思う?」
「どうせ牧田も、拓の事好きなんだろ?」
「そう思う?」
「いや、わかんねぇけど。女子の目から見て、どうよ」
「うーん。まぁ、悪くは思ってないよね、望も」
「だよな? いや、部活でもさ、マジで鬱陶しいんだよ」
と、岳斗は、最近サッカー部の中で起きた出来事を愛美に話した。
それは、マネージャーの望が、ビブスの洗濯を忘れた事件だった。汗臭いままのビブスを着て練習をした部員たちは望に文句を言ったのだが、拓は、望を励ます側に回ったのだという。
「え、タックン優しいじゃん」
と、愛美は話を聞いてそう言ったが、岳斗は舌打ちをすると吐き捨てるように言った。
「いや、気持ち悪ぃよ。なんていうのかな、あの生ぬるい感じ」
「そんなことないでしょ」
「いや、わかるんだけどさ、でもそういうのは、部と関係ない所でやれよって」
「あぁ、まぁ、そうかぁ」
愛美は、確かに岳斗の言う事もわかる気がすると思った。
というのも、愛美には演劇一筋の市川瑞希という親友がいる。その瑞希も、部員同士の傷のなめ合い、励まし合いを気持ち悪いと表現していた。そのことを思い出したのだ。そうして愛美自身も、そういう感覚が解る。解るから、瑞希とは単なる友達以上の仲なのだろうと思った。
岳斗が水道を離れた後、愛美は少し水を飲み、水道脇の石段に腰を下ろした。そうして、少しずつ集まり始めたマスゲーム団のメンバーを眺めながら息をついた。
『本音を隠してる気がする』
正孝が岳斗に言ったという自分評が、愛美の胸に痛かった。自分のことを怖がっているというのは、移動教室の時に直接正孝からそう言われていたが、雨の中助けに来てくれて、抱きしめても暮れて、その上そして泣き顔を見られてしまったその後で、今なお怖がられていると思うと、やるせない。
「やっぱり幸谷君、私の事まだ苦手なのかな……」
愛美の唇は、頭に浮かんだその言葉を何となくなぞった。
そうして愛美は、自分が思いのほかショックを受けているのに気づいた。目頭の付近がじんわり熱くなって、気が付けば、泣きそうになっている。
これには、愛美自身、困惑してしまった。
こんなことで泣くなんて、どうかしている。
愛美はスッと鼻を一度強く啜り、目頭の、まだ涙になり切っていない水分を両手の中指で弾いて拭った。そうして暗くなりかけた空を見上げて、「はあっ」と息を吐いた。正孝の言葉が、どうして自分の感情をこんなに揺さぶるのか、愛美にはさっぱりわからなかった。
まだ『好き』と決めたわけでもないのに、幸谷君の言葉は易々と、私の心の中に入って来る。
人工芝のグランドに照明が灯り、グランドの中は昼間のように明るくなった。マスゲームの練習が始まると、愛美はそのことだけに集中することにした。
しかしこの日、愛美には思いがけないことがもう一つ起こるのだった。




