ナイフと麻紐(2)
その日の夕方、日が落ち始めた頃、正孝と岳斗は、学校近くのラーメン屋に来ていた。
この日岳斗はいつものように部活動があり、正孝はマスコット団の初顔合わせで夕方まで残っていた。〈マスコット団〉というのは、体育祭でマスコット神輿やマスコットパネルを作る団で、各クラスから数名出さなければならない。七組からはその一人が正孝になっていた。
そういうわけで夕方、顔合わせ終わりの正孝と、部活終わりの岳斗はたまたま鉢合わせして、ラーメンでも喰いに行くか、ということになった。
高校最寄りの東久留米駅から十分ほど歩いた所にあるラーメン屋。住宅街でもなければ、駅前商店街の中でもない中途半端な場所にある店。一方通行の道に面した九州味噌ラーメン専門店――〈むぎ軒〉である。駅付近にはラーメン屋は他にもチェーン店があったり、高校生なら大抵好きなとんこつラーメンの安い店があったりするが、岳斗は中学時代からこの店を推していた。
木造建築風の外装に、内装は椅子やテーブル、カウンターに至るまで、本物の木材で作られている。いかにも味噌ラーメンを出します、という雰囲気である。
岳斗は四人掛けのテーブル席を選び、二人向かい合って席に着いた。
「援団後の部活はヤバいな」
岳斗は、一息で水を飲み干し、早々もう一杯を注ぎながら言った。
『援団』というのは、〈応援団〉のことである。マスコット団、マスゲーム団、そして応援団は、体育祭の華三団と呼ばれている。とはいえ実際は、マスゲーム団と応援団が『華』であり、マスコット団はその二団に比べるとひっそりしている。岳斗はそのうち、応援団に入った。
「もう練習だったの?」
「今日からスタート。援団の練習は部活前なんだよ」
「あー、そっか」
正孝は頷いた。
応援団の練習があるので、運動系の部活動は今日から活動の開始時間を三十分繰り下げた。正孝は、今週初めのホームルームあたりでぼんやり聞いていたそんな学校のスケジュールを思い出した。
「お前マスコだっけ?」
「うん」
「なんだよ地味だな」
正孝は、確かに地味だなと思って笑った。
「それよりお前、佐藤さんとどうなんだよ」
「え!? どうって?」
「え、だってお前、移動教室の時、仲良さそうだったじゃん。あれから何もないの?」
正孝は天井を見上げて首を傾げながら考えた。
あれから――移動教室の後、自分と佐藤さんの間に、何か特筆すべきことがあっただろうか。いや、特筆どころか、思えば会話すら交わしていない。移動教室から帰ってきた日の夜に、班長をやったことへの労いの言葉を、メッセージで貰っただけだ。
「何もないかな。話も、してないし」
「なんでだよ」
岳斗はそう言って、無料のメンマを小皿にごっそりとって、それだけをバリバリ食べ始めた。
「小佐田君と牧田さんは?」
「え、あいつら? 何もねぇよ。まぁ別に、どうでもいいけど」
「え、でも、小佐田君と遠野は仲良いんじゃないの?」
「別に。というか、あいつらのことはもう、面倒くさい」
「面倒くさいって……」
「やっぱ俺は、マナちゃんの方が気になるな」
岳斗は自分でそういて、からかうような、照れるような笑みを浮かべてにかりと笑った。
「そういや週末、うちのサッカー部のやつと佐藤さん、カラオケ行くらしいよ」
「え」
正孝は、水を飲もうとした手を止めて、顔を上げた。
「そいつ、六組の体実なんだよ。懇親会だって、二年白組の」
「あれ、でも、七組の体実は金森さんじゃなかったっけ?」
「うん。だからその金森と、体実補助で佐藤さん」
「……佐藤さん、そんな仕事してたんだ」
「男三人と、金森、佐藤さんだって」
「男三人?」
「向こうの体実補助、二人なんだって。両方男」
それを聞いた正孝は、一瞬で、その五人がカラオケルームにいる様子を想像した。
日に焼けた健康的な体躯の男子の隣に座る佐藤さん。身を乗り出して、テーブルのオレンジジュース取ろうとする。その華奢な肩が、隣の男子に触れる。佐藤さんは楽しそうに笑って、ジュースを飲みながら男子に上目遣いの視線を送る。――そんな光景が、正孝の脳裏に現れる。
正孝は歯の痛みでも堪えるように、ぎゅっと目を瞑って首を垂れた。
「俺も呼べって言ったんだけど、断わられた。マジむかつく」
岳斗はそう言うと、その六組の体実だというサッカー部の部友から来たチャットメッセージの履歴を正孝に見せた。ついさっき来たばかりのメッセージだった。愛美が参加することを、男子らしく喜んでいる、そういう文面だった。
『お持ち帰りしちゃっていいかな?』と、冗談だか本気だかわからないメッセージも入っている。対して岳斗は『ふざけんな』と返している。
「やっぱり佐藤さん、人気なんだね」
「そりゃそうだろ。あの顔でワンチャンありそうとかさ」
「……」
正孝が顔を曇らせたのを見て、岳斗は、茶化す半分、しかしもう半分はわりと真剣な声音で、正孝に訊いた。
「お前やっぱ、佐藤さんのこと好きになっちゃった?」
そう訊かれた正孝は、嵐の中、愛美に抱き着かれた時のことをぱっと思い出した。
涙目で怖がっている佐藤さん。微かに震えていたその細い体。そして、離れた後、まだ少し涙の残る目で、自分に向けてくれた笑顔。
「――いや、そういうんじゃないけど」
正孝は慌てて応えた。
「なんだよ。お前佐藤さん狙うなら、手貸してやろうと思ったのに」
岳斗の意外な申し出に、正孝は難しい顔をして言った。
「え、でも、遠野、佐藤さんの事好きなんじゃ……」
「はぁ、俺が? あぁー、ちげぇよ、前言ったのは、そういう『好き』じゃねぇよ。てか、可愛い子とデートしたいとか、普通思うだろ?」
「それは、好きとかじゃないの?」
「俺は違う。それはそれ、これはこれ。特別『好き』じゃなくたって、可愛い子なら一緒にいたいだろ、そりゃ。後はさ、ほら、相手次第だよ」
「相手次第?」
「相手がこっちのこと好きになってくれるんだったら付き合うし、そうじゃなきゃ、友達とか、他人のまんまだし」
「遠野は、好みとか無いの?」
「可愛けりゃいいよ。性格とか、わからねぇじゃん、合う合わないとか。でも我が儘でもさ、ブスに言われたらムカつくだけだけど、可愛い子に言われたら、やってあげちゃおっかって、思うだろ? だから、顔とスタイルは大事なんだよ。まぁ、マナちゃんはスタイルで言うと、おっぱいは小さいけど」
岳斗の最後の一言に、正孝は顔を赤くして俯いた。
岳斗も自分で言って、少し照れている。
「それ、佐藤さんに言ったら怒られるよ」
「言うわけねぇだろ。で、お前どうなの、佐藤さんの事」
正孝は少し考えてから、慎重に答えた。
「ちょっと怖いんだけど、でも、何か、気にかけてくれるんだよね」
「怖いって何だよ」
「うーん……本音を隠してる感じがするから」
「いやぁ、お前、女子なんて大体そうだろ!」
岳斗がそう言い終わるか終わらないかの時、ラーメン屋に二人の女子高生が入ってきた。
一人は桜庭蓮子、もう一人は長谷部静。どちらも正孝と岳斗のクラスメイトである。移動教室では正孝も少し、二人とは一緒に食事を摂って仲良くなっていた。
「おぅ、岳斗じゃん」
蓮子は早速岳斗を見つけてそう言うと、堂々とした足取りで二人の座るテーブルまでやって来た。
「なんだよ大魔神」
岳斗は鬱陶しそうに、それでいながら少し嬉しそうに、そう言った。
「それお前のあだ名だろ」
蓮子はそう言うと、ちらりと、後ろの静を見やって言った。
「席ここにする?」
「え、いいけど、二人に迷惑じゃなければ」
静の返事を聞くと透かさず、蓮子は正孝に訊いた。
「幸谷君、いい?」
「う、うん、別に」
正孝は愛想笑いを浮かべて頷いた。何も訊かれていない岳斗は、「おい」と、小さく反論したが、蓮子は正孝の返事を聞くやすぐに、正孝の隣の席にどかっと腰を下ろしていた。そうして蓮子は、岳斗に言った。
「何、文句あるの? あ、私が隣の方が良かった?」
「ふざけんな、ラガーマンが隣じゃ暑苦しいだろ!」
「言うならラガーウーマンだろ!」
「いやお前柔道部だろ」
二人のそんなやり取りに、正孝は思わず笑ってしまう。
その間に静は、躊躇いがちに岳斗の隣の席に座った。静が隣に座ることに関しては、岳斗は何も言わなかった。
「二人はもう頼んであるの?」
「もう頼んだよ」
「あ、じゃあ私たちも頼も。私札幌味噌大盛りチャーシュー増しで」
「え、蓮子早いよ。ええと、私は……」
慌ただしく二人は注文を終えて、暫くすると、四人の頼んだラーメンがそろった。
「ごめんねぇ、幸谷君、騒がしくて。幸谷君、マスコだっけ?」
ずるずるっと麺を啜った後、蓮子が訊ねた。
正孝は「うん」と短く答えた。
「競技は何出るか決まった? 私玉入れにしようかなと思ってるんだけど」
「あー……」
正孝は曖昧にそんな声を出した。
二年七組の生徒はクラス競技である『中玉運び』(ストレッチーボールを四人の生徒が輪になって腕を組み、腹、もしくは背中で四方から挟みながら進むリレーレース)の他、選択競技として、『チャッコリ玉入れ』、『二人三脚』、『障害物レース』、『騎馬戦』のいづれかに出場する決まりになっている。
「やめとけよ、お前の腰振りダンスとか、見たくねぇよ」
岳斗が蓮子に言った。
『チェッコリ玉入れ』は、ダンスと玉入れをミックスした競技である。音楽が流れている間は『チェッコリダンス』を踊り、音楽が切れた瞬間に玉入れを開始する。ダンスが可愛らしいので女子に人気の競技なのだ。
「いやいや、私のチェッコリダンス、キレキレだから」
蓮子は自分でそう言って笑った。しかもダンスだけでなく、武蔵黒目高校のチャッコリ玉入れは、玉入れをしている時に、大玉転がしに使われる様な巨大なボールが、妨害要因として放り込まれる。蓮子は、自分ならそんなボールの横やりに屈しないという自信があった。
「岳斗あれでしょ、騎馬戦でしょ?」
「当たり前だろ。てか、お前も女子騎馬だろ?」
「まぁね」
蓮子がにやっと笑って応えた。
『女子騎馬』というのは、名前の通り、女子だけで作る騎馬である。武蔵黒目高校の騎馬戦は、男だけで作る雄騎馬八騎に女子騎馬二騎の計十騎を赤、青、白組の各組で用意し戦う三つ巴ルールである。雄騎馬は各クラス一騎を出すのに加えて、組全体で『王騎馬』を一騎作る。『王騎馬』というのは、武道系の部活やラグビー部の生徒からなる、各組選りすぐりの四人から成る雄騎馬である。そして蓮子の選ばれた女子騎馬というのも、いうなれば、女子版の王騎馬である。王騎馬に対して女子騎馬は、『姫騎馬』と正式には呼称されるが、女子騎馬の構成員は皆、男も怖がるくらいの武道派女子なので、『姫騎馬』と紹介されるところで毎年、どっとグランドに笑いが起きるのが通例だ。
「静は二人三脚だっけ?」
「かなぁ」
静はそう応え、蓮華のスープをふうふうと冷ました。
そこで岳斗は、話題を正孝に向けた。
「そういや選抜リレー、俺、お前推薦するからな」
「ええ!」
正孝は驚いて声を上げた。
選択競技の特別枠には、蓮子の女子騎馬や王騎馬と同じようにもう一つ、選抜リレーがある。女子騎馬が組全体から選抜されるのに対して、選抜リレーは各クラスから一人以上出さなければならない。この特別枠に選ばれると、それは選択競技扱いになるので、例えば選抜リレーに選出されたら、他の選択競技には出なくても良いことになる。
しかしもちろん、やりたいからというだけで、選抜リレーに出られるわけではない。選ばれるのは、クラスで一番か二番かくらいに足が速い生徒である。遅い生徒を選出すると、もう一度選び直しをさせられる、ということもある。
それを知りながら岳斗が正孝を推薦するということで、なんでよ、と静と蓮子は思ったが、正孝の自尊心のことも考え、そこは何も言わなかった。代わりに蓮子は、岳斗に質問した。
「うちのクラスって、誰が足速いの?」
「鈴木か俺かな。幸谷以外だと」
「え、幸谷君ってそんなに足速いの?」
蓮子の問いに、正孝は微笑しながら首を振った。
「速くないよ。運動もやってないし」
岳斗はそれを聞くと、ため息を微かに吐いてラーメンを啜った。それから話題は、移動教室でできた新しいカップルのことなどに移っていった。正孝はそんな話題を聞きながら、頭の片隅には、愛美が週末に男子とカラオケに行くという予定のことがこびりついて離れなかった。




