ナイフと麻紐(1)
「はぁ、ただいまぁ」
佐藤家では夕方五時半ごろになると母の颯美が帰ってきて、それとバトンタッチするように、娘の愛美がバイトのために外出する。この日は、颯美の帰りが少し早かったので、愛美はまだリビングにいた。
「おかえり」
と、愛美は返事をして時計を見た。
娘の顔が少し曇っているのを見て、颯美は愛美に訊ねた。
「何かあったの?」
「優がさ――」
「優? うん」
愛美の八歳年下には弟がいる。小学校四年生で、サッカーを習っている。
「さっきさ、公園で遊んでたんだけど」
「うん」
「――なんで優って、言われても言い返さないんだろ」
「喧嘩でもしてた?」
「喧嘩にもならないわよ、あれじゃ」
「友達とサッカーしてたんでしょ?」
「うん。でも、下手とか、雑魚とか言われててさ。なのに優って、へらへら笑って。何がおかしいのかさっぱりわからない」
颯美は、なるほどね、と小さく微笑した。
愛美の弟への歯がゆさは、つい少し前まで、自分が感じていたそれと同じだわと、颯美は思ったのだ。優は誰に似たのかおっとりマイペースだが、愛美は違う。とにかく勝気で、プライドが高い。何事でも、負けたまま終わらせることができない性質なのだ。
本当に、私の娘ねと、事あるごとに颯美はそう思う。
「優はそういう子なのよ」
「でもさぁ……」
「あ、そうだ。体育祭、今年は休み取れたから、見にいくからね」
「え、そうなの?」
「あんた何やるの?」
「まだ決まってない。あーでも、マスゲームは出るよ。皆で踊るやつ」
「へぇ、そうなの。衣装は?」
「そういうのは、ダンス部の先輩が決めてるかな、たぶん」
そうして話していると、愛美の携帯に電話があった。
愛美と同じクラスの友人、金森明日香からだった。時間としてはちょうど、部活終わりだろう。明日香は女子バスケ部なのだ。
「もしもし、部活だった?」
『あ、愛美? うん、部活部活、今さっき終わったとこ。あのさ愛美、ちょっと頼みあるんだけど』
「何?」
『体実の補助、頼めない?』
『体実』というのは〈体育祭実行委員〉の略である。四月初めの学級会で、明日香は自ら立候補で、体育祭実行委員になった。その補助というのは、クラスによって一人か二人、体育祭実行委員が自由に決めることになっている。
「え、今誰やってるの?」
『頼むの忘れてて、誰も……』
「明日香、そういうのはもっと早く――」
『ごめん、この通り!』
「電話越しじゃわからないよ」
愛美は、電話の向こうで携帯端末を拝むようにしている明日香を想像して笑った。〈体実〉の仕事が動き始めて、そのやることの多さに目を回しているのだろう。
『いや、ホントに、困っててさ……』
「しょうがないなぁ。これ貸しね」
『マジ!? めっちゃ助かる。ラーメン一杯!』
「安いでしょ」
『肉野菜増し増し特盛でいいから!』
「えぇー」
『あ、マナ、もう一個お願いあるんだけど』
「何?」
『今週日曜日、六組の子とカラオケ行くんだけど、一緒に来てくれない?』
「え、それは、どういう関係で?」
『六組って同じ白団じゃん? で、親睦会みたいなやつ。六組の体実と体実補助。流石に男三人の中に私だけだと嫌だからさ』
「え、向こう皆男子なの?」
『そそ。ちなみに、そのうち二人は彼女無し』
「それ完全に、狙われてるんじゃないの?」
『まぁね。でも、私も全然そんな気無いよ? でもほら、そういう肉食系相手にできる子って、そんなにいないじゃん? 男慣れしてるっていうかさ。マナがいたら、私も心強いし』
「はぁ……じゃあ、詳細送っておいて。ちょっと考えるから」
『わかった、すぐ送る! ありがと!』
明日香との電話が切れた後すぐに、日曜日の親睦会の詳細が愛美の携帯のチャットアプリに送られてきた。そのふざけた通知音に、愛美は苦笑した。
日曜日を愛美は、毎週空けている。それでも一度『考える』と言ったのは、少し明日香を咎めたい気持ちからだった。『男慣れしてる』なんて褒められた気がしないし、明日香自身、不安なのだったらもう少し警戒しなさいよと、愛美は思ったのだ。
しかし愛美は、送られてきたその親睦会の詳細を見ずとも、明日香の〈心強い〉友人として、会に参加するのを、電話を切った時には決めていた。
「お友達?」
颯美は、愛美に訊ねた。
うん、と愛美は短く返事をしてから続けた。
「体育祭実行委員のサポート頼まれた」
「へぇ、いいじゃない。やったら?」
「うん。そう返事した」
「え、やるの!?」
「何?」
愛美は眉をひそめた。
自分から「やったら」なんて勧めたその舌の根も乾かぬうちに、なんでそんなに驚かれなきゃいけないの。
「ごめんごめん。いやぁ、お母さん、愛美がそういうの買って出るとは思ってなかったから」
「買って出たわけじゃないけど」
「いいことよ。情けは人の為ならず」
「えー、何、ジジくさい」
「せめてババくさいでしょ!?」
「やめてよ」
愛美はそう言って笑い、腕時計を嵌めた。
ケイトスペードの清楚な腕時計。
入学祝いの母からのプレゼントである。友達と外に遊びに行く時でもバイトの時でも、普段愛美は、それを着けていくようにしている。そして今度、六組の男子三人とカラオケに行く時も、時計は必ず、この可愛らしく、清楚な腕時計と決まっている。
「慎みを持ちなさい」という呪いか何かを母がこの時計に込めたかどうか愛美は知らなかったが、しかし愛美は、母がこの時計に、そういう意味を込めたのだと解釈して、自らその呪いにかかる様にしていた。
颯美は一瞬ちらっと愛美のつけた腕時計を見やり、それから娘に訊いた。
「時計、あの恰好良いやつはつけないの?」
『格好良いやつ』と颯美が言ったのは、愛美が、去年自分の稼いだバイト代で買った時計である。ハイブランドの腕時計で、手に入れた時は随分喜んでいた。しかし愛美が、それを着けて出かけたのを、颯美は一度も見たことが無かった。
「うん。あれ観賞用だから」
愛美はそんな事をさらっと答えて、外出の準備を整え始めた。
そうして出かける前、少し待たせておいた明日香へ、『OK』のスタンプをチャット送って返した。インコが羽を広げて『〇』を作ってスタンプである。
その後に、インコスタンプの可愛らしさとは真逆の黒文字で短く『貸し2つね』と送った。
そうして、明日香からの返事も待たずに携帯端末をミニショルダーの中にしまった。その時に愛美の胸の奥に、一瞬だけ、ちくっと痛みが走った。
「……」
静かな玄関の上がり框に座り、愛美はそっと息を吐いた。
胸に走ったその痛みを、愛美は知っていた。ここ最近は、この種の痛みを感じることは無かった、懐かしい痛み。色々な感情がブレンドされた、もどかしい痛み。
「いってきます」
靴を履いた愛美は、そう言うと家を出た。
リビングにいた母颯美は、さっきまで元気だった娘の「いってきます」の声が、今度は随分小さいのを奇妙に思った。この短時間で一体何があったのだろうか。しかし颯美にも夕食の支度がある。「いってらっしゃい」と玄関先の娘に聞こえる声でそう言った後は、米をと研ぐ作業に移った。
母の「いってらっしゃい」の声を背中に聞きながら、愛美は外に出た。
まだ明るい五月の空を見上げるとまた、チクリ――。
愛美の胸の奥が少しまた痛んだ。




