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あなたに甘い劇薬を  作者: ノマズ
1,二人の雷
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二人の雷(3)

 愛美は驚いて身を固めながら、音のした左の方を振り向くと、そこには、ずぶ濡れの人影があった。雨の中からこの湯場の屋根の下に飛び込んできて、勢い余ってその扉に身体をぶつけてしまったらしい。


「幸谷君!?」


 愛美は、立ち上がりながら、その人影に声をかけた。


 それは確かに、宿から傘を差して発ち、途中から傘の意味の無いのを悟ると傘を閉じて、ただ雷雨の中を全力疾走してきた正孝だった。


「はぁ、はぁ、はぁ……佐藤さん、やっぱりここだったんだ」


 正孝は、ほうっと息をついて、その場にしゃがみこんだ。


 正孝も、本当に〈深山の湯〉に愛美がいることに驚いたが、愛美の驚きはそれどころではない。


 愛美は正孝に駆け寄ると、バスタオルで正孝の髪を拭いた。


「あ、いや、いいよ。もう全身びしょ濡れだし」


 正孝はそう言うなり、ぶるぶると身震いして、はくしょんと、くしゃみした。


「迎えに来てくれたの?」


「うん」


「でも、なんで私がここってわかったの?」


「そうかなと思って」


「そうかなって……でも幸谷君、風邪引いちゃうよ。――温泉、温泉入る!?」


「え? ここの?」


「うん。入浴セットあるし」


 愛美はそう言うと、ポーチのチャックを開け、シャンプーの類を見せた。


「佐藤さんは、入ったの?」


「ううん。ちょっと、怖くて……」


 正孝はその時、愛美の目に涙が浮かんでいるのに気が付いた。


 目が赤い。


 愛美も、「あれ?」と思った。「怖い」だなんて、今自分は、そんな事を口にしただろうか。そんなこと、私が思うはずがない。思っていたとしてもそんな弱み、こんな簡単に、見せるはずがない。


 それなのに――。


 正孝は、自分を見つめてくる愛美の顔を見て、こんな雷雨の中、三十分近く一人でいた愛美の気持ちを汲み取った。さぞ怖かったろうと思った。男ならまだしも、ここに女の子一人というのは、どれほど心細かったことだろうか。


 正孝は、愛美が頭からかけてくれたバスタオルの両端を両の掌に乗せて、その手で、自分を見下ろす愛美の両頬を軽く包みながら言った。


「もう大丈夫だよ」


 正孝にそう言われた瞬間、愛美の緊張の糸が、プツンと切れた。


 愛美は、ひくひくっとしゃくりあげたかと思うと、その目に、じわりじわりと、堪えていた涙が溢れて来た。こんなはずないのに、という愛美の強がりは、溢れてくる涙と安心感の前に簡単に押し流された。


 涙がもう誤魔化しようもなると、愛美は、わっと正孝に抱き着いた。


 正孝は、最初は驚いたが、あまり驚きすぎると愛美が安心できないだろうと思い、深呼吸で最初の驚きを飲み込んだ。そうして出来るだけ、ゆっくりと呼吸を続ける。まだ体の強張っている愛美に、正孝は静かに声をかけた。


「怖かったよね」


 正孝はそう言いながら、愛美の頭の後ろ辺りを、柔らかく撫でつけた。


 正孝の胸の中で、愛美は小さく頷いた。


 だんだんの自分の胸の中で、愛美の体の緊張がほぐれていくのが正孝にはわかった。雨に濡れたジャージから、じわじわと愛美の温もりが伝わってくる。


 雷が鳴る。


 鳴るごとに少しずつ固く、寄り添える口実になるすさまじい音。


 緊張して強張り始めた正孝の体を感じて、愛美は、こっそりその胸の中で、小さく笑った。




 愛美の涙が止まったあと、正孝は愛美の提案を受け入れて、温泉に入ることにした。実は〈深山の湯〉は、夕食の時に話題に上がっていた、まさに混浴の温泉だったが、そこはさすがにまずいだろうと、愛美が一緒に入ろうかと提案するのを、正孝が止めさせた。


 一緒に風呂なんて入ってしまったら、きっと一線どころか色々なラインを踏み越えてしまうだろうと、正孝は自分が解っていた。それはまだ、正孝には怖かった。


 正孝が風呂場にいる間、愛美はいつの間にかムカデのいなくなった脱衣場の椅子に座り、時折風呂場の正孝に質問したり、声をかけたりした。


「でも、もし私いなかったらどうするつもりだったの?」


「それならでも、それはそれで安心だから、良かったんだ」


「安心って、なんで?」


「ほら、ここが一番遠い湯場でしょ? ここじゃなかったら、この雨でもまぁ、何とか帰れると思うから」


「幸谷君が大変じゃん」


「僕はまぁ、大丈夫だよ。これはこれで、楽しいし」


「楽しいの?」


「雪とか、台風の時とか、外に出たくなる気持ちって、無い?」


「幸谷君、子供みたい。でも、すごくわかる」


 愛美は、きゅっと心臓の上で服を握った。


 胸が痛かった。


 きっと幸谷君のこういう優しさは、誰にも理解されることが無いのだろうなと、愛美はそう思うと切なかった。「自分の中にないものは認識できない」という言葉を愛美は思い出していた。同じ〈優しい〉でも、だからきっと、幸谷君の優しさは誰にも観測されないのだ。


「本当は――」


 今度は、風呂場の方から正孝が愛美に話しかけた。


「部屋にいるのも、居心地が悪かったんだ」


「同じ部屋って、誰だっけ?」


「あ、そうじゃなくて。別に、誰がどうって言うんじゃないんだけど……」


 カランと、桶が石にぶつかる音がして、ちょろちょろと温泉の流れる微かな音が静寂の間に流れる。愛美は、目をぱっちり空けて、正孝のいる湯船の方を見つめた。


 何となく手元に置いておいた偶然。


 バレーボールをぶつけてしまった男の子。


 でもそれを愛美は今、運命にしてみたいと思った。


 もう一歩、幸谷君のことが知りたい。


 でもそのためには、自分もそれ相応の覚悟を持たなければならないと愛美は感じていた。上っ面は、幸谷君には通用しない。そしてそういう上っ面の言葉が、幸谷君には雑音になって、幸谷君を日々苦しめているのだ。


 人の感情をまるで読心術の魔法のように感じ取ってしまう、敏感すぎる感性の持ち主。だから、心無い言葉や、言葉では無くても仕草一つ、吐息一つに現れる、小さな粒のような悪意を受け取ってしまう。


 そんな幸谷君が、私みたいな女と一緒にいるというのが、我ながらどういう風の吹き回しだと思う。けれど、幸谷君が、私といるのは嫌じゃないと言ってくれたのだから、もう一歩幸谷君に踏み込んでも、大丈夫なのではないだろうか。


「湯加減どう?」


「やっぱり、熱い、けど一分くらいは耐えられる」


「――やっぱり私も入ろっかな」


「それはダメだよ! いや、いいけど、僕が出た後で――」


 と、そこで正孝は、固まった。


 脱衣場からひょっこり顔を覗かせている愛美と目が合ったのだ。愛美は当然、服は着ている。しかしまさか、こっちを覗いているとは思っていなかったのだ。


「ちょ、ちょっと佐藤さん!」


「いやぁ、ちょっと気になって」


 湯船に入っている正孝は、逃げるに逃げられないので、体を固めるしかない。


 愛美に借りたタオルは、湯船に入れるのは悪いと思って入れていないので、肝心な所を隠すものがない。かといって、手で隠すのも恥ずかしい正孝だった。


「面白いものなんて何もないから」


「あるよ。――幸谷君の慌てた顔」


 正孝は唇を結んだ。


「もう上がる?」


「うん、そろそろ上がる」


「わかった。じゃあ私は、外で待ってるね」


 愛美はそう言うとまたひょこっと脱衣場に姿を消し、その後、がらがらと愛美が脱衣場から外に出る扉の音が続いた。正孝はほうっと息をつくと、湯から体を引き上げた。


 正孝が脱衣場から出る頃には、雷も大雨も幻だったかのように治まり、小雨よりも細かいけぶるような薄い雨が、夜の大気に漂っていた。五月の虫や蛙が、恐る恐るまた鳴き始めている。


 熱い〈深山の湯〉の湯船につかった正孝は、絞っただけのびしょ濡れのジャージを再び着ることになったが、温泉の効能もあってか、体はぽかぽか温かかった。


「やっぱり、私のジャージ着たら? パジャマもあるよ。女物だけど、その濡れたジャージよりいいでしょ」


「いや、いいよ、寒くないから」


 正孝は、流石に愛美のその提案は断った。


「湯冷めしないうちに早く戻らないとね」


 愛美はそう言うと、ポーチから懐中電灯を取り出して灯した。


 その光量に、正孝は驚いた。しかし、愛美がこの暗い道を一人で来られたのも、それで納得できた。武骨な、それこそ男の子が好きそうなタイプの、ハンドライトだ。


「これ、防犯用のだから、明りすごいでしょ」


「うん、車のライトみたい」


「ね。――じゃ、戻ろっか」


 そうして二人は、〈深山の湯〉から宿に向かって坂道を下って歩いた。


 愛美は、自分に小学四年生の弟がいることや、両親が離婚して、今は母と弟と暮していることなどを正孝に話した。正孝も、自分が一人っ子であることを愛美に教えた。それから互いの誕生日、星座、血液型など。それだけの話でも、二人は楽しめた。


 そうして坂の終わり、宿の近くまで戻ってきたとき、愛美は声のトーンを落として言った。


「幸谷君、ありがとうね」


「いや……」


「迎えに来てくれて、嬉しかった」


「――とにかく、帰ってこられたから、結果オーライだよ」


「そうだね」


 愛美は、そう言って笑った。


 頬が熱い。


「あ、あと、さっきのことは――」


 正孝は、どもりながら言った。


「無かったことにするから、気にしないで……安心して」


 愛美はにまりと笑って応えた。


「えぇ? 別に、言いふらしてもいいよ?」


「そんなことしないよ」


「えぇ、いいのに」


「しない」


 正孝は頑なに首を振った。


 愛美はからかうように笑った。そうして、半分は悪戯をする時のように、しかし半分は、もう悪戯で済ますことのできない想いを乗せて、正孝を見つめた。





ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

お話の第一幕は、ひとまずここで一区切りとなります。本当はこの少し先まで書いてから一章終了という形にしようと思っていたのですが、すみません、くじけました。観覧者数がとにかく少なく、書いても誰も読まないのではないか、という疑念に負けました。ただ、その中でお付き合いいただいた数少ない読者の皆様には大変感謝しております。

作品自体は、ここで打ち切りにするために無理に短くした、ということはありません。文章にしても何にしても、自分の中では今あるものを出し切ったと思っています。もし、続きが気になる、だとか、何かあれば、是非感想などもらえると、嬉しいです。


ではまた、機会があれば<(_ _)>

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