二人の雷(2)
夕食の後、少しの間正孝は、大人しく部屋の布団で横になっていた。男子の六人部屋で岳斗も一緒だったが、岳斗は皆で湯場に行くと言うので今しがた出て行ってしまった。岳斗は正孝も一緒に行こうと誘ったが、正孝はそれを断った。
正孝の良すぎる耳は、夕食の時の光輝の言葉や、彼らのグループの会話を拾っていた。
しかし、部屋の中にいるのでも、男子は他に四人いる。その四人は、特に正孝を孤立させようという意地悪をしているわけでは無かったが、彼らがトランプに興じているその仕草や言葉や、そういうことの一つ一つが正孝には気になってしまい、横になっていても、ちっとも気は休まらなかった。
そこで正孝は部屋を出ることにした。
そうしてそのままふらりと便所に行き、真っすぐに部屋には帰らず、何となく、宿の玄関にやってきた。小さなロビーには、ソファーが二つ、テーブルが二つ並んでいて、受付には、外出名簿のノートが開いておかれている。
正孝は最初、大きなため息とともにソファーに座った。
ふおおっと、開けっ放しの玄関から、冷たい風が流れ込んでくる。風だけではなく、靄までも入って来る。その靄はまるで幽霊の様で、正孝は思わず立ち上がって驚いた。
次に正孝を驚かせたのは、ドーン、ドーン、という、太鼓のような雷の音だった。
遠くの方で、雷が落ちているらしい。
正孝はぞくぞくっと肩を震わせて、こんな中外の湯場に行くのは怖くないだろうかと思い、何となく、外出名簿を見た。
今外に出ているのは、愛美や岳斗たちのあのグループだけらしい。
「あれ?」
正孝はしかし、首を傾げた。
名簿には確かに、『佐藤愛美』の名前が書いてあり、行き先に『2』と記されていたが(番号がふられた湯場のうちの2番の湯場、という意味)、その上に二重線が引かれている。
「佐藤さん、行ってないんだ……」
正孝は呟いた。
愛美の名前を口にすると、正孝は無性に、愛美と話がしたくなった。
それから正孝は、再び首を傾げた。
行かなかったというのは、体調でも崩したのだろうか、と考えたのだ。夕食の時は元気そうだったけれど、そういうことも、十分あり得る。
「お、幸谷君だ」
と、そこへやってきて、正孝に声をかけたのは、蓮子だった。夕食で同席した悠理と静も一緒である。三人とも風呂上がりと見え、首にタオルをかけ、パジャマ姿である。手にはコーヒー牛乳の小瓶を持っている。
「幸谷君、お風呂まだなの?」
悠理が、ほかほかと正孝に訊ねる。
「うん。あ、ねえ、あの……佐藤さん――」
と、正孝はそこで一度、ほんの一瞬だけ言葉を止めて、三人の様子を見た。
やはり三人とも、『佐藤さん』と名前が出てくると、顔に微かな緊張感――それも、嫌なものを耳にしたときの緊張感が浮かぶ。佐藤愛美という女の子が、女子からはあまり良く思われていないのを、正孝もわかっていた。ただ、答えを渋られるほどの嫌われ方をしていないのも、三人の表情から、正孝は読み取った。
「具合悪いとか、何か聞いてる?」
正孝は、続けて三人に質問した。
三人は顔を見合わせ、きょとんと肩をすくめた。
「ちょっと前に見たよ」
蓮子が答えた。
「え、どこで?」
「ちょうど玄関から出て行くところだったけど」
「一人で?」
「一人だったよね?」
蓮子が確認すると、悠理はぼんやり首をかしげたが、静ははっきりと頷いた。
「湯場に行ったんじゃない? ポーチ持ってたから」
正孝は、どういうことだろうかと、眉をひそめた。
バキバキバキバキ――。
突然、地鳴りのようなものすごい雷鳴が轟いた。
正孝も、女子三人も、ひっ、と反射的に肩を窄めた。
ゴロゴロゴロと、雷鳴が野太く尾を引き、ざあっと、雨が降って来た。外は暗くて見えないが、音だけで、それが凄まじい豪雨だとわかる。
「これ、去年もあったよね、豪雨」
蓮子が、天井を見上げながら言った。
「山の天気はね」
静が、冷静に応える。
「怖いね……」
悠理が呟く。
「部屋で飲もっか」
静が二人に提案すると、蓮子と悠理は、そうしようと頷き合った。
「あ、長谷部さん」
正孝は、三人が行ってしまう前に静を呼び止めた。
「ん?」
と、静は立ち止まる。
「佐藤さん、宿を出た後、その道どっちに曲がったか、わかる?」
静は少し考えた後、確信をもって頷きながら応えた。
「左に曲がったと思うわよ」
「左!? ……わかった、ありがとう」
うん、と静は、正孝の反応を不思議に思いながら、三人でロビーを離れた。
正孝は、受付テーブルに横の壁に貼ってある町内地図を確認した。湯場は、番号の振られているものと、振られていないものがある。生徒が行って良いのは、番号の振られた場所だけである。
しかし、番号の振られた五つ湯場は全部、宿の前の道を右に曲がるルートを取る。左に曲がると、その五つの湯場のどこへ行くにも、随分遠回りになるのだ。
それなのに佐藤さんは左に行ったという。
道を間違えたのだろうか?
いや、それはないと正孝は思った。佐藤さんに限ってそんな間抜けなことは、しないだろう。
道を左に曲がるルートから行く湯場は、近場だと四つある。近場、といっても、番号付きの湯場に比べれば遠い。遠いから番号がふられていないのだろう。
その四つの湯場のうちの一つは、今日の午後に、ルートを変更して行った、あの湯場――〈深山の湯〉だ。宿からは片道三十分。
「まさか……」
正孝は、玄関の先、暗い外を見つめた。
佐藤さんは、あの湯場に向かったのではないか――。
ありえなさそうな推理に、正孝の常識は「そんなことあるわけない」と反論する。しかしその「あるわけない」よりも、一刻一刻と雨音の強さが増すごとに、雷の音がするたびに、「もしそうだったら」という可能性が、正孝の中で餅のように膨らんでいくのだった。
そうしてその不安が、ある瞬間正孝を、衝動的に動かした。
正孝は部屋に戻るとバックからコートを引っ張り出してロビーに引き返し、そのまま靴を履いて、宿の貸し出し傘を二本壺のような傘立てから引き抜くと、一本を広げて雨の中に飛び出した。
「あーあ、失敗したなぁ」
と、愛美は湯場の屋根の下、木製の小さなベンチに腰を下ろした。
宿から片道三十分、昼間一度訪れた〈深山の湯〉である。
皆と湯場に行くのを腹痛を理由にして断って少し部屋で待機した後、思い切ってこの湯場にやって来たのだった。いろいろ積もったストレスを発散するには、三十分は良い散歩だった。一歩ごとに蹴飛ばすつもりで歩いたので、道のりは大して長くは感じなかった。
しかし〈深山の湯〉に着き、いざ入ろうと脱衣所に入った時、愛美は巨大なムカデをその壁に発見してしまった。虫だけではない。脱衣所からほとんど筒抜けでつながっている湯船は、洞窟のように薄暗く、奥のほうなどは陰になってよく見えない。
ここで服を脱ぐ、裸になると考えると、愛美もさすがに怖くなって躊躇った。そのまま、どうしようかと、愛美は脱衣場で考えたが、結局、風呂は悔しいけど宿の風呂に入ろうと決めた。
そうして愛美が脱衣場を出て、まさに宿への帰路につこうかというその時――凄まじい雷と共に、大雨が降ってきたのだ。
「あーあ……」
と、愛美は真っ暗く、たまに青白い閃光の走る夜空を見上げながら、呟いた。
こんなことなら、部屋で少し飴でも舐めて、気持ちを落ち着けてから、大人しく宿の風呂に入っていれば良かったな、と後悔する。
雨というよりは、岩場に打ち付ける大波のような雨音だ。
雷があっちでも、こっちでもゴロゴロと、獲物を探す猛獣のような音を鳴らし、樹木を引きちぎるような凄まじい音と光と共に、落雷する。逃げ場のない愛美は、その一撃ごとに、死を覚悟するような心地だった。
それでも愛美は、雷に当たる確率と宝くじに当たる確率が同じ程度という知識があるために、「あたるわけないけどね」と心の中で念じ、信じるようにした。
そんな時間がどれほど続いたか。
愛美の中に、この雨も雷も、今夜中続くのではないだろうかという焦りが広がり始めた頃――。
ガタン、と音がした。




