牧場の風(4)
そんな正孝と岳斗のやり取りを、愛美は意外に思いながら、近くから観察していた。本来なら、岳斗の注意を引くのは自分の役割のはずだった。それなのに、どういうわけか、幸谷君がその役割を買って出ている。
しかしそれはそれで、愛美には面白かった。幸谷正孝という男の子は、恋愛に疎いわけではない、ということが分かった。これだけでも、愛美には大きな収穫である。そしてもう一つこの瞬間に、愛美は分かったことがあった。
――拓は、望のことが好き、なのかもしれない。
小佐田拓という人物を、愛美はそれほど良く知っているわけでもなかった。しかし、嫌なものは嫌だとはっきり言えるタイプには違いない。おちょくられたまま、それを良しとするタイプでもない。もし望の事が好きでもないなら、はっきりと、岳斗に文句の一つ二つ、言うはずである。
ところが拓は、岳斗のそんな態度を無視して、望と馬を撫でている。二人とスティンガーの所だけ、完全に空間が違う。班活動ではなく、完璧にデートの雰囲気。見ている方が恥ずかしくなる。冷やかしの一つくらい言いたくなるのは、愛美も岳斗と同じだった。
望の耳は真っ赤で、その拓を見つめる目からは、「好き」が溢れている。それ、やりすぎでしょ望と、愛美は内心そう思いながら、しかしここは、この二人の空間を健気に守ろうとする正孝に免じて、愛美も今は、その空間に水を差さないことにした。
「佐藤さんも、撫でてみる?」
バロンを少し撫でた後、正孝は、少し後ろで控えている愛美に訊ねながら、自身はバロンから離れた。
「あ、うん……じゃあ」
と、愛美は、正孝のいた場所に歩み出て、バロンの首の横に手を触れた。
思ったよりもすべっとした毛並み、そして筋肉の張りに、愛美の口からも「おぉ」と、感動の声が漏れる。愛美のその驚いた瞬間の表情を見て、正孝も思わず、ほっとしたような笑みが零れる。それから正孝は、そのあとも数瞬だけ、愛美の横顔を見つめていた。
愛美のその瞳に、釘付けになったのだ。
それは、勘の鋭い愛美にも気づかれないような一瞬の間の出来事だったが、正孝は、愛美の目の奥に現れた優しさを見逃さなかった。バロンやスティンガーと同じような、穏やかで、優しい瞳。
正孝はそっとその場からまた少し離れて、持ってきた手提げからメモ帳とペンを取り出した。
おだやかに風が
まきばの草と お馬をなでる
山あいの小さな草原が
彼らにとって楽園かどうかは わからない
この小さな草原の 小さな地平線に
彼らは何を見ているのだろう
おだやかな風になでられて
何を見ているのだろう
満員の客の中で走った 戦いの日々か
レースの後に飛び交う馬券
人間のかんき、落たん
おだやかな風は
お馬の長いまつ毛にふれて
なつかしい友達のこと
おぼろげな 母の面かげ
温かい誰かの手
うるんだ視線の向こうに
思い出しているのだろうか
同じ悲しみを知っているから
風は優しく吹くのだろうか
くすんと、正孝が鼻を啜ったその音に、愛美は顔を上げて振り向いた。
そうして愛美は、正孝がメモ帳を左手に、そしてペンを持った右手の指で、涙を払うような仕草をするのを見た。
――え、幸谷君、泣いてるの?
なんで?
愛美はどぎまぎしながら、他の皆の様子を見た。
望と拓は互いの事しか見えていず、岳斗も、馬を撫でることに気を取られて、正孝には注意を向けていない。
正孝は、愛美に見られたのに気づくと、そそくさとメモ帳を手提げに押し入れ、ペンをジャージパンツのポケットにしまい込んだ。そんな正孝に愛美は何か声をかけようと口を開いたが、何と言って良いかわからず、その間に正孝は、厩務員の女性に、バロンとスティンガーについての質問をし始めた。
それから行動班は、牧場を暫く回ったあと、最後には厩舎前の乗馬場に戻った。牧場学習の目玉、乗馬体験である。厩舎には青鹿毛のマカオと、明るい鹿毛のブレンダという二頭の馬が待機していて、その二頭が今日、皆を乗せる馬なのだった。
二人乗り、なんてことは当然できず、一人ずつ。
最初にはそれぞれ、拓がマカオに、岳斗がブレンダに乗馬した。厩務員に付き添われ、ゆっくりと白いフェンスに囲われた砂の乗馬場を回る。しかしそれだけでは終わらず、厩務員は、拓と岳斗が運動慣れしているとみると、軽速歩もやってみようということになった。
鐙の上に立って尻を浮かせて、また座るという練習を数分繰り返し、それから今度は、一人ずつ、軽速歩で馬を走らせる。最初は拓だった。
歩くだけの常歩も、案外早かったが、軽速歩となると、又随分迫力が違った。望は、落馬しはしないかと拓の心配をし、愛美は、馬の躍動感と拓の男の子らしい真剣さをわくわくした目でみていた。
拓の次は岳斗だった。岳斗の乗るブレンダは「おっとりしている」と厩務員は言っていたが、そのブレンダの軽速歩に、岳斗は随分踊らされた。尻を浮かせるタイミングが馬の着地に合わないと、体がガクンガクンと揺れてしまうが、まさに岳斗は最初、そんな状態だった。
拓と愛美は大笑いをして、望は、大丈夫なのかと心配した。もちろん、落馬するようなことはなく、最後には岳斗も、しっかりスピードを上げたブレンダを乗りこなすことができた。
馬から降りた岳斗は汗だくで、そのことも皆を笑わせた。
その後は望と愛美の番だった。望は恐々で、体も強張っていたが、フェンス越しに拓が「リラックス、リラックス」と声をかけて、それでだんだんと、体のこわばりも取れ、最後には笑顔を見せるようになった。
愛美はというと、常歩までで止めた望と違い、自分も軽速歩を経験してみたいと厩務員に告げて、数分の練習の後、軽速歩にチャレンジした。小さい体が揺れるのを見ると、今度は望ともども正孝も、大丈夫かと心配になった。
そうしていざ本番、ブレンダが速度を上げると、愛美は拓や岳斗がそうしたように、真剣な表情で手綱を握り、腰を持ち上げるタイミングに集中した。その緊張感が、見守る正孝にまで伝わってくる。
愛美の騎乗は、最初は岳斗のように危なっかしかったが、一度着地のリズムを掴むと、そこからは見事にブレンダを乗りこなした。
「あぁ、上手い! センスあるねぇ!」
厩務員も思わず褒める。
そうして愛美は乗馬場を三週回り、ブレンダから降りた。
その時また一瞬、正孝は愛美の、ほっとした素の表情を見た気がした。愛美はにこりと笑顔を取り戻し、ぽんぽんと、ブレンダの首筋を撫でながら叩く。その笑顔の頬に汗が伝う。その汗は、正孝には妙にきらきらとして見えた。
「すごい、楽しいよ幸谷君」
愛美は、汗を散らした笑顔を正孝に向けた。
順番では、最後は正孝の番である。
正孝は、マカオの横にまで歩み出た。
黒い毛の馬で、年齢は八歳だという。
正孝は、じっと、マカオを見つめ、それから少し、首筋に手を触れた。
足場に進もうとしない正孝を、厩務員は、怖さのために躊躇っているものと見て言った。
「しっかり押さえておくから、大丈夫だよ」
正孝はそれに「はい」と応えた。
しかし、その後、「でも、僕は、やめておきます」と厩務員に告げた。
厩務員の女性は、正孝に笑顔を向け、「そっか、わかった」とだけ応え、正孝に乗馬を無理強いしたりはしなかった。
「え、幸谷君、乗らないの? 勿体なくない、折角の機会なのに」
と、望は、きょとんとして訊ねた。
しかし正孝は、「うん」とだけ答えたのみだった。少し不満そうなのは、拓だった。岳斗と違い、拓はあまり、正孝の事を好いていない。みんな乗馬体験をして楽しんでいるのだから、自分だけそれをやらないなんて、場の温度を下げる様な自己主張はやめろよと、内心正孝に毒づいた。そして何より、望に気を遣わせたことに。
そんな拓の心中を知ってか知らずか、岳斗は正孝が馬に乗らなかったことを、「なんだよ怖がりだなぁ」と茶化した。そうすると、体調でも悪いのか等、正孝を気遣わなければならないような空気はすぐに霧散して、学習の時間の後は、班の五人とも遺恨なく、宿舎への帰路につくことができた。
その下り坂を歩きながら、愛美は、後ろを歩く正孝をちらちらと気にしていた。
今日は明らかにいつもより、口数が少ない。
本当に体調が悪いのではないか。
――それに、やっぱりあの時、泣いていたのではないか?
でも、どうして?
拓と望、その少し後ろに愛美と岳斗が横並びに歩き、その四人から一歩、二歩ほど後ろに正孝が伏し目がちに歩いている。愛美は、三人と会話をしながら、やはり、後ろの正孝が気になるのだった。




