牧場の風(2)
「幸谷君、何してるの」
笑いながら、愛美が言った。
しかし正孝からすれば、佐藤さんこそこんな所で何をしているのだと問い返したい気持ちだった。今は皆、男子は男子だけ、女子は女子だけでそれぞれに割り当てられた五、六人部屋に入り、そこで昼食を摂っているはずの時間だ。
驚いている正孝に、愛美は心を見透かすように応えた。
「様子見に来たんだよ。班長に何かあったら大変だからね」
にやっと、悪戯っぽい愛美の笑顔に、正孝はますます混乱した。
佐藤さんは僕の事を心配してくれたのだろうか。それとも言葉の通り、僕が班長としての責務を全うできるか否かの心配をしたのだろうか。あるいはただ、面白がりに来たのだろうか。
「もう大丈夫だよ、湧き水も飲んだし」
正孝が言うと、愛美は石の水受けを満たして流れ続ける湧水に目をやり、正孝に訊ねた。
「どう、美味しい?」
「うん。美味しいよ」
「どれどれ」
愛美はそう言うと、給水口の下に両手をお椀のようにしてそろえ置いた。正孝は、愛美がそうする前の、髪を耳にかける所作にドキリとして、妙に緊張してしまった。
背中を丸めて、上半身だけ屈むように水を飲む愛美は、いつもの制服姿のはずなのに、いつもとは違う。足が細く、色は白く、腕なんてちょっと強く握ったら壊れてしまいそうだ。僕に平気で背中を向けて、なんて無防備なのだろう。後ろから急に抱き着かれたらどうしようとか、考えないのだろうか。
そこまで考えた正孝は、愛美の後姿を見てはいけない様な気がして、道端の雑草に視線を落とした。
水を飲んだ後、口元を拭った愛美は、くるりと正孝に振り向いて言った。
「やっぱり美味しいね。水筒持ってくればよかった、うっかりしたなぁ」
「持って来てないの?」
「ううん。でも、バックの中に入れっぱなし」
「あぁ。じゃ後で、また汲みに来ようよ」
「え!?」
「え? ――あ、いや、別に、一緒にじゃなくてもいいけど、そういう意味じゃなくて……活動まで時間あるから」
「えーなんで、一緒に行こうよ」
正孝は、少し考えたから答えた。
「でも、牧田さんとか、金森さんと一緒に行ったほうがいいんじゃないの?」
愛美は、正孝の意見に驚いた。
確かに、水を汲みに行くのならそのメンバーだと愛美も思っていた。それに緑を加えた四人。あとは同じ部屋の子で、一緒に行きたいという子がいれば連れていく。
移動教室が終わった後、このクラスが、夏果の機嫌一つに左右されてしまうような集団になっていてほしくはない。そのためには、小さなイベントの一つ一つで、夏果の我が儘が許されないような人間関係の網を作って行くしかないのだ。
「幸谷君、結構女子の人間関係見てる?」
「そんな事は無いけど……」
愛美は、じっと正孝を見つめた後、「はあっー」と息を吐いて、ちょこんと近くに敷設されている石椅子の一つに座り、大きく仰け反る様に腕を伸ばした。
「結構疲れるんだよね、女子同士って」
いつもより少しだけ低い、愛美の声。
正孝は、掠れた様に小さく笑った。
「うん、見てるだけで疲れるよ」
「え、ホントに? わかる?」
愛美はそう言って笑った。
「うん、疲れる」
正孝はそう応えると、愛美がそうしたように、ふうっと力を抜いて、愛美の座る近くの椅子に座った。
「幸谷君、私と違って繊細そうだもんね」
「そんなことないけど……でも、正直な話をすると、学校、本当は辞めたいんだ」
「えぇ! どうして?」
「あぁ、今はそんなことないよ。良いこともあるから。でも、教室が苦手って言うか……別に皆が悪いんじゃないんだけど」
「幸谷君、人と話したりするの、嫌い? ……私が話しかけるのも、嫌だったりする?」
「ううん、まさか!」
正孝は、ぶんぶんと首を振った。
「ホント?」
「うん。ちょっと怖いけど」
「え、怖いって、私の事?」
愛美に聞き返されて正孝は、遠慮がちに頷いた。
「なんで!? どういう所が?」
「いや、何か、悪い意味じゃないけど、何ていうか――」
と、正孝はごにょごにょと言い訳のように前置きしてから言った。
「マトリョーシカ、みたいで」
「マトリョーシカ!? 何それ!」
「そういう人形があるんだよ、ロシアの――」
「それは知ってるけど、私、マトリョーシカみたいって、どういうこと?」
「何となく……」
正孝は、風船の空気が抜けるような尻すぼみでそう応え、俯いた。佐藤さんに悪いことを言っただろうか、と思ったのだ。人をマトリョーシカみたい、なんて、失礼じゃないか。『悪い意味じゃないけど』なんて前置きをしながら、これはほとんど悪口みたいなものだ。
しかし正孝は、愛美に対する無礼を思いながらも、愛美の事をマトリョーシカのようだと感じているのは、本当の事だった。〈佐藤愛美〉という人形は、幾重にも重なってできていて、本物が出て来たと思っても、それはすぐに、外皮であると気づかされる。
「幸谷君、私の事苦手でしょ?」
愛美は、正孝の瞳を少し覗き込みながら訊ねた。
「いや、全然、そんなことないよ」
正孝は慌てて否定した。
「ホントに?」
愛美は、正孝に念を押して訊いた。
正孝は、辛うじて、微かに首を縦に振った。油の足りていないブリキ人形のようなたどたどしい頷き方に、愛美は小さく笑った。
「――そろそろ行こっか。幸谷君もお腹空いてるでしょ?」
「あ、うん」
愛美は立ち上がり、正孝もそれに倣った。
移動教室の初日の夜は、キャンプファイヤーの焚火を囲んだバーベキューである。砂利の広場に、二年生約二百人と教員が集まる。キャンプファイヤーの火の神を呼ぶ儀式から始まり、その儀式が終わる頃には、ちょうど太陽が山に隠れて、一帯は急に暗くなる。
そうして夜の七時ともなると、山の夜は本当の真っ暗闇で、その暗闇がいっそう、バーベキューに参加する生徒たちの気分を盛り上げた。普段なら怒られるような大声を出しても、今日だけは誰も、咎めはしない。
流れてくる霧も、たまに見える星の輝きの強さも、そして耳をすませばそこかしこから聞こえてくる水の流れの音も、毎日を教室で過ごす高校生にはすべてが新鮮で、全てが非日常だった。
そして、クラスの垣根のない立食パーティーのような解放感。その解放感から来る勢いのままに、幾人かの男子が囃し立てられて、公開告白なんかをし始める。
その盛り上がりの輪から少し離れたところに、愛美は市川瑞希と一緒にいた。
二人とも、皆と同じジャージ姿。
敷地を区切る木段に隣り合って座り、二人の間に置かれた紙皿には幾本かの串焼きが並んでいる。愛美はすでに、クラスの新しい友人たちとの懇談を一通り終えた後である。それでも少し、まだ胃の容量を開けておいたのは、瑞希と食事を共にするためだった。
「いいの? マナ行って来なくて。今年も一人くらいはマナに告白したい男子いるんじゃない?」
瑞希は、そんなことを愛美に言った。
「絶対嫌」
と、愛美は真顔で応えた。
去年の移動教室、キャンプファイヤーの時に愛美は、まさに公開告白をされたのだ。受け入れても良かったが、愛美は結局、大声で「ごめんなさい!」と返事をしたものだった。




