牧場の風(1)
移動教室当日、二年七組は朝七時の出発に合わせて登校することになっていた。
六時四十分、二年一組から四組までの乗る大型バスが出発すると、五組から七組の出欠確認が始まる。級長である正孝は、七組の点呼役である。
「眠みぃ」
「早えぇよぉ」
と、そんないかにもかったるそうな声にくじけそうになりながら、正孝はバインダーに名簿を挟み、なかなか並ばない生徒たちに声をかけながら、来ているクラスメイトを確認する。
「深谷君いる? 深谷君、深谷――」
「なんだよ、いるよ、うるせぇな」
そんな返事をされながら、正孝はまた一人、名簿の横に『出席』のチェックを入れる。
それから思わず、ため息をつく。
どうして皆、わざわざネガティブな言葉を発するのだろうと、正孝は思った。しかしそれに対する憤りが起こるよりも先に、そんなことをイチイチ気にしている自分がどうかしているのだと、落ち込むのだった。
自分が思ったことを、他人がどう思うかなんて関係なく言ったり、やってりできる。結局そういう生徒が、クラスでは影響力を持つ。他人を巻き込むことができる生徒。自分はこうだ、という価値観を、他人に押し付けることのできる生徒。嫌だ、というより、羨ましい。
と、正孝がそんな事を思っていると、正孝の疲れた背中を、どんと叩く生徒がいた。
「おう!」
背中を叩いたその生徒は、そう言って正孝の肩を乱暴に組んだ。
岳斗だった。
大魔神とあだ名されるだけあって、腕も太い。
「バス、席一緒に座ろうぜ」
岳斗は正孝と肩を組んだまま、そんなことを言った。
正孝は驚いて、「えっ」と固まったが、すぐに、「うん」と頷いた。
岳斗はそれだけ聞いて満足したのか、さっと正孝から離れて、他クラスのサッカー部の友人のもとにふらっと離れていった。正孝は、岳斗の背中を見て小さく笑いながら、名簿に出席の印を追加した。
「幸谷君おはよー」
岳斗に続いて次に、正孝の背中からそう声をかけたのは、愛美だった。
いつものソプラノの声ではなく、少し低いアルトの挨拶。正孝はなんだかほっとして、気の抜けた様な表情で「おはよう」と、愛美に返した。正孝の無防備さに、愛美も思わず笑顔になる。
「出欠確認、手伝おうか? 一人で、大変でしょ」
「あー、うん。でも、大丈夫」
「大丈夫? でも幸谷君、頼ることも大事だよ」
「うん、でも……」
正孝は曖昧に返事をした後、笑いながら応えた。
「出欠の確認は、ちゃんと自分の目でしないと、落ち着けないというか、心配だから」
幸谷君、真面目だねと、愛美はそう言おうとしたが少し考えて止めた。それが、「堅物」という意味の皮肉にとられたら嫌だと思ったのだ。
「そっか」
と、愛美は軽く相槌を打った。
皆は、何となくクラスごとにまとまり始めているが、まだ無秩序な集団である。荷物をバスに運び入れる生徒、おしゃべりをする生徒、一人でぼーっとしている生徒。他クラスの級長は、バスのエンジン音に負けない様、点呼を取る声を張る。
そんな様子を何となく、正孝と愛美は数呼吸の間、一緒に見渡した。
それから愛美は、正孝に訊ねた。
「幸谷君、心配性?」
「うん、そうなんだよね」
正孝は、あははと力なく笑った答えた。
「あぁ、なんか、幸谷君って感じ」
「うん。あんまり……嫌なんだけどね」
「え、そうなの? 心配性なのが?」
「うん。あ――行かないと」
正孝は愛美との会話を切り上げて、遅刻してきた最後の三人の出欠を取り、全員そろったことを担任に伝えに行った。
バスは予定通り、学校を七時に出発した。
向かう先は野釜という、長野県と新潟県の県境にある小さな村である。山の中にある、地図にも載っていないような場所だが、質の良い酸性泉の温泉と、滑るのに良い雪が降るというので、スキー場としては知る人ぞ知る穴場になっている。
武蔵黒目高校からバスで片道四時間半。
正孝は、酔い止めを飲んでバスに乗ったが、出発から一時間と経たないうちに酔ってしまい、高速のパーキングエリアでの休憩の時に一度吐き、その後は一人、前の座席の窓際に座ることになった。
バスが野釜に到着して降りる頃には、吐き気こそマシになったものの、代わりに頭痛が出てきて、正孝の顔はすっかり病人のように青白くなっていた。
バスは県道沿いの砂利の駐車場に止まり、生徒たちはそこで全員が降りた。
そこからは、荷物を持って宿に向かう。
二年一組から三組は宿A、四組と五組は宿B、そして六組と七組は宿Cというように、組ごとに泊まる宿が別れる。大きなホテルはスキーシーズンが終わると休業してしまうため、泊まる宿は民宿である。
七組の泊まる宿C――内野壮は、駐車場から歩いて五分ほどの場所にある。しかしその五分の道は上り坂だ。級長の義務感はあっても、さすがに体調不良には勝てず、正孝はバスを降りた後、駐車場わきのちょっとした日陰に荷物ごと移動し、座って少し休むことにした。後発の五組から七組の生徒の中にもう一人体調不良者の男子生徒がいて、その彼と正孝には、女性の保険教諭が一人付き添った。
保健教諭に、朝はちゃんと食べて来たのか、車酔いは昔からなのか、薬は飲んだのか等、そう言ったことを訊かれ、正孝はほとんど首だけで答えた。
そのうち、宿に向かう生徒の一番遅いグループも見えなくなり、三台の大型バスも駐車場から出て行ってしまうと、駐車場わきの茂みから、ジー、リリリという虫の声がはっきり聞こえて来るようになった。その頃になると正孝は、ちょろちょろ、と水の流れる音がそこかしこから聞こえてくるのに気が付いた。
「もう大丈夫です」
正孝はそう言うと、立ち上がった。
「一人で大丈夫?」
保険教諭は正孝を見上げながら訊ねた。もう一人の体調不良者は、どうやら熱まで出ているらしく、病院に連れていくことになるかもしれないと、先ほど保険教諭が他の教員と電話で連絡を取っていた。
「はい、もう治りました」
正孝はそう言うと、旅行バックを肩にかけ、リュックを背負うと、宿に向かって歩き始めた。
軽自動車がやっと通れるほどの傾斜の道があみだくじのようになっていて、道の脇の用水路には、水が上から下に向かって勢いよく流れている。その用水路の水も覗き込んでみれば、見るからに美しい透明をしている。
宿へ向かう道の途中には、木造の湯場や、樽のような形の石受けがある水飲み場があり、そういうものを発見するたびに正孝は、思わずちょっと寄り道をしてしまうのだった。一年越しに友人に会ったような、そんな懐かしさを覚えながら。
ちょうど正孝が、水飲み場の給水口から水を両手に受けている時、路地からひょっこり、愛美が現れた。駐車場に正孝の様子を見に行こうと、道を下っている所だった。
正孝は、両手に満たした水を、じいっと見つめていた。
特に何を考えていたわけではない。
ただその水の冷たさと、透明さに引き込まれていた。
手の中の水が指の隙間から零れて無くなってしまう前に、正孝はこくりと、両手に顔をうずめるようにして水を飲んだ。
「美味しい?」
と、正孝は突然、真横からそう訊かれて、驚きざまに、ぶはっと手の中の水を、息で吹き飛ばしてしまった。ばしゃっと、水は正孝にかかり、そして、正孝の隣にやってきていた愛美にも少しかかった。
愛美は、正孝の驚き様を見てけらけら笑った。




