-【6-8】-あなたに何も期待しない
チャポンと、水滴が目の前に落ちる。
上を見ると、浴場の天板に水の突起がいくつもあり、
それを見ていると、なぜだが目玉焼きの事を思い出した。
「そう言えば‥目玉焼きだったな‥最後に食べたの」
女神にこの世界に送られた、あの日の事を思い出すと、
祖母に急かされながら食した朝食の事を思い出す。
食卓上での行儀にうるさい祖母の目を盗みつつ
目玉焼きの黄身をレロレロして食べるのが、彼の密かな反逆行為だった。
不意に、浴槽を除くと風呂の湯は、薄っすらと朱色に染まっている。
何日か前に、オーケンが使った入浴剤に色の系統は似ているが、
これが入浴剤では無い事をリュンクは知っている。
これは洗い流し損ね、残留した血液が溶け出したものだ。
「‥‥‥‥」
湯に当てられボヤけた意識に任せ、現実逃避じみた回想をしてみたものの、
濁った湯や、排水溝に集まる赤い線、ねっとりと鼻腔を抜ける鉄分の臭いで、現実と対面する。
「‥‥ッ!!」
意識が意地の悪いサイクルを始めるのを掻き消すように、
強引にバシャバシャと顔を洗う。
「綺麗になった?」
浴室の向こう側から、ポルシィの柔らかい声が聞こえる。
「うん!」
リュンクは、消沈を悟られぬ様に、大きくいい返事を返した。
彼女には情けのない姿を沢山見られてしまったのだ、
これ以上、心配を掛けたくない。
そう思うリュンクの空元気だ。
「そっか。お風呂から出たらご飯にしましょ?
食欲がないかもしれないけど、いっぱい動いただろうから
少しは食べないとね」
「わかった!もう少し洗ったらすぐ出るね!」
リュンクは、そう言い終わった後で、
もう一度バシャバシャと湯をすくい強引に洗顔した。
揺蕩う水面にボヤけた自分の顔が見える。
それに安堵を感じたのは
自分の顔が見たく無かったからだ。
「そう言えば、言い忘れてたけど」
既に居ないと思っていたポルシィの声に
リュンクは体を震わせ戸に視線を合わせる。
「な‥なに?」
「気が滅入っている時に1人でお風呂に入っているとね、
嫌な事ぐるぐる考えちゃうから余り長湯しない様にしようね」
「‥‥うん。ありがとう、ポルシィ」
「ふふ。答えが返ってきて良かった。
黙りされたら無理やり一緒に入ろうとしてたんだから」
そう言いながら、意地悪そうに笑う声が遠ざかり
今度こそ彼女の気配は消えた。
「‥‥‥出よう」
浴室から脱衣所に向かうと、木製の棚に代えの衣類と
日光浴でフカフカになったタオルが用意されている。
タオルを手に取り、顔を埋めると、この家の匂いがして
この洗われる様な感覚は、浴室で汚れを落としただけが理由じゃない気がした。
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リビングへ戻ると、食卓の上には沢山の料理が並べられ、
思わず深呼吸したくなる香りで満ちていた。
しかし、戦地から帰還した2人をで迎える為と思われるこの料理、
大盛り大皿でたらふく‥というわけでは無い。
一口大の品々が小皿で何十類も用意され
どれも丁寧に盛り付けられている。
「すごい料理‥‥ポルシィが作ったの?」
「ふふーん!見直したでしょ?
私の故郷の料理でね、戦いで疲れた家族に振る舞う料理で、
栄養価の高いパメチチアとか、塩気の多い燻製カフラ、
滋養強壮の代名詞オゾフュのスープ‥‥ふふ、パントリーの食材全部なくなっちゃったもんね〜」
疲労に効く料理を小皿で沢山。
なるほど、これならば食欲の無い時でも、口に運びやすい
さすが戦士の妻、よく考えられた料理だ。
しかし、リュンクの心には料理の出来栄えや
効能の説明よりも「家族に振る舞う料理」というフレーズが印象付く。
「美味しそう。食べてもいい?」
「もちろん、いっぱい食べてね。
とは言え‥ちょっと作りすぎちゃった。
毎度の事ながら手を動かしてないとソワソワしちゃって」
ポルシィは「残してもオーケンが食べるから」と付け加えた。
いくら小皿で一口と言えど、この卓上一杯の料理を
1人で食べ切るのは流石に無理だ。
恐らく彼女は、いつもこうやって不安な気持ちを料理に変え
耐え忍ぶ時間を消化しているのだろう。
それに、これがオーケンを想定したものならば頷けるというもの、
あの大男なら、ペロリと平らげ替わりを要求しかねない。
食卓に着いたリュンクは、早速に目前の小皿を手に取る。
透き通る様に湯通しされた葉野菜で、揚げた魚肉を包んだものを
トロミのあるタレにくぐらせているのか、滑らかに艶めいている。
手元に用意された、小さなトングの様な道具で
料理を掴みパクリと丸ごと頬張る。
「んっ!」
想像したよりも、癖のある刺激的な味と香りに、
リュンクは素早い瞬きを繰り返す。
「びっくりした?戦いで疲れるとね、
味覚が鈍るから香辛料で味を鋭くしてあるの」
リュンクの口内で弾けた刺激は、確かに鋭いが、
何かしらの香辛料が効いたこの香りは食欲を強く刺激した。
「とっても美味しいよ!」
「良かった、ゆっくり召し上がれ〜」
そう言うポルシィの嬉しそうな顔を見たリュンクは、
目の前に広がる料理を平らげなければならないと言う使命感を感じ
「胃が弾けるまで食べてやるぞ!」と息巻いた。
次々に、料理を口に放り込み、口に新しい異界の郷土料理に一喜一憂していたが、
咀嚼に勤しみ懸命になる意識を、侮蔑する様に見つめる冷たい感情が拭えない。
どれだけ目の前の事に集中しようとしても、
その感情の前では、全ては対岸の火事の様に距離を感じてしまう。
鬱蒼とした気怠い気持ちが、次第にその手を止めさせた。
そら、やってきた。
正義執行の時間だ。
意識が、内側に向く。
あれやこれや、色々起こりすぎて混乱しているが、
今、リュンクの胸で際立って主張しているのは、3つの事柄だ。
一つめは、知り合いが目の前で命を落とした事実。
小学生のリュンクにとって、死とは身近なものでは無かった。
いつもそれが生活の傍に潜んでいる事は解っていたが、
まだ誰の死も経験に無い彼にとって、
死とは、もっと安らかで救いのある、人生最後の体験として認識されていた。
その感性は至ってまともだ。
平和な日本で健やかに育った多くの子供にとっての死とは、
脚本で練り直し、哀愁のある音楽と激情をフィルターする
カメラワーク等で再現された映像の中の言葉だからだ。
命を尊ぶ美学を道徳の核として機能させた
そういった教育を受けてきたリュンクが接した人の死とは、
どれも有意義で、気高く美しいものだったはず。
だが彼が実際に経験した死とはそれの真逆。
くぐもった断末魔をあげ、汚物を垂れながら命乞いをし
尊厳も栄光も無くして孤独の中で溶ける様に消えてゆく
そこには、冒涜しか無かった。
何よりも、あの数々の死は、リュンクにとっては
死と呼ぶには情報量が足りていない。
尊く有り、道徳の天秤に置いて最も比重の大きい命は、
それくらい唐突に呆気なく消え失せた。
満たし損ねた情報量を埋める機会はもう二度と訪れはしない。
だからこそ理解しなければならないと思った。
死という現象が持つ特性を学び理解しなければ
確かにリュンクは、そう遠くない未来に命を落とすだろう。
ようやくオーケンの言っていた言葉の意味を真剣に考える。
死を与える事と、与えられる事。
それらをひっくるめた現実の受容を「覚悟」と呼ぶのかもしれない。
リュンクは、酷く恐ろしい気持ちになった。
2つ目は、自分の胸から蛆虫の様に湧いて出た恐ろしい感情と衝動。
これに関しては、考えたくない。
どうにか逃避したくて仕方がない。
口汚く相手の存在を否定し、陵辱し
増長しながら身体中を駆け巡っていた積極的かつ貪欲な快感。
背徳と怨嗟の渦巻く坩堝。
あれは一体何だったのか、一切その正体を掴めない、
いや、掴めなくても何かしら正体があるのならまだマシだ。
もしも、あれ自体が自分の正体だったら‥‥
それを抱く者をリュンクはよく知っている。
悪意を仮面の中に秘めた、銀髪の黒騎士。
全身をクリスタルに改造した海賊ギルドのサイボーグボウイ。
機械仕掛けの掠れた呼吸を繰り返す、執念深い黒づくめの卿。
どれも最近まで噛り付いていたテレビに登場した悪役ばかり、
あんな存在と自身を重ねる日が来るなんて思いもしなかった。
リュンクは、自分自身に対して否定的な気持ちになった。
三つ目は、女神が自分の体に備え付けた異常な異能。
身体能力の向上と感情の抑制、ラグ。
時間の流れに干渉し状況を優位に傾ける能力「時間遅延」
どういった用途の能力か、やんわりと解ってきたつもりでいたが
サルホーガとの死闘で、大きく印象が変わった。
生物の概念として如何わしい程、死にづらい体。
性格を捻じ曲げる程の、精神への影響力。
本能で使用した怨嗟と背徳から生じた不気味な球体。
どれも想像を超えた異常な異能だ。
女神はいったいリュンクの体に何を詰め込んだのだろうか、
紋印とはいったい何なのか‥‥
この謎を解くには、フロエの指示した旅を進める必要がある気がした。
願わくば、あの恐ろしい感情の数々は、
この能力の向精神作用が引き起こした心のエラーだと思いたいが、
その境界線が分からない以上、肯定も否定もできなかった。
リュンクは、自分がよく分からなくなった。
再び、あのいけ好かない男の言葉に納得してしまう
自分は、この世界にとって異物でしかない。
この世界に限った話じゃ無い。
この様な異常な力を持ってしまった今、
リュンクは、元の世界にとっても脅威でしか無いだろう。
こんな状態で、あの窮屈な家に帰ってしまえば
ちょっとしたきっかけで、何をするか分かったものじゃ無い。
人の営み、もしくは世界のあり方としては、
自分は存在しない方が正解なのだろうか。
もしかすると、それ自体は能力の有無は関係ないのかもしれない、
はなから、自分を必要とする存在がどこかに居ただろうか?
「ねぇ、リュンク」
ハッと、顔を上げる。
随分と考え込んでしまったのだろう。
ポルシィの心配そうな視線が、さらに正義を優位にさせた。
リュンクは、せめてそれが杞憂だと証明したくて
作り笑いを捏ねて見せる。
酷く歪なその表情は、笑顔とは程遠かった。
目を剥いたままへちゃげたアルミ缶の様にシワを作り
形が定まら無い口で食いしばった様に歯を見せつける。
とても気持ちの悪い顔だった。
「‥‥貴方は、どうして戦う道を選んだの?」
リュンクの気色の悪い表情に触れずにポルシィは話を続ける。
その声色、表情は、まるで彼の心境を察しているかの様だった。
「‥ははっ!僕大丈夫だからさ!心配しないで!!
‥‥でも‥そうだね‥‥なんでかって‥‥それは‥‥」
ポルシィの心配そうな顔を笑顔にしたくて、
スカしたジョークでもかましてやろうと、
彼女の好きそうなとんちの効いた返事を返そうとして
リュンクは、頭が真っ白になるのを感じた。
そういえば、どうして自分はこんな事になっているのだろう。
「それは?」
リュンクは、うまく質問に答えられそうに無い。
自分だってよく分からないのだから。
「仕方がないんだ‥僕じゃどうしようもないんだ
だって‥‥それ以外何をすれば良いのか分からない」
数日前にオーケンに明言して伝えた、決心のある言葉が脳裏に蘇る。
この戦いに身を投じたのは、間違いなく自分の意思だ。
でも、もしこんな思いをすると知っていたのなら
絶対に関わろうとしなかった。
「っ!‥それじゃだめだ!」
思わず声が出てしまう。
もし、やり直す方法があったとしても
リュンクは、分断監視塔の攻略には参加しなければならない。
彼があそこでサルホーガを殺さなければ
オーケンもポルシィも殺されてしまう。
それならばやっぱりどうやったって、あれは必然だった。
「何か‥大事な目的があるの?」
「目的?‥目的はある‥‥あるよ‥‥でも」
目的はある。
その為にこの世界に呼ばれたのだから。
「でも?」
「でも‥‥大事なんかじゃない」
酷い事かもしれないが
リュンクは、この際、格好付けずに認める事にした。
たった一回出会っただけの女神の願いや、
それに仕える巫女の決心だとか、
見た事もない女神の家族達なんか
そんなもの全部どうでも良い。
勝手にどうとでもなれば良い。
はなからそんなものを重要視しているのは、
心に呪いのように染み付いた僅かな使命感だけだ。
解っている。
それを認められなかったのは、目的を手放してしまったら
完全に指標を見失うからだ。
この世界で一番最初に抱いた不安は解決していない。
強い決意や、能動的な意思を持って行動していないリュンクは、
結局のところ異世界で遭難しているのと同じだ。
ガタッ
突然、ポルシィが椅子から立ち上がる。
その瞳は、リュンクを見つめている。
「怒られる」と、リュンクは習慣的にそう思った。
はっきりとしない、まごついた態度で言葉を濁していると
いつも大人はリュンクを叱った。
曖昧な言葉で、場をやり過ごせれば良いと
そう言う良い加減な子供の態度に大人はイラつくのだろう。
でも、そうじゃない。
本当に、分からないんだ。
まだ言葉にもならない、感情の破片を何と言って
説明すれば良いのか分からないだけなんだ。
ポルシィは、無言でリュンクの前に立ち
リュンクの右腕を強く引っ張り。
そして、その肘に口付けをした。
「もしも、貴方が自分の意思とは関係なく
戦いの道を歩んでるのならそんなもの捨ててしまえば良い。
どこの誰がそんな事させたのか全く分からないけど
貴方には関係ない!自分達でやらせれば良いわ!!」
リュンクは目を見開き、驚きを隠せない。
ポルシィのとった行動も意味がわからないが
温厚な彼女がこんな大きな声を出すなんて思っていなかった。
「‥むっ‥無理だよ‥だから僕が‥‥」
「私は、あなたに何の期待もしない」
「‥‥ぇ」
その言葉に胸が締め付けられる。
「居場所なら私達が作ってあげる。
あれをしなくちゃいけない、それが無いといけない
そんなくだらない期待なんか押し付けない。
あなたは、ただそこ居るだけで良い、そう言う居場所。
リュンク‥あなたは知らないの。
だから、よく覚えておいて、人が生きる為には、
大きな夢、大切な家族、優しい心、愛し愛される事‥」
その言葉に正義が疼く。
どれも背徳を犯したリュンクにとって自身を否定する因子だ。
「そんなもの、どれも何一つ必要無いわ」
「え。ひ‥必要‥ない?」
「生きる為に必要なのは居場所だけ。
それだけあれば良いの。
あなたが‥自分自身がそこに居るだけで良い
自分を見失っても、自分が嫌いで死にたくなっても
居場所があれば、それがあなたを癒してくれる」
未来に導く夢も、
守られ守る家族も、
敬い、敬われる心も
そして愛も。
それは、居場所を得た後、
その人の自由意志で築きあげるもの。
「リュンク。ここに居て良いよ。
ここが‥私達の居るここを、
世界で一つ目の貴方の居場所にして」
口内で咀嚼していた葉野菜が口から溢れる。
視界が湾曲し、ポルシィの顔がボヤけて分身した。
そんな言葉、誰にも言われた事はなかった。
ただそこに居るだけで良いなんて言葉、誰もかけてはくれなかった。
リュンクのいた世界でも、子供、大人に関わらず
何かしらの義務を背負わされている。
それをうまくこなせない人間は不適合だと見なされ
簡単に切り捨てられてしまう。
そうならない為にみんな心をすり減らしながら
居場所を奪い合っている。
居場所を得た大人は子供にそれをわけ与え
自分たちが居場所を得たように、
期待という言葉でそれを求めるように強いる。
永遠に続く椅子取りゲームだ。
ポルシィは、座る椅子を無くし
あっちへこっちへ言われるままにフラつくリュンクに
隣に座っても良いよと招いてくれた。
そこに居て生きているだけでいいと、ただその一言で、
これまで生きてきた自分、
これから生きる自分。
その両方に救いをくれた。
きっとリュンクは、この事を一生忘れない、
自分が生まれて初めて会得した本物の居場所の事を。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
ハキホーリとの対話の後で、あれこれと対応に追われていたオーケンが、
ようやく家に着いたのは、随分と陽が落ちた後だった。
上半身を捻り、内腿にピリピリと走る腰痛の名残を
緩和させながらドアの前で思いを馳せる。
「リュンク‥‥お前は何者なんだ‥‥」
ボソボソと呟いてから、
ボリボリと頭をかく。
汚れた体に不快感を感じる。
「あ〜風呂入りてぇ〜」
流石に体の疲労感がエグい。
「うぉ〜い!!帰ったぞ〜!」
オーケンは手早くドアを解錠し大きな声で帰宅を知らせると
粉まみれのリュンクがドタドタと出迎えてくる。
どうやら焼きコンクを拵えていたようだ。
「オーケンおかえり!!ちょっと今コンク焼いてるんだ!!
ポルシィがお風呂沸かしてくれてるよ!!」
「そいつは気がきくじゃないか、早速、サッパリするかな!えぇ?」
そう言いつつ、服を脱ごうとするオーケンを見たリュンクは、
一目散に駆け出し、脱衣所の籠を持って帰ってくる。
「ほら!持ってきてあげたんだから自分で籠に入れてよ!!
僕やだよ!オーケンの汚いパンツ追いかけるの!」
「くふふ‥ははは!!さて?それはどうかな!?」
「ちょっと〜玄関でバカやってないでよ。裸で締め出しちゃうわよ」
「おっと!そいつは勘弁!!」
「リュンク〜そろそろ焼き窯が温まってきたわよ」
「はぁーい!」
一部始終を見ていたオーケンは、肩の荷が降りた気持ちで
団欒に混ざるのだった。
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
ケトアトには、夜が訪れたが
いつもなら姿をくらませる提灯は煌々と輝き
騒ぎ立てる人々の楽しそうな声は、まだまだ収まりそうにない。
そんな様子を窓から見下ろしていたオーケンの頬に、冷えた陶器が当てられ
彼はそれを無言で手に取る。
容器の中を覗くと氷の浮かぶ翡翠色の穀物酒が月光を含み鮮やかに光った。
振り返ると、寝巻きに身を包んだポルシィが見え、その向こうでリュンクが寝息を立てている。
「今日は君も飲むか?」
「ちょっ!ぷふッ!」
「な‥なんだよ」
「いや!ごめんなさいっ‥くっ‥‥
だってね「君」って‥んんっ‥久しぶりに聞いたわっ‥‥ふふっ!」
「良いだろ!今日はそう言う気分なんだよ!」
「ふ〜ん。別に良いけど〜私がお酒好きじゃないの知ってるでしょ?
今日とて飲みません」
と言いながらニヤニヤと笑う嫁を尻目に、オーケンは酒をひとくちやる。
そして少し真剣な顔をした。
「しかし‥よくあの状態のリュンクを宥めたものだ
心から感心するよ」
「う〜ん。なんて言うのかな‥ちょっと反則というか
卑怯というか‥‥そういう手を使っちゃったわ」
ポルシィも、オーケンと同じく真剣な表情をする。
心なしか、その目は潤み、恐れや不安を帯びて見えた。
「また‥‥そういうのも反則じゃないか?」
「え?‥」
「いや‥‥それでどんな手を?」
オーケンの問いに対し、ポルシィはオーケンの右手を引き
その肘に口付けをして見せた。
「‥‥そういう事か」
「貴方が抜け駆けした理由、私もよく分かったわ
リュンク‥あの子は年齢の割に虚ろすぎて‥‥放っておけないよ」
「まぁ‥‥俺も概ね同じだが‥‥少し気になる事がある
それを確認する為に、明日アンガフへリュンクを連れて行こうと思う
どうするにせよ、あいつ自身の事をあいつ自身から聞かなければな」
「‥‥独りぼっちにはしないであげてね
とても心が不安定な筈だから」
「ああ。そうだな、それにあいつが救ったものは全部見せたやりたいんだ」
「うん‥貴方に委ねるわ」
それから2人は、リュンクの無邪気な寝顔を見ては、
騒がしいケトアトの夜を背景に、しばし穏やかな時間を過ごした。




