第9話 坂本龍馬が江戸に着く
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土佐から江戸までは一月弱。長い。だが今回は一人旅ではなかった。龍馬には溝渕広之丞という道連れがいた。
江戸へ修行に向かう土佐人で、話してみれば気さくな男だった。数日も歩けば、二人はすっかり軽口を叩き合う仲になった。
「俺は江戸に学問をしに行くんじゃ。お前は剣術か。いや、女か」
「女はもう学び尽くして免許皆伝じゃき」
「ほう。では江戸の女にも通用するか試さんとのう」
「それも大事な実地検分ぜよ」
二人で笑った。どうやら溝渕にも、龍馬が土佐を離れる前に起こした女絡みの騒ぎは伝わっているらしい。噂とは恐ろしい。本人より先に旅をする。できれば土佐に置いてきたかった。
もっとも龍馬も、江戸ではしばらく女を控えるつもりだった。本当である。父から渡された訓戒書にも、女に現を抜かすなと書かれている。わざわざ書かれる時点で、家族からの信用がどれほどか分かる。
「じゃが江戸いうたら、美人も多いろうのう」
「もう決意が揺らいじゅうやないか」
「見るだけじゃ」
「お前の見るだけは信用ならん」
失礼な。だが反論しづらかった。
旅は宿を取りながら東へ進んだ。雨の日もあれば、足が痛くなる日もある。道中では外国船や海防の話も耳にした。以前、武市半平太から聞かされた異国の話が、少しずつ現実味を帯びてくる。
「ほんまに外国の船が来るがかのう」
「来るいう噂は広まっちゅう」
「来んかったら武市さんの長話は何じゃったがじゃ」
「そこを気にするんか」
異国も気になる。だが今の龍馬には、まだ江戸の方が気になった。
剣術。町。人。そして、まあ、女。最後は考えないことにした。
嘉永六年の春。龍馬と溝渕は、ようやく江戸へ着いた。
龍馬は目を見張った。人が多い。店も多い。侍も町人も絶えず行き交っている。土佐の城下とはまるで違った。
「でかいのう」
「江戸じゃきな」
「土佐が田舎に見えてくるぜよ」
「江戸から見れば田舎じゃろ」
「そこは濁せや」
江戸は将軍のお膝元であり、諸藩の侍や浪人、商人、職人が集まる大都市だった。そして剣術も盛んだった。
中でも名高いのが、江戸三大道場と呼ばれる三つの道場である。千葉周作の北辰一刀流・玄武館。斎藤弥九郎の神道無念流・練兵館。桃井春蔵の鏡新明智流・士学館。各地から腕自慢が集まり、江戸の剣術界を代表する存在として名を轟かせていた。
龍馬も、その名くらいは土佐で聞いていた。剣を学ぶ者にとって、江戸修行は憧れである。強い剣士が山ほどいる。それだけで胸が高鳴った。
龍馬が入門するのは、その三大道場そのものではない。千葉周作の弟、千葉定吉が桶町に構える、いわゆる小千葉道場だった。だが流派は同じ北辰一刀流。千葉一門の剣を学べる名のある道場である。
土佐の日根野弁治の道場では、龍馬も小栗流の目録を得るところまで来ていた。
だが江戸ではどうか。日根野道場で磨いた小栗流の剣がどこまで通用するのか。北辰一刀流とはどんな剣なのか。考えるだけでわくわくした。
少し怖い。だが、それ以上に楽しみだった。
こういう時だけは女のことも忘れる。少なくとも、しばらくは。
龍馬はまず江戸の土佐藩邸へ入った。
長旅を終え、荷をほどく。本当なら江戸見物もしたい。うまい物も食いたい。遊びにも行きたい。
だが翌日には、小千葉道場へ向かうことにした。
本来の目的は剣術修行である。さすがに最初くらいは真面目にしなければならない。
何より龍馬自身が早く道場を見たかった。
「龍馬、明日は道場か」
「おう」
「江戸見物は?」
「後じゃ」
「女は?」
「もっと後じゃ」
「一応、剣術が先ながじゃな」
「当たり前ぜよ!」
そこまで信用がないのか。少し傷つく。とはいえ、自業自得ではある。
その夜、龍馬はなかなか眠れなかった。
江戸にはどれほど強い剣士がいるのか。小千葉道場ではどんな稽古をするのか。
日根野道場で磨いた剣がどこまで通用するのか。乙女に叩き込まれた足腰も、山道を走らされた体力も、すべて試すことができる。
土佐を出るきっかけは情けなかった。
女絡みの騒ぎから逃げるように江戸へ来たのだから、格好はつかない。
だが、来たからにはやる。剣でどこまで行けるか試してみたい。龍馬はそう決めた。
その決意は、少なくとも翌朝までは揺らがなかった。




