第10話 坂本龍馬は女剣士に惨敗する
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江戸へ着いた翌日、龍馬はさっそく小千葉道場の門を叩いた。
土佐を出た理由には少々、いや、かなり情けない事情があったが、ここから先は本気の剣術修行である。
土佐の日根野道場では小栗流の目録を受けた。
小栗流の腕にも、それなりの自信がある。乙女との稽古でも、簡単には負けなくなった。龍馬には、それなりの自信があった。
正直に言えば、それなりどころではない。かなり天狗になっていた。
門をくぐると、人のよさそうな若い男が出迎えた。
身なりは整い、物腰にもどこか品がある。下男には見えないので、内弟子の一人だろうと龍馬は思った。
「土佐から来た坂本龍馬ぜよ。今日から世話になります」
「お待ちしていました。私は千葉重太郎です。父の定吉を助け、この道場で門人たちの稽古を見ています」
龍馬は一瞬固まった。
いきなり道場を指導する側の人間だった。第一声から相手を見誤った。
「こ、これは失礼しました」
「遠慮はいりません。今日から坂本君も同じ道場の仲間ですから」
重太郎は気さくに笑った。龍馬も笑い返した。
正直なところ、あまり強そうには見えない。柔らかな物腰で、乙女のように立っているだけで相手を威圧する感じもない。
北辰一刀流といっても、千葉周作の玄武館とは別の小千葉道場は案外こんなものなのか。そう思った。
数時間後の龍馬が過去の自分を見られたなら、後頭部を殴っていただろう。
日根野道場で目録を受けた程度で、何を天狗になっているのか。
もっとも、その鼻は間もなくきれいにへし折られる。
重太郎に案内されて道場へ入ると、龍馬は思わず足を止めた。
広い。そして人が多い。激しい気合と竹刀の音が道場いっぱいに響いている。
日根野道場とは比べものにならないほど門人がいるように見えた。しかも江戸には各藩から腕に覚えのある者が集まっている。龍馬の腹の底から、ぞくぞくするような高揚感が湧いてきた。
やはり江戸へ来てよかった。女から逃げるためだったことは、この際忘れよう。
「稽古止めい!」
上座から一喝が飛んだ。
竹刀の音が一斉に止まる。門人たちが素早く道場の端へ並び、正座した。龍馬まで反射的に背筋を伸ばした。
声の主は千葉定吉だった。小千葉道場の主。龍馬がこれから師事する人物である。
促されるまま道場の中央へ進み、正座して頭を下げた。
「土佐藩より参りました。このたび入門させていただきます、坂本龍馬と申します」
「坂本君。今日から君も我が道場の一員だ。存分に励むがよい」
龍馬は思わず見入った。落ち着いた声。堂々とした姿。いかにも剣豪という風格である。
格好いい。自分も四十年ほど修行すれば、こんな渋い男になれるだろうか。
その前に女癖を直した方がよさそうだが、本人はまだそこまで考えていなかった。
定吉が龍馬を見つめた。
「では、君の腕を少し見せてもらおう。佐那、相手をしなさい」
「はい!」
龍馬は目を瞬いた。明らかに女の声だった。
道場の端から、一人の少女が立ち上がる。
龍馬は少しむっとした。初日に少女を相手へ出すとはどういうことだ。面で顔は見えないが、その体格や声からして十代であるのは間違いない。
土佐者だからとなめられているのではないか。
防具を着けながら、龍馬は相手を観察した。佐那と呼ばれた少女は華奢に見えた。
少なくとも乙女とはまるで違う。乙女は女という分類に入れてよいのか悩むほど大きく、力も強い。
それに比べれば、目の前の少女は普通の娘にしか見えなかった。
いや、油断はいかん。女だから弱いと思って痛い目に遭うのは、乙女で十分学んでいる。
龍馬は自分へ言い聞かせた。
「準備はできました。お願いします」
「こちらこそ頼むぜよ」
二人が竹刀を構える。審判役の重太郎が間へ入った。
「始め!」
龍馬はまず軽く面を狙った。佐那の竹刀がすっと動き、簡単に弾かれる。
予想の範囲内だった。見たところ、力任せに戦う剣士には思えない。
ならば押し切れる。
龍馬は踏み込んだ。竹刀を強く振り下ろす。佐那が合わせてくる。
だが龍馬は力を緩めなかった。小細工ごと押し潰す。そう考えた。
ところが、竹刀が床を叩いた。佐那がいない。
いつ動いた。見えなかった。
龍馬が混乱した瞬間、佐那がするりと間合いへ入ってくる。龍馬は反射的に体当たりした。
体格差なら圧倒的にこちらが上だ。まともに当たれば弾き飛ばせる。
次の瞬間、龍馬は床に転がっていた。
何が起きた?
突進する力を横へ流され、そのまま足を払われたらしい。柔術だった。
北辰一刀流では剣だけでなく、組み打ちの技も学ぶ。だが龍馬は、いきなりそれを食らうとは思っていなかった。
剣術なのに柔術まで飛んでくる。聞いていない。いや、聞いていたとしても避けられた気はしない。
佐那の竹刀が迫る。龍馬は格好も何もなく床を転がって逃げ、間合いから外れた。どうにか立ち上がる。
今度こそ油断しない。女だからどうこうという考えは完全に消えた。
目の前にいるのは、ただ強い剣士である。
龍馬は構え直した。大振りはしない。相手をよく見る。小さく鋭い一撃を入れる。そう決めた。
その瞬間、小手に衝撃が走った。
速い。そして、重い。
細腕からは信じられない重い一撃だった。
もちろん、乙女ほどの力はない。那須慎吾のような大人の男と比べると一段落ちる。だが、見た目とのギャップによる衝撃で体が固まる。
気づいた時には面にも一撃。
龍馬は反撃した。竹刀が空を切る。
次の瞬間にはまた面。
一撃。二撃。三撃。
まったく間合いが読めない。
佐那は力で受けない。龍馬が踏み込めば外し、追えば離れ、わずかな隙だけを正確に打ってくる。
まるでこちらの動きが先に分かっているようだった。
龍馬は歯を食いしばった。悔しい。だが、それ以上に面白い。土佐では見たことのない剣だった。
さらに踏み込む。かわされる。面を打たれる。
駄目だ。何をしても一枚上を行かれる。
「参りました」
龍馬は肩で息をしながら降参した。
「それまで!」
重太郎の声が響いた。完敗だった。
言い訳の余地すらない。むしろ清々しい。
ここまで一方的に負ければ、妙な意地を張る気にもならなかった。
龍馬は道場の隅へ移り、面を外した。稽古は再開され、再び竹刀の音が響き始める。
だが龍馬の頭の中には、さきほどの立ち合いしかなかった。
速かった。間合いが読めなかった。体さばきも見事だった。
力を正面から受けず、こちらの勢いまで利用する。
あれが北辰一刀流なのか。それとも、あの娘が特別なのか。
凄い。あの技を覚えたい。あんな剣を自分のものにしたい。
龍馬は道場の反対側を見た。佐那もちょうど面を外すところだった。
現れたのは、凛とした目をした、思いのほか可愛らしい娘だった。
年の頃は十五、六。龍馬より少し年下だろうか。
凄い。可愛い。あんな娘を自分のものにしたい。
土佐を女絡みで逃げてきたことなど、この瞬間の龍馬の頭からきれいに消えていた。




