第8話 坂本龍馬は女でしくじる
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この時代、男女が堂々と連れ立って町を歩くことはほとんどなかった。夫婦でさえ人前では距離を取ることがあり、男女が逢うのも互いの家や人目につかない場所が中心である。
だから龍馬は油断していた。
自分が親しくしている女同士が、城下の往来や茶屋で偶然顔を合わせるなど、そうそうあるまい。そんな都合のいい考えを、龍馬は疑いもしなかった。
世の中には、思ってはいけないことがある。
その日、龍馬は望月兄弟の弟、望月亀弥太と城下の茶屋で休んでいた。
「羨ましいのう。坂本さん、どうしてそんなにもてるがぜよ」
「自然体が一番ぜよ。無理に格好つけようとすると、すぐボロが出るき」
嘘である。
龍馬は普段から、どうすれば女に気に入られるかをかなり真剣に研究していた。
姉の多い家で育った経験もある。相手の話を聞く。褒めすぎない。時々笑わせる。押すところと引くところを間違えない。
下手をすると剣術と同じくらい熱心だったかもしれない。そこは人としてどうなのか。
「どうぞ、ごゆっくり」
茶屋の娘が茶を置き、その瞬間だけ龍馬へちらりと目配せした。龍馬も何食わぬ顔で笑い返す。
もちろん馴染みである。しかも客としてだけではない。男女の仲としても、かなり馴染みだった。
それを見た亀弥太が、にやにやしながら顔を寄せてくる。
「そういえば、ここの娘も……」
「亀弥太」
龍馬は低い声で名を呼んだ。その先を言うな、友人なら察しろ、という意味を精いっぱい込めたつもりだった。
ところが亀弥太は察しなかった。
「坂本さんも隅に置けんのう。ここの娘を狙いゆう男は多かったのに、もう落としたがじゃろ?」
「おまん、ちょっと黙れ」
声が大きい。かなり大きい。
龍馬の背中を冷たい汗が流れた。
「まっこと手が早いのう。女殺しの坂本さんじゃ」
「亀弥太、あとで覚えちょけよ」
その時だった。
背後に別の客が座る気配がして、龍馬は何気なく振り返った。そして固まった。
見知った女である。
夫を亡くした武家の後家で、龍馬とは深い仲にあった。
非常にまずい。ものすごくまずい。
しかも最悪なことに、どうやら今の亀弥太の話を聞かれていたらしい。
女は何も言わず、ただ龍馬を見ている。
笑っていない。完全に笑っていない。
そこへ事情など何も知らない茶屋の娘が注文を取りに来た。
「お茶でよろしゅうございますか?」
娘が茶を置こうとした瞬間、後家がその手をつかんだ。
「え……お客様?」
「……」
「あの、何か粗相でも?」
娘には何が起きているのか分からない。
当然である。後家も娘を知らないし、娘も後家を知らない。
事情を知っているのは龍馬だけだった。
額から汗が噴き出す。何とかしなければならない。
だが何を言えばいい。むしろ自分だけ黙っていれば、この二人には互いの正体など分からないのではないか。
「と、とにかく落ち着くぜよ!」
龍馬は勢いよく立ち上がった。
後家が龍馬を見る。茶屋の娘も龍馬を見る。そして二人は互いの顔を見た。
その瞬間、龍馬は気づいた。
後家は娘を知らない。娘も後家を知らない。それなのに、自分だけが二人の間へ割って入ってしまった。
茶屋の娘の表情が変わる。困惑し、龍馬を見て、後家を見て、もう一度龍馬を見る。
そして理解した。
「あれ」
今の一言で全部ばれたのではないか。
自分で火薬庫へ火を投げ込んだらしい。
「坂本さん」
後家が静かに呼んだ。
「はい」
なぜ敬語になったのか、龍馬にも分からない。
次の瞬間、茶碗の茶が顔面へ飛んできた。
「熱っ!」
思ったより本気で熱い。
そこへ事情を理解した茶屋の娘が御盆をつかんだ。
「この浮気者!」
ごん、ごん、ごん、と御盆が龍馬の頭へ落ちる。
「痛っ! 待て! そこ角! 角はやめるぜよ!」
「何人おるが!」
「落ち着いて数えよう!」
「数えるほどおるがか!」
失言だった。完全なる失言だった。
亀弥太は笑いをこらえながら、いつの間にか少しずつ入口へ近づいている。どうやら逃げる気らしい。
「亀弥太! 助けろ!」
「いやあ、男女の話に口を挟むんは野暮じゃき」
「原因の半分はおまんじゃ!」
結局、騒ぎは周囲の客まで巻き込み、龍馬は茶まみれになり、頭には御盆の跡まで残った。
なお、亀弥太は途中で逃げた。
絶対に許さない。龍馬はそう心に決めた。
なんとかその場は収まったものの、人の口に戸は立てられない。
噂は城下を走った。しかも悪い噂ほど足が速い。茶屋の娘、武家の後家、坂本龍馬、御盆。なぜか必要以上に細部まで広まっている。
当然、龍馬がほかに親しくしていた女たちの耳にも入った。
一人から呼び出され、二人目から文が届き、三人目には門前で睨まれた。四人目からは二度と顔を見せるなと言われた。
危険である。完全な四面楚歌である。異国より先に女に包囲された。
龍馬は真剣に考えた末、一つの結論へ達した。
土佐から逃げよう。
男らしい解決とは言い難い。だが命は大切である。
龍馬は日根野道場の師、日根野弁治のもとへ駆け込んだ。土間へ座るなり、勢いよく頭を下げる。
「先生! 私に目録を下さい!」
日根野は目を丸くした。弟子の側から目録を要求するなど、普通ではない。
「龍馬。おまん、いきなり何を言いゆう」
「私はすでに道場でも一、二を争う腕前になりました。目録をいただく資格はあると思います!」
「まあ……近いうちにとは考えちょったが」
日根野は龍馬をじっと見たあと、何かを察したように目を細めた。
「で、本当の理由は?」
「江戸へ剣術修行に出たいがです」
「ほう」
「目録をいただき、先生の推薦があれば江戸遊学の話も進めやすいですき」
「……ああ」
日根野が妙に納得した顔になった。
「土佐から逃げる気か」
「な、何のことでしょう」
「茶屋の話なら聞いちゅう」
「もう先生まで!」
噂が速すぎる。
龍馬が頭を抱えると、日根野は深いため息をついた。
「剣ではよう成長した」
「はい」
「足も使えるようになった」
「はい」
「間合いも悪うない」
「ありがとうございます」
「じゃが、女相手の間合いは全然分かっちょらんようじゃのう」
「返す言葉もありません」
日根野は呆れた顔をしたあと、なぜか少し遠い目になった。
「女いうもんはのう……厄介ながじゃ」
「先生?」
「いや、何でもない」
何かあった。
絶対に何かあった。
だが今は聞かない方がよさそうである。
「しかし、女から逃げるために目録をやるいうのも……」
「先生、お願いします!」
龍馬は土間へ額を擦りつけた。必死だった。声まで少し涙声になっている。
「しばらく土佐にはおれんがです!」
「情けない理由で泣くな!」
「このままでは刺されるかもしれんがです!」
「自業自得じゃ!」
日根野の雷が落ちた。
もっともである。何一つ反論できない。
しばらく説教された末、日根野は大きく息を吐いた。
「まあ、目録を与えること自体は以前から考えちょった。江戸で腕を磨くんも悪うない」
「ほんなら!」
「ただし龍馬」
「はい」
「江戸では剣を磨け」
「はい!」
「女を増やすな」
「……はい」
「今、間があったぞ」
「気のせいです!」
日根野は完全に呆れていた。それでも、もともと目録を授ける時期が近かったこともあり、正式に認めてくれた。
数日後、龍馬は正式に目録を受け、江戸の千葉定吉の道場への紹介も得た。
藩へ江戸への私費遊学を願い出ると許可も下り、あとは旅支度をするだけとなった。
茶屋の騒ぎから一月も経たないうちに、龍馬は土佐を離れることになった。幸い刺されることはなかったが、親しくしていた女たちからは見事に絶縁された。
全滅である。
表向きは剣術修行のための江戸遊学であり、家族も知人も祝ってくれた。ただし事情を知っている者だけは、何とも言えない顔をしている。
龍馬は、ちょうど江戸へ向かう予定だった溝淵広之丞と共に旅立つことになった。
出発前、父の坂本八平が一通の訓戒書を渡してきた。
「龍馬。江戸ではしかと精進せよ」
「分かっちゅうぜよ」
龍馬は神妙な顔で受け取った。
そこには剣術修行についての心得が並んでいる。そして最後の方に、妙に目につく一文があった。
女に現を抜かさぬよう、剣の道に励むこと。
龍馬は黙った。
父にも全部ばれていた。
まあいい。当分の間、女はこりごりである。本当にこりごりだった。




