第7話 坂本龍馬は時勢を知る
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嘉永五年。十八歳になった龍馬は、かなり調子に乗っていた。
剣は強くなった。乙女の地獄のシゴキも、とうとうほとんどなくなった。花街での遊びにも慣れ、そして何より、自分はどうやら女にもてるらしい。
人生絶好調。そう思っていた。
今振り返れば、この頃の自分を一度くらい殴っておいた方がよかったかもしれない。いや、二、三発でも足りない。
この頃の龍馬は、女遊びにも妙な自信を持ち始めていた。
城下の武家の未亡人、商家の娘、農家の娘、知人の家で働く女。
気づけば何人もの女と同時に親しくなっていた。本人としては器用に立ち回っているつもりである。
実際には、いつ爆発するか分からない火薬樽を五つほど抱えて走り回っているようなものだった。
だが、若い龍馬にはそこまでの想像力がない。
俺はもてる。かなりもてる。なら問題ない。そういう理屈である。実に馬鹿だった。
剣術の方も絶好調だった。日根野道場では上位を争うほどになり、かつて何度挑んでも勝てなかった乙女との立ち合いでも、まともに攻撃を受けることがなくなった。
とうとう坂本のお仁王様を越えた。少なくとも龍馬は、そう思っていた。
その頃、龍馬は山で一人、剣を振っている少年と知り合った。
名を岡田以蔵という。道場へ通う金がなく、一人で木刀を振っていた。
目つきが鋭く、愛想もない。正直、最初は少し怖かった。だが当時の龍馬は天狗になっていた。年下を前にして、少しくらい先生面もしたかった。
「おんし、そこはもっと踏み込んだ方がええぜよ」
「……あんた、剣が分かるがか?」
「分かるも何も、日根野道場で鍛えちゅう」
それから龍馬は、以蔵へ構えや足運びを教えるようになった。金がないと聞けば飯を食わせ、小遣いまで渡した。最初は警戒していた以蔵も、いつしか龍馬を龍馬さんと呼び、山へ行けば先に待っているようになった。
教えてみると、以蔵は思いのほか筋が良かった。技はまだ荒いが踏み込みが速く、相手へ飛び込む時に迷いがない。
「見たことはないが、薩摩には示現流いう、初太刀を恐ろしく重んじる剣があるらしい。以蔵の剣は、ちっとそれに似ちゅうかもしれんのう」
「ほんまですか、龍馬さん」
「おう。最初の一太刀で相手を呑むような剣じゃ」
その日から以蔵は、龍馬が城下へ行けば何となく後ろをついてくるようになった。剣を教え、飯を食わせ、気づけばいつも近くにいる。
弟がいたら、こんな感じなのかもしれない。
「以蔵、おまん最近わしについて来すぎやないか?」
「剣を教えてくれるし、飯も食わせてくれるき」
「そっちが本命か!」
以蔵が少し笑った。
まあ、いい。弟分というのは、こうして出来るものなのだろう。
剣は強い。女にはもてる。年下からは慕われる。これでもう完璧ではないかと、龍馬は本気で思い始めていた。まさに天狗である。鼻が伸びすぎて、城下の門に引っかかりそうだった。
そんな龍馬の鼻をへし折る役目を引き受けたのが、武市半平太だった。
その日、龍馬が武市の家を訪ねると、武市は書物を前に難しい顔をしていた。
最近、この顔を見ることが増えた。嫌な予感しかしない。武市が難しい顔をしている時は、話も難しい。そして大抵、長い。
「武市さん、また難しそうな本を読みゆうのう」
「龍馬。おまん、最近ずいぶん浮かれちゅうらしいの」
「誰がそんなことを」
「城下でよう聞くぞ」
「……世間は暇ながじゃのう」
龍馬はそっと視線をそらした。まさか花街のことまで知られているのだろうか。
武市に説教されるだけならまだいい。乙女の耳へ入るのだけはまずい。非常にまずい。
「剣が強うなるのはええ。遊ぶなとも言わん。じゃが、少しは世の中のことも見い」
「世の中?」
「異国じゃ」
出た。急に話が大きくなった。
「近頃、外国の船が日本の近海へよう来るようになっちゅう。幕府も海防をどうするか頭を悩ませゆうがじゃ」
「来たら追い返したらええがやないか」
「そう簡単なら誰も困らん」
「ほんなら大砲を撃つ」
「相手の大砲の方が強かったらどうする」
「……逃げる」
「国ごと逃げられるか!」
もっともだった。龍馬は黙った。剣なら強い相手から逃げればいい。乙女からだって何度逃げたことか。だが日本列島は走れない。実に不便である。
武市によれば、幕府は老中の阿部正弘を中心に海防を考え、外国船への備えを進めているらしい。しかもオランダから、近くアメリカの使節が日本へ来るという知らせまで届いているという。
「アメリカいう国は、そんなに強いがか?」
「船も大砲も、日本とは比べものにならんいう話じゃ」
「刀で斬り込んだらどうじゃ」
「海の上をどうやって斬り込む」
「泳ぐ」
「おまん一人泳いでどうする!」
龍馬は少し得意になりかけて、やめた。泳ぎには自信がある。だが、その自信は乙女に縄をつけられて川へ放り込まれた結果である。あまり人に誇れる習得法ではない。
「土佐も他人事やないぞ」
「殿様も気にしちゅうがか?」
「当然じゃ。土佐は海に面しちゅうきの」
藩主の山内豊信も、海の向こうの動きを気にしているらしい。
龍馬も中浜万次郎の噂なら知っていた。土佐の漁師が漂流し、はるかアメリカまで渡り、帰ってきた男である。
とんでもない人生だ。自分なら漂流した時点で泣く。間違いなく泣く。そして悔しいことに、乙女姉ちゃんと叫ぶ気がする。
「武市さんは難しいことを考えすぎぜよ」
「誰かが考えにゃいかんろう」
「殿様と幕府に任せちょけばええ」
「その幕府が困っちゅういう話を、今までしよったがじゃ!」
そうだった。話が最初へ戻った。
異国、軍艦、大砲、幕府、海防。龍馬にはどれも遠い話だった。今は剣を振る方が楽しい。花街へ行く方がもっと楽しい。国のことなど、偉い人間が考えればいいと思っている。
「龍馬」
「何じゃ」
「剣が強いだけでは、これからの世は渡れんかもしれんぞ」
武市の声は真剣だった。龍馬はいつものように茶化そうとして、少しだけやめた。武市が本気で心配していることくらいは分かる。
「まあ、外国船が土佐まで来たら、その時考えるぜよ」
「来てからでは遅いがじゃ」
「その時は武市さんに任せる」
「おまんも働け!」
結局そこへ行くのか。龍馬はため息をついた。
この時の龍馬には、まだ異国より身近な問題の方が大きかった。だが武市の口にした異国という二文字だけは、妙に耳へ残った。
翌年、その異国の船は本当に日本へやって来る。
もっとも、その前に龍馬は別の問題で痛い目を見ることになる。異国でも、大砲でもない。
女である。




