第47話 久坂玄瑞は坂本龍馬に会う
安政六年十月、吉田松陰が江戸で処刑された。
その報せを受けた久坂玄瑞は、しばらく何も考えられなかった。
松陰は師であり、同志であり、時にはあまりにも先を走りすぎる危うい男でもあった。それでも久坂にとって、世の中を疑い、自分の頭で考え、命を懸けてでも行動せよと教えた人物だった。
江戸にいた同志たちは、罪人として扱われた松陰の亡骸を引き取り、葬った。
久坂自身は長州にいたが、その様子を聞くたび胸が締めつけられた。
師は死んだ。
だが、志まで死なせるわけにはいかない。
長州では松下村塾の門下生たちが、それぞれの場所で動き始めていた。高杉晋作、吉田稔麿、入江九一ら、若い同志たちもいる。江戸では桂小五郎が諸藩の志士と交わり、藩内でも尊王攘夷を唱える声は次第に大きくなっていた。
久坂もその中心に身を置くようになっていた。
翌安政七年三月には、さらに大きな事件が起こった。
大老井伊直弼が桜田門外で水戸浪士らに討たれたのである。
幕府の頂点に近い人間でさえ、江戸城のすぐ近くで斬られる。
その事実は久坂に衝撃を与えた。
幕府は絶対ではない。
世の中は、もう動き始めちょる。
だが、久坂は暗殺だけで国が変わるとも思っていなかった。
必要なのは、朝廷を動かし、諸藩を結び、幕府へ圧力をかける力だ。そのためには長州一藩だけで騒いでも足りない。
久坂は江戸へ出るたび、他藩の志士と積極的に交わった。
その中で親しくなった一人が、土佐の武市半平太だった。
武市は土佐の下士をまとめ、藩そのものを尊王攘夷へ動かそうとしている。久坂から見ても、恐ろしく粘り強い男だった。
しかし、長州にも問題があった。
藩内では長井雅楽の唱える航海遠略策が勢いを増していたのである。
いったん外国との交易を認め、国力を蓄え、その後に海外へ雄飛する。現実的と言えば現実的な考えだった。
藩主や重臣の中にも支持する者が多い。
久坂には、それが危うく見えた。
今ここで幕府の開国政策を認めれば、そのまま外国に押し切られるのではないか。
清国が西洋列強に食い荒らされている現実を、ただ遠い国の話として見ることはできなかった。
長州は尊王攘夷の藩になるのか。
それとも幕府と歩調を合わせるのか。
久坂自身にも、まだ答えは見えていなかった。
文久二年の正月を少し過ぎた頃、土佐から一人の男が長州へやって来た。
坂本龍馬。
武市半平太の親書を携えているという。
久坂はその名を以前から知っていた。
武市からは、土佐で最も自分を理解してくれる男の一人だと聞いている。桂小五郎からも、剣が立ち、人を惹きつける妙な男だと聞かされていた。
どんな志士が来るのかと思っていたが、実際に現れた龍馬は予想よりずっと肩の力が抜けていた。
大柄で、どこかのんびりしている。
少なくとも、久坂が想像していた熱烈な攘夷志士には見えない。
「遠いところをよう長州まで来られました。まあ、ゆっくりしていって下さい」
久坂が迎えると、龍馬は人懐こく笑った。
「ありがとうございますぜよ」
久坂には一つ気になっていたことがあった。
「もっと早く来られると聞いていましたが」
「イロイロト問題がアリマシテ」
なぜ急に片言なのだろう。
しかも目を逸らした。
何かある。
だが武市の使者を初対面で問い詰めるのも妙なので、久坂は流すことにした。
「坂本さんの話は武市さんから聞いてます。土佐では武市さんの一番の理解者であるとか」
「それは言い過ぎぜよ」
「桂さんも、面白い男と言っていました」
「桂が?」
龍馬が少し嫌そうな顔をした。
「わしなんぞ大したことないぜよ。土佐は武市に任せちゅう。それより尊王攘夷いうたら、今は長州じゃろう」
その言葉に、久坂は素直に喜べなかった。
「そう言ってもらうのは嬉しいですが、今の長州はそんな単純じゃないんです」
「長井雅楽か?」
「さすがですね」
「武市から聞いちゅう」
久坂は頷いた。
「長井さんの航海遠略策は、藩でもかなり力を持ちはじめています。このままでは、長州まで幕府に合わせることになりかねません」
「けんど、もう開国はしちゅう。今さら昔みたいな鎖国へ戻すんは難しいがやないか?」
久坂の表情が険しくなった。
「今のまま外国の言いなりで開国を続けたら、日本は西洋に呑まれます! 清国がどれほど深刻な目に遭っているのか、坂本さんも知っていますでしょう。攘夷の火を消してはいけないのでです!」
龍馬の口元が少し緩んだ。
久坂は眉を寄せた。
「何がおかしいんです?」
「いやいや、おまんの情熱に感心しただけぜよ」
何となく怪しい。
久坂は少し睨んだが、龍馬は平然としている。
「土佐も藩は幕府寄りじゃ。武市も苦労しゆう」
「長州も同じです。長井さんの策がこのまま通るなら、僕は脱藩してでも志を貫くつもりです」
龍馬の目が変わった。
久坂にはそれがはっきり分かった。
「脱藩するがか」
「必要なら。幕府だの藩だのの許しを待っていいる間に、日本が手遅れになったら意味がありません」
龍馬は黙り込んだ。
先ほどまでの軽い雰囲気が消えている。
その横顔を見ながら、久坂は少し意外に思った。
桂から面白い男と聞いていたせいで、もっと軽薄な人物を想像していた。
だが違う。
この男は、自分なりにかなり深く考えている。
「武市は土佐藩を動かそうとしゆう」
龍馬がぽつりと言った。
「なら、わしにはわしの役目があるかもしれんのう」
久坂はその言葉を黙って聞いた。
何かが龍馬の中で動いた気がした。
数日後、久坂は武市への返書を龍馬に託した。
「武市さんに伝えて下さい。長州もまだ終わってないと」
「分かったぜよ」
「長井さんの策がこのまま藩論になるか、それとも尊王攘夷へ戻せるか。これからが勝負です」
「おまんも大変じゃのう」
「坂本さんも他人事じゃないでしょう」
龍馬は笑った。
「違いないぜよ。また会おう、久坂さん」
「ええ。次に会う時は、互いにもう少し世の中を動かせちょるとええですね」
龍馬は大きく手を振り、長州を後にした。
その背中を見送りながら、久坂は思った。
桂が面白い男と言った意味が、少しだけ分かった気がする。
思想は自分ほど一直線ではない。攘夷についても妙に現実的だ。
だが、一度何かを腹に決めれば、藩の境など簡単に飛び越えていきそうな危うさがある。
そして何より、脱藩という言葉を聞いた時の龍馬の目が忘れられなかった。
あの男は近いうちに、何かをする。
そんな予感が久坂の胸に残った。




