第48話 坂本龍馬は久坂玄瑞に会う
「長州藩の久坂に、これを届けてもらいたい」
武市半平太が差し出した親書を受け取ったことで、龍馬の剣術遊学が決まった。
表向きの目的は剣術修行である。土佐藩に長州まで行って尊王攘夷の志士と会ってきます、などと正直に言えるわけがない。
そこで文久元年十月、龍馬は讃岐丸亀藩の矢野道場で修行するという名目で土佐を出た。
もちろん、丸亀は途中である。
適当に剣術を教え、逆に学び、時機を見て丸亀を離れ、長州へ向かう。
完璧な計画だった。
「坂本どの、今夜は花街へ繰り出しませんか」
道場の者に誘われた龍馬は、少し考えた。
少しだけである。
「それは断れんのう」
長州は逃げない。
だが今夜の酒と女は今夜しかない。
土佐では何かと顔が知られすぎて遊びにくかったが、丸亀では違う。ここでは誰も坂本龍馬の昔の悪評を知らない。
実に素晴らしい土地だった。
そして一か月が過ぎた。
気がつけば、藩から許された剣術修行の期限が切れようとしていた。
長州どころか四国からも出ていない。
まずい。
非常にまずい。
龍馬は慌てて修行延長の許可を取りつけ、ようやく丸亀を出た。
土佐で禁欲しすぎた反動だったのかもしれない。
やはり人間、何事も溜め込みすぎるのはよくない。
そう自分に言い聞かせた。
反省しているかどうかは、かなり怪しかった。
文久二年の正月を少し過ぎた頃、龍馬はようやく長州へ入った。
長州といえば、今や尊王攘夷を語るうえで外せない藩である。
以前なら水戸の名が真っ先に挙がったが、近頃は内部の争いが激しく、勢いを失いつつある。その一方で長州では吉田松陰の門下生を中心に若い志士が育ち、京都や江戸でも動き始めていた。
「遠いところをよう長州まで来られました。まあ、ゆっくりしていって下さい」
迎えに現れた久坂玄瑞を見て、龍馬は少し拍子抜けした。
もっと眼光鋭い策士を想像していたのだが、実際には年若く、どちらかといえば学者に見える。
この男が武市と江戸で通じ、土佐勤王党の結成にも力を貸したという。
「もっと早く来られると聞いていましたが」
「イロイロト問題がアリマシテ」
主に下半身方面で。
そんな説明はできないので、龍馬は曖昧に笑った。
「坂本さんの話は武市さんから聞いてます。土佐では武市さんの一番の理解者であるとか」
「それは言い過ぎぜよ」
「桂さんも、面白い男と言っていました」
「桂が?」
龍馬は少し顔をしかめた。
面白い男という言葉は、褒めるところに困った相手へ使う場合もある。
桂め。
次に会ったら問い詰めてやる。
「わしなんぞ大したことないぜよ。土佐は武市に任せちゅう。それより尊王攘夷いうたら長州じゃろう」
ところが久坂の顔は曇った。
「そう言ってもらうのは嬉しいですが、今の長州はそんな単純じゃないんです」
「長井雅楽か?」
「さすがですね」
「武市から聞いちゅう」
「長井さんの航海遠略策は、藩でもかなり力を持ちはじめています。このままでは、長州まで幕府に合わせることになりかねません」
「けんど、もう開国はしちゅう。今さら昔みたいな鎖国へ戻すんは難しいがやないか?」
久坂の目つきが変わった。
「今のまま外国の言いなりで開国を続けたら、日本は西洋に呑まれます! 清国がどれほど深刻な目に遭っているのか、坂本さんも知っていますでしょう。攘夷の火を消してはいけないのでです!」
清国が深刻。
一瞬、龍馬の口元が緩んだ。
「何がおかしいんです!」
「いやいや、おまんの情熱に感心しただけぜよ」
危ない。
駄洒落かと思ったなどと言えば、本気で怒られそうだ。
深謀遠慮の策士という第一印象も少し修正した。
この男、かなり熱い。
「土佐も藩は幕府寄りじゃ。武市も苦労しゆう」
「長州も同じです。長井さんの策がこのまま通るなら、僕は脱藩してでも志を貫くつもりです」
龍馬は思わず久坂を見た。
「脱藩するがか」
「必要なら。幕府だの藩だのの許しを待っていいる間に、日本が手遅れになったら意味がありません」
その言葉が妙に胸へ残った。
この数か月、龍馬は土佐の外を歩いた。
たかが四国を出て長州へ来ただけでも、見えるものが違う。土佐の中だけにいた頃より、人も考えもずっと多い。
土佐藩を動かすのは武市がやればいい。
では、自分は何をする。
藩の中で上士や吉田東洋に睨まれながら動くことだけが道なのか。
脱藩。
その二文字が、龍馬の中に引っかかった。
久坂から武市への返書を受け取った龍馬は、長州を離れ、やがて土佐へ戻った。
旅を終えたその足で武市のもとへ向かい、預かった返書を渡す。
「長州はどうじゃった」
「いろいろ勉強になったぜよ。土佐はどうじゃ」
「難しいな」
武市は苦い顔をした。
「藩の重役とのつながりはできた。京の情勢も加尾から入る。他藩との連携も進みゆう。けんど一つだけ、どうにもならん壁がある」
「吉田東洋か」
「そうじゃ」
吉田東洋は土佐藩の参政として改革を進め、財政や産業を立て直していた。
有能なのは間違いない。だが幕府寄りで開国にも理解を示し、勤王党の動きを警戒している。
武市にとっては最大の障害だった。
「いっそ斬っちゃえ」
龍馬が軽く言うと、武市は呆れた顔をした。
「気軽に言うなや。勤王党の過激な連中は東洋を斬れ斬れ言いゆうが、お前はもう少し違うと思うちょったぞ」
「わしだって過激な志士ぜよ。旅をして、ちょっと思うところもあってな」
龍馬は姿勢を正した。
ここからは冗談ではない。
「このまま土佐におっても、吉田東洋や上士らに押さえられて思うように動けん。じゃき、いっそのこと脱藩も考えちゅう」
言ってしまった。
まだ決めたわけではない。
だが龍馬なりに、かなり真剣な告白だった。
武市は少し目を見開き、それから妙に納得した顔になった。
「なんじゃ。龍馬もか」
「……も?」
「吉村寅太郎と沢村惣之丞が脱藩することになった」
「他にもおるがか!」
龍馬は思わず声を上げた。
こちらは腹を決めるかどうか悩み抜いて、重々しく打ち明けたのだ。
先客が二人もいた。
何だ、この恥ずかしさは。
「脱藩して藩外へ出ても、勤王党とは協力してくれ」
「軽いのう!」
「何がじゃ」
「いや、もっと止めるとか、考え直せとかないがか」
「お前が決めたことなら、わしが止めても仕方ないろう」
武市は当然のように言った。
「ほんなら、早めに龍馬の脱藩の準備も整えるか」
「待て待て! まだ決心してないぜよ!」
気が早すぎる。
悩みを打ち明けたら、もう旅支度の話になっている。
だが龍馬の胸の奥では、長州で聞いた久坂の言葉が再び響いていた。
藩の外へ出る。
自分の意思で、日本中を歩く。
その道は、思っていたより近くまで来ているのかもしれなかった。




