第5話 坂本龍馬は友だちが出来る
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十四歳になった龍馬は、ついに剣術道場へ入門した。土佐でも名の知られた日根野道場である。
稽古は厳しい。朝から木刀を振り、打ち込み、足運びを繰り返し、年上の門弟と組めば遠慮なく叩きのめされる。普通の少年なら顔をしかめるところだった。
だが龍馬には、むしろ希望が見えていた。道場へ通えば、乙女の個人特訓が減る。つまり、どれほど厳しい道場でも乙女一人よりはましである。普通なら逆だ。龍馬の場合は違った。
実際、日根野道場へ通い始めてから乙女の特訓は目に見えて減った。龍馬は心の底から喜んだ。
木刀で叩かれる相手が姉から道場の先輩へ変わっただけだが、少なくとも道場には決まりがある。休憩がある。終わる時間もある。
乙女には、その三つがなかった。何より、道場の先輩は龍馬を川へ放り込まない。それだけで十分だった。
ところが、ある日の夕食時、乙女が箸を止めた。
「今日は道場でずいぶんやられたようやね」
「五つも年上の先輩が相手じゃったき、仕方ないぜよ」
「年は関係ありゃせん」
龍馬の箸も止まった。嫌な予感がする。非常に嫌な予感がする。
「このままでは坂本龍馬は弱いちゅう評判が立つきに」
「いや、道場では普通に――」
「明日は庭で剣術の特訓じゃ。心得ちょき」
食欲が消えた。
頻度は減った。だが消滅はしていなかった。坂本のお仁王様はいまだ健在である。
そんな龍馬が日根野道場で最初に親しくなったのが、那須信吾だった。
信吾は剣が強かった。動きに無駄がなく、踏み込みも鋭い。龍馬が相手になると、こちらが構えを整える前に一本取られることさえある。
「また負けたのう、龍馬」
「言わんでも分かっちゅう」
「今日は三本とも早かったぞ」
「慰めるなら、もうちっと言い方を考えてくれんか」
信吾は笑った。龍馬は悔しかった。だが、不思議と嫌ではない。
乙女に負ける時とは違って、信吾との稽古では、どうして負けたかが分かる。足が遅かった。間合いを読み違えた。相手の誘いに乗った。負けるたびに次へつながるものがあった。
これが普通の稽古というものか。
龍馬は少し感動した。今まで基準が乙女だったため、かなり感覚がおかしくなっている。
ある日、稽古が終わった後、信吾が龍馬の腕にできた古い痣を見た。
「それ、今日の稽古の痣やないろう」
「乙女姉ちゃんじゃ」
「またか」
「またじゃ」
信吾は少し黙った。そして真顔で言った。
「よう生きちゅうのう」
龍馬は思わず信吾の肩を掴んだ。分かってくれる者がいた。初めてだった。
「信吾、おまんだけじゃ。俺の苦しみを分かってくれるがは」
「いや、そこまで大げさに言うた覚えはないぞ」
「今日から親友ぜよ」
「勝手に決めるな」
だが、それ以来二人はよく一緒に稽古するようになった。信吾は剣の腕では龍馬より一歩先を行く。龍馬は悔しくて食らいつく。
信吾もまた、どれだけ倒されても妙にへこたれない龍馬を面白がった。乙女の地獄のシゴキが、こんなところで役に立つ。
認めたくない。非常に認めたくない。
だが、何度転ばされても立ち上がる癖だけは、確かに身体へ染みついていた。
信吾とは剣の話だけではなく、城下の噂や武士のあり方についても話した。龍馬は難しい話になるとすぐ茶化したが、信吾は真面目に付き合う。
時に意見が違っても、二人はそれで喧嘩別れすることはなかった。その時の龍馬には、まさかこの道場仲間が後に大きな騒ぎの中へ飛び込んでいくことなど知る由もない。
今はただ、木刀を持って殴り合い、終われば笑う仲間だった。
もう一人、龍馬が日根野道場で親しくなったのが中岡慎太郎だった。
慎太郎は龍馬より年下だった。最初に見た時、龍馬は少し安心した。やっと自分より下が来た。これで少しくらい先輩面ができる。その程度のことを考えていた。
「龍馬さん、そこ、足が開きすぎちゅうと思います」
「……おまん、今なんちゅうた?」
「足が開きすぎちゅうき、踏み込んだ時に遅れるがです」
「俺は先輩ぞ」
「先輩でも間違いは間違いじゃろ」
可愛くない。まったく可愛くない。年下というのは、もっと素直に先輩を立てるものではないのか。
だが慎太郎は生意気なのではなく、単に真面目だった。分からないことは聞く。気づいたことは言う。年上だから黙るという発想があまりない。その代わり、自分が間違っていれば素直に認めた。
「さっきの打ち込み、龍馬さんの方が速かったです」
「分かればええ」
「ただ、次は負けんです」
「そこは一回くらい素直に褒めて終われんか」
龍馬は呆れながらも、慎太郎を気に入った。年下ではあるが、妙に芯が強い。真面目で、少し頑固で、筋の通らないことを嫌う。しかも龍馬の冗談を完全には無視しない。
信吾とは違う意味で話しやすかった。
三人で稽古を終えた後、道場の隅で座り込むことも増えた。
「龍馬、今日も乙女さんの稽古があるがか」
「ある」
「道場のあとに?」
「ある」
「休んだらええやないですか」
「慎太郎、おまんはまだ乙女姉ちゃんを知らん」
「休む言うたら怒るがです?」
「怒るだけなら楽じゃ」
「何されるがです?」
「聞かん方がええ」
信吾が黙って龍馬の肩を叩いた。慎太郎も何となく察したらしい。二人の顔には、同情が浮かんでいた。
龍馬は少し嬉しかった。同情から始まる友情というのも、世の中にはあるらしい。
それから三人は、稽古のたびに顔を合わせるようになった。信吾は剣で龍馬を引っ張る。慎太郎は年下ながら遠慮なく口を出す。龍馬は二人の間で軽口を叩きながら、それでも負けまいと木刀を握る。
性格は違った。だが、不思議と馬が合った。
まだ誰も、勤王だ攘夷だと声を張り上げてはいない。まだ誰も、これから先の土佐が大きく揺れることを知らない。
この頃の三人にとって大事なのは、次の一本をどう取るか、その程度のことだった。
日根野道場へ通い始めた頃、龍馬は決して強い方ではなかった。それでも二年、三年と稽古を積むうちに、少しずつ様になっていった。
幼い頃から乙女に鍛えられた足腰。山道を走らされた体力。何度倒されても立たされた経験。そこへ信吾との激しい打ち合いと、道場で教わる技が加わった。
認めたくない。非常に認めたくない。
だが、乙女の地獄のシゴキが土台になっていることだけは否定できなかった。
十六歳になる頃には龍馬の身体も大きくなり、同年代の相手なら簡単には負けなくなった。信吾とも互角に近い打ち合いが増え、慎太郎には先輩らしいところを見せられるようになった。
問題は家へ帰ってからである。
それでも乙女には勝てなかった。坂本のお仁王様という通称は伊達ではない。弟が成長しても、その上を行く。
どういう仕組みなのだ、この姉は。
初めて一本を取ったのは十七歳の時だった。
乙女が上段から打ち込んでくる。龍馬は真正面から受けなかった。以前なら力で押し負けていた。だが今は違う。
信吾との稽古で覚えた間合い。道場で身につけた足運び。何度も繰り返した受けとかわし。
乙女の木刀をいなし、その横へ回り込む。一瞬だけ籠手が空いた。龍馬は迷わず打った。
乾いた音が響く。
「取った!」
思わず声が出た。長かった。何年かかったことか。
これで少しは認めてもらえる。龍馬は胸を張った。
「侍のくせに小技に頼るとは、男が小さいき」
乙女は平然と言った。褒める気は一切ないらしい。龍馬はしばらく黙った。
勝ったはずなのに、なぜ負けたような気分になるのだろう。
それでも剣は楽しかった。昨日できなかったことが、今日はできる。信吾に負ければ悔しい。慎太郎に指摘されれば腹が立つ。そのぶん、一本取れた時は嬉しい。
道場には仲間がいた。競う相手がいた。龍馬にとって、剣はいつしか逃げ場ではなく、本当に好きなものになっていた。
このまま何事もなければ、剣によって身を立てる人生もあったのかもしれない。
だが龍馬も、信吾も、慎太郎も、やがて木刀だけでは済まない時代へ踏み込んでいく。この頃の三人は、まだそんな未来を知らない。
ただ汗だくになりながら、次は誰が一本を取るかで笑い合っていた。




