第4話 坂本龍馬の初恋
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乙女の地獄のシゴキから逃げ出せる機会が、まったくないわけではなかった。継母である伊与の実家、下田屋へ使いに行く時である。下田屋は藩の御用廻船商人で、土佐藩の貿易に深く関わる大商人だった。長崎から入ってきた珍しい品も集まり、見たことのない地図やガラス瓶、舶来の道具などが並んでいる。
龍馬はここが好きだった。珍しい物が見られる。商売の話が聞ける。そして何より、ここへ来ている間は乙女の稽古がない。それだけで十分に楽園だった。
だが十三歳になった龍馬には、下田屋へ通いたくなる別の理由ができた。一人の少女と出会ったのである。
名は田鶴。
藩の貿易を取り仕切る家老の娘で、龍馬と同じ十三歳だった。龍馬は郷士の家の次男、田鶴は家老家の娘である。本来なら気軽に近づける相手ではない。だがこの時は、二人ともまだ十三歳だった。
田鶴も下田屋へ遊びに来ており、長崎から運ばれてきた珍品を面白そうに眺めていた。龍馬も同じだった。身分差より好奇心が先に立つ年頃である。
坂本家は武士の家ではあったが、暮らしの実態はかなり商人に近い。先祖は才谷屋という商家の流れで、武士として得る俸禄だけでなく、質屋などの商いから得る金が家を支えていた。だから龍馬が下田屋へ出入りし、商売や貿易の話を聞くこと自体は、家族から見ても無駄ではなかった。
龍馬はその事情を最大限に利用した。
商売の勉強じゃ。将来のためじゃ。
そう言えば、大人たちは案外簡単に納得した。乙女を除いて。
龍馬にとっては完璧だった。地獄の稽古を休める。珍しい舶来品が見られる。そして田鶴に会える。良いこと尽くめである。
「この丸いのが地球いうもんぜよ。で、ここが日本ぜよ」
「こんなに小さいんですか?」
「そうじゃ。土佐はその中でも、もっと小さいところじゃき」
龍馬は得意げに地球儀を指さした。実のところ、その知識は前日に下田屋の者から聞いたばかりである。一夜漬けだった。だが田鶴が感心したように目を輝かせるなら、それでいい。
「龍馬くん、物知りなんですね」
「まあの」
龍馬は何でもないことのように頷いた。心の中ではにやけていた。
効いた。これは効いた。
昨日、必死に覚えた甲斐があったというものだ。
それから龍馬は、下田屋へ行く回数を増やした。貿易の話を聞く。長崎から来た品を眺める。そのついでに田鶴へ説明する。
いや、本当は田鶴に会うことが目的で、商売の勉強がついでだったのだが、そこは言わなくてよい。
田鶴も龍馬と話すのを嫌がってはいないように見えた。少なくとも龍馬にはそう見えた。きっとそうだった。多分。おそらく。
その楽しい時間は、一年ほどで終わった。田鶴が嫁ぐことになったのである。
龍馬はその話を聞いた時、しばらく意味が分からなかった。まだ十四歳である。昨日まで一緒に地図を見ていた少女が、もう他家へ嫁ぐ。
武家の娘にとって結婚は家と家との結びつきでもあり、本人たちの気持ちだけで決まるものではない。理屈としては分かる。分かるが、納得できるかどうかは別だった。
龍馬と田鶴の逢瀬は終わった。
もっとも、逢瀬などと呼ぶほど色気のあることは何もしていない。二人で地球儀を眺めた。ガラス瓶を見た。龍馬が知ったかぶりをした。せいぜいその程度である。
だが十三、十四の龍馬にとっては、それで十分だった。
十四歳で嫁入り。武家の政略結婚というものは、実に容赦がない。
せっかく長崎の舶来品について覚えた。貿易の話も聞いた。地図の見方まで覚えた。全部、田鶴に格好をつけるためだったのに。
絶対に田鶴も自分に気があったはずだ。龍馬はそう思うことにした。
多分。おそらく。そうだったらいいな。
そして田鶴が嫁いだ日、龍馬は泣いた。
母を失った時とは違う。胸の中にぽっかり穴が空いたような、十四歳なりの情けない涙だった。泣くつもりなどなかった。
だが、田鶴と一緒に見た地球儀や、ガラス瓶や、得意げに語った自分の姿を思い出すと、勝手に涙が出てきた。
初恋というものは、始まる時より終わる時の方がはっきりしているらしい。龍馬はこの日、そのことを知った。
意気消沈した龍馬は、なぜか剣の稽古へ打ち込んだ。考えても仕方がない。身体を動かしていれば、田鶴のことを思い出す時間も減る。木刀を振っている間くらいは余計なことを考えずに済む。
そう思ったのである。
これがいけなかった。
乙女は弟の変化を、完全に別の方向へ受け取った。
「龍馬、最近よう気張りゆうのう」
「まあ……」
「やっとその気になったか!」
「いや、そういうわけでは――」
「ほんなら今日はいつもの倍じゃ!」
違う。そうじゃない。
失恋してやけになっているだけである。武士として目覚めたわけではない。むしろ心はかなり沈んでいる。
だが乙女は聞いていなかった。龍馬が自ら稽古へ向かうようになったことを、弟がついに武士として覚醒したのだと解釈したらしい。
木刀の回数が増えた。走る距離も増えた。休憩は減った。実に迷惑な勘違いである。
「乙女姉ちゃん、ちょっと待ってくれんか」
「何じゃ?」
「最近、稽古が前よりきつうなっちょらんか?」
「おんしがやる気になったき、姉ちゃんも応えちゃらんとの」
「応えんでええ!」
龍馬は本気でそう思った。少し冷静になった頃には手遅れだった。失恋から逃げるために剣を振ったら、今度は乙女から逃げられなくなったのである。
世の中、うまくいかない。
ある日の夕方、稽古を終えた龍馬は庭に大の字になって転がっていた。腕は上がらない。足は震えている。乙女はそんな弟を見下ろし、満足そうに頷いた。
「最近、見違えるようになったのう。田鶴さんが嫁入りした頃から、急に気合いが入ったき」
「……気づいちょったんか」
「何がじゃ?」
「いや、もうええ」
駄目だった。肝心なところだけ何も分かっていない。
龍馬は空を見上げた。初恋は終わった。田鶴はもういない。なのに、その失恋だけがなぜか龍馬の剣の腕を鍛え始めている。
まったく割に合わない。せめて田鶴が見ているところで強くなりたかった。
その横で、乙女が木刀を肩に担いだ。
「ほいたら、明日は今日の倍じゃ」
「まだ増やすがか!」
龍馬の悲鳴が庭に響いた。
初恋は甘酸っぱいものだという。少なくとも龍馬の場合、かなり汗臭かった。




