第3話 坂本龍馬はお仁王様から逃げられない
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母の幸が亡くなってから一年ほどたった頃、父の坂本八平は後妻を迎えた。名は坂本伊与。坂本龍馬にとっては新しい母である。
龍馬は、これを好機と見た。もしかすると、この人なら坂本乙女の鬼のような稽古を止めてくれるかもしれない。そう考えた龍馬は、さっそく伊与へ泣きついた。
「伊与さん、乙女姉ちゃんを止めてつかあさい。このままじゃあ、ほんまに死ぬき」
伊与は涙目で訴える龍馬を見て、さすがに気の毒そうな顔をした。そして乙女へ意見してくれることになった。龍馬は少し離れたところから、固唾をのんで見守る。頼む、新しい母上。坂本家へ来て最初の大仕事だと思って頑張ってほしい。
「乙女さん。龍馬もまだ若いですし、少し厳しすぎるのではありませんか」
「龍馬を武士として一人前に育て上げるのは、私の使命ですきに。すべて龍馬のためです」
「分かりました」
早い。あまりにも早い。戦う前から終わった。龍馬は頭を抱えた。乙女の正論という名の圧力を受けて、伊与は一撃で陥落してしまったのである。
ならば父だ。この家の主は八平である。さすがの乙女も父親から命じられれば従うしかないはずだった。
「父上! 乙女姉ちゃんに言うてつかあさい! 俺、このままじゃ死ぬぜよ!」
「う、うむ。乙女、さすがに少しやりすぎではないか」
「元はと言えば、父上が龍馬を甘やかしすぎたのが悪いのです!」
「あ、うん……」
弱い。親父、弱すぎる。坂本家の家長は誰だっただろうか。少なくとも今この場では、乙女に見える。
ならば兄の坂本権平はどうだ。家督を継ぐ兄なら、きっと弟を救ってくれる。龍馬が必死の思いで視線を送ると、権平は静かに顔をそむけた。目をそらし、見なかったことにした。兄上、それはない。
姉の千鶴と栄はすでに嫁いで家を出ている。兄・権平の妻である坂本千野に至っては、むしろ乙女の教育方針に理解を示していた。つまり味方がいない。坂本家の中で、龍馬は完全包囲されていた。
その時、龍馬の目に最後の希望が映った。兄・権平の娘である幼い姪、坂本春猪である。
「そうじゃ! 春猪、助けてつかあさい!」
「五歳の姪に泣きつくな!」
乙女の蹴りが飛んできた。痛い。やはり味方はいなかった。
そんな坂本家から逃げるようにして、龍馬がよく訪ねたのが遠縁にあたる武市半平太の家だった。武市は龍馬より六歳年上で、生真面目だが面倒見のよい青年である。剣術にも学問にも熱心で、龍馬から見れば自分とは正反対の人間だった。
「今日はうまく逃げてきたか」
龍馬の顔を見るなり、武市は苦笑した。
「笑い事やないぜよ。今日も危うく殺されるところじゃった」
「乙女さんも、おんしのためを思うちゅうがじゃろ」
「思うだけにしてほしいがじゃ」
龍馬と武市は、年齢が離れている割によく気が合った。武市は年下だからと威張ることもなく、龍馬のくだらない冗談にも付き合ってくれる。以前、龍馬が武市の立派な顎を見てアゴ野郎などという失礼極まりない渾名をつけた時も、本気では怒らなかった。
その代わり、龍馬の顔にある痣を見てアザ小僧と呼び返した。そこはやり返すのか。生真面目なくせに、妙なところで子供っぽい男である。
しかも武市家は白札と呼ばれる家格だった。土佐では郷士の中にも細かな身分差があり、白札は郷士の中ではかなり上に位置する。本来なら六歳年上で家格まで上なら、もっと上下関係が厳しくてもおかしくない。だが武市は龍馬を必要以上に子供扱いしなかった。それが龍馬には心地よかった。
「武市さんからも乙女姉ちゃんに言うてくれんか。俺はこのままじゃほんまに死ぬぜよ」
「武士というものは、苦難の中で己を磨くものじゃ。龍馬もそのうち分かる」
「分かる前に死ぬと言いゆうんじゃ」
龍馬は深いため息をついた。武市は生真面目だった。努力して己を鍛えるという考えそのものは正しいのだろう。問題は、乙女の稽古が努力とか根性とか、そんな普通の言葉で片づけられる範囲を軽々と越えていることである。あれは稽古ではない。シゴキでもない。もっとおぞましい何かだ。
それでも龍馬は武市を慕っていた。文武両道で、生真面目なのに気さくで、面倒見もよい。龍馬の知る限り、かなり理想的な武士である。顎がでかいことを除けば。
「武市さん、龍馬は来ちょらんかの」
外から聞き慣れた声がした瞬間、龍馬の背筋が凍った。まずい。どうしてここが分かった。慌てて部屋の隅へ隠れようとした、その時だった。
「乙女さん、龍馬はここにおりますき」
武市が即答した。龍馬の動きが止まり、ゆっくり振り返る。武市は涼しい顔をしていた。前言撤回。この男、裏切り者である。
「アゴ野郎! 俺を売りやがったな!」
「しっかりしごかれてこいよ、アザ小僧」
そこへ乙女がずかずかと入ってきた。
「こらっ、龍馬! 武市さんになんてことを言うが!」
「姉ちゃん、話を聞いてつかあさい! 今のは売られた者として当然の抗議――」
「今日はいつもの倍じゃきね」
「なんでそうなるがじゃ!」
乙女は龍馬の耳をつまんだ。逃げようとしても、もう遅い。
「武市さん、すいません。連れて帰りますき」
「おう。しっかり鍛えてやってつかあさい」
「武市大先生! そこは止めるところじゃろ!」
武市は笑いながら手を振った。
「達者でな」
「死地へ送るみたいに言うなぁ!」
龍馬の悲鳴を残し、乙女は弟を引きずって帰っていった。それからも龍馬は何度か武市の家へ逃げ込んだが、そのたび乙女に見つかって連れ戻された。
龍馬にとっては笑い事ではない。それでも、逃げ込める場所があるだけまだましだった。たとえその避難先が、敵を見つけた瞬間に自分を差し出す男の家だったとしても。




