第2話 坂本龍馬は姉に殺されかける
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乙女の特訓は剣だけでは終わらなかった。ある日、乙女は縄と風呂敷を手にして龍馬の前へ現れた。嫌な予感しかしない。最近、この姉が縄を持っている時に、ろくなことが起きた試しがない。そして今回も、その予感は見事に当たった。
「龍馬には基礎の体力が足らん」
乙女はそう断言すると、風呂敷へ石を詰め始めた。それを龍馬の肩、腰、背中へ次々と括りつけていく。全部合わせれば十キロほどある。十二歳の少年には、立っているだけでも十分に重かった。
「乙女姉ちゃん、何しゆうがじゃ」
「見れば分かるろう。重りじゃ」
「そこは分かっちゅう! なんで俺につけゆうが!」
「鍛えるためじゃ」
見事に会話が噛み合っていない。龍馬は身体を起こそうとしたが、すでに足がふらついている。これで何をさせるつもりなのか。考えたくないが、考えなくても分かる気がする。どうせ碌でもない。
「まさか、このまま一日過ごせとか言わんろうのう」
「そんな変な格好で一日おらせるわけないろう」
龍馬はほっと息を吐いた。よかった。乙女にもまだ人間らしい常識が残っていたらしい。
「山道を五里ほど走る間だけじゃ」
前言撤回である。人間らしい常識など最初からなかった。五里といえば、今の距離にすれば二十キロ近い。しかも平地ではなく山道、そのうえ十キロほどの石つきである。
「五里!?」
「五里じゃ」
「そんなに走れるわけないろう!」
「走ってみんと分からん」
「やる前から分かるき!」
何の修行なのか分からない。武士になるより先に腰を壊し、その前に足まで折れそうだった。どう考えても順番がおかしい。
「安心せい。姉ちゃんも一緒に走ってやるき」
「何一つ安心できん!」
むしろ逃亡防止の監視役がついただけだった。龍馬には、乙女が弟を鍛えているのか、罪人を護送しているのか分からなくなってきた。
それでも走らされた。一里を越えた頃には息が上がり、足取りはふらふらになった。それなのに乙女は平然と前を走っている。重りを背負っているのは龍馬だけとはいえ、それにしても元気すぎる。
「乙女姉ちゃん……ちょっと休まんか?」
「まだ一里ちょっとじゃ」
「俺にはもう十里くらいに感じる」
「気のせいじゃ」
「気のせいで足が動かんなるか!」
もちろん休ませてもらえなかった。二里ほど進んだところで、とうとう龍馬の足がもつれ、そのまま道端へ倒れ込んだ。仰向けになって空を見上げても、足も腕も動かしたくない。
「もう……無理じゃ……」
「まだ二里じゃぞ」
「俺の身体には十里くらい走ったように感じるがじゃ……」
「なっちょらん」
そこだけ妙に厳密だった。そして龍馬の意識は、そのまま途切れた。
次に目を覚ました時、身体が上下に揺れていた。乙女の背中だった。あれだけ無茶をさせておきながら、本当に倒れれば背負って帰ってくれるらしい。龍馬は少しだけ姉の優しさを思い出した。
「乙女姉ちゃん」
「起きたか」
「今日の稽古は、もう終わりじゃろ」
「ああ。今日はの」
「……今日は?」
「明日またやるき」
良くなかった。まったく良くなかった。思い出した優しさは一瞬で消えた。
結局、この修行は龍馬が五里を走り切れるようになるまで何度も続けられた。ようやく五里を走れるようになった龍馬は、これで特訓も少しは楽になると思っていた。少なくとも、この時だけは。
そして乙女の特訓は、ついに水の中へまで広がった。ある日、龍馬は胴へ縄を巻かれていた。縄は二メートルほど伸び、その先には長い棒が括りつけられている。どう見ても罪人だったし、罪人でももう少し丁寧に扱われるのではないかと思う。
「乙女姉ちゃん、今日は何をする気ながじゃ」
「動くな。結びにくい」
「何で俺が縛られゆうか聞いちゅう!」
乙女は結び目を確かめると、満足そうに頷いた。
「龍馬。おんし、その年になっても泳げんそうじゃの」
「それと、この縄に何の関係があるがじゃ?」
「すぐ分かるき」
「分からんままでいたいがじゃが」
願いは聞き入れられなかった。連れて行かれた先は川だった。龍馬は水面を見て、腰の縄を見て、乙女の持つ棒を見る。嫌な予感しかしない。
「水練の特訓じゃき」
「やっぱりか!」
「飛び込め」
「嫌じゃ!」
即答だった。
「何を言いゆう。泳げるようになりたいがじゃろ?」
「泳げるようにはなりたい! 死にとうはない!」
「死なんき」
「何を根拠に!」
乙女は持っていた棒を軽く持ち上げた。
「溺れたら、これで引っ張り上げちゃる」
龍馬は棒を見て、縄を見て、自分を見て、もう一度棒を見た。どう見ても釣りだった。しかも餌は自分である。
「俺は魚か!」
「魚なら最初から泳げるろう」
「そういう問題じゃないき!」
しかも着物を着たままだった。泳げる者でも服を着れば身体は重くなる。それを、まだ一度もまともに泳いだことのない人間にやらせようとしている。無理である。いや、本当に無理だった。
「せめて着物くらい脱がせてくれんか?」
「服を着たまま川へ落ちることもあるき。その稽古じゃ」
「まだ普通にも泳げんがぞ!」
「じゃから練習するがじゃ」
「順番がおかしい!」
龍馬は必死に理屈を並べた。まず浅瀬で手足の動かし方を覚え、次に腰くらいまで水へ入り、それから少しずつ深いところへ行く。それが普通ではないのか。少なくとも、いきなり服を着たまま川へ投げ込むよりは普通だ。
乙女は首を傾げた。
「実際に入れば覚える」
「覚える前に死ぬ!」
「溺れたら引き上げる言うたろう」
「溺れるところまで予定に入れるな!」
なおも抗議しようとした瞬間、乙女が龍馬の首根っこを掴んだ。
「待て待て待て!」
「死ぬ気でもがけや。何度か溺れたら、そのうち泳げるようになるき」
「何度も溺れる予定なんか!」
身体が宙へ浮いた。
「乙女姉ちゃん! 話し合いを――」
最後まで言わせてもらえず、そのまま川へ放り込まれた。冷たい水が全身を包み、着物が一気に水を吸う。足が底につかず、手足を動かしても身体は浮かない。
「た、助け――」
水を飲み、身体が沈み、息ができなくなる。これはまずい。本当にまずい。訓練で死んだら、母ちゃんに何と説明するつもりなのだ、この姉は。
その瞬間、腰の縄が強く引かれた。乙女が棒ごと縄を引き寄せ、龍馬の身体を岸へ引き上げる。龍馬は四つん這いになって水を吐いた。
「げほっ、げほっ……!」
「どうじゃ?」
「どうじゃじゃない! 本当に溺れたぜよ!」
「じゃが生きちゅう」
「結果論じゃ!」
乙女は腕を組んで少し考えた。さすがに反省したかと龍馬は期待したが、その期待はすぐに裏切られた。
「ほんなら、もう一度じゃ」
「何でそうなるがじゃ!」
二回目も溺れ、三回目も溺れ、四回目でようやく少しだけ前へ進めた。
「おお、泳げたじゃないか!」
「その前に三回死にかけちゅう!」
龍馬本人としては笑えない。だが、人間とは追い詰められると何とかするものらしい。何度も水へ放り込まれているうちに、身体が少しずつ動きを覚えていった。手で水を掻き、足を動かし、顔を上げて息をする。やがて、どうにか川を泳げるようになった。
龍馬は心から喜んだ。これでようやく、この地獄の水練から解放される。そう思ったある日、乙女が石を持って現れた瞬間、龍馬の顔から笑みが消えた。
「乙女姉ちゃん」
「何じゃ」
「その石は何に使うがじゃ」
「おんしにつける」
「またそれか!」
今度の石は五キロほどあった。
「何で泳げるようになったのに、また重りをつけるがじゃ!」
「荷を持ったまま川へ落ちることもあるろう」
「そんな不運が何度もあるか!」
「備えあれば憂いなしじゃ」
「憂いを作りゆうのは乙女姉ちゃんじゃ!」
もちろん抗議は採用されず、龍馬はさらに三回、溺れかけた。
こうして龍馬の少年時代は、乙女の特訓によって少しずつ変わっていった。石を背負って山道を走らされ、縄をつけて川へ放り込まれる。教育として正しいかどうかはかなり怪しいし、むしろ怪しいどころではない。だが効果だけは確かにあった。
以前なら少し走っただけで音を上げていた龍馬が、やがて長い山道を走れるようになった。水へ落ちても、以前ほど慌てず岸まで泳げるようになった。龍馬には、この水練が何の役に立つのかまだ分からなかったが、少なくとも自分が前より丈夫になったことだけは認めざるを得なかった。
ただし、今の龍馬にもっとはっきり分かっていることもある。乙女姉ちゃんに捕まったら、今日もろくなことにならない。
「龍馬ぁ! どこへ行ったぁ!」
屋敷の向こうから乙女の声が響き、龍馬の肩が跳ねた。この姉に関してだけは、嫌な予感が外れたことはほとんどない。
龍馬はそっと立ち上がった。まず逃げる。話はそれからである。




